まえ通ります
アパートの狭苦しい一室。俺は寝ぼけ眼で座っていた。いまは何時だろうか。とうに日付は替わっているはずだから、午前二時くらいか。
俺は大きく欠伸をした。
すると、細めた視界の端に突然何かが飛びだしてきた。
「あ、おばんですー」
現れたのは、痩せた男だった。浴衣のような薄手の和装で、壁から体を突きだしている。そして、その体は透けていた。
俺は、驚きで声も出なかった。
「ちょーっと、失礼しますねー」
ぺこぺこと頭を下げながら目の前を過ぎていく。壁からするりと出てきた下半身は先細りで足がなく、男は宙を漂いながら向かい側の壁に飛び込んでいった。
信じられないようなものを目にしたものの、それが何なのかは即座に理解していた。幽霊だ。幽霊が通り過ぎて行ったのだ。
体はすっかり硬直していた。心霊現象なんていまだかつて出会ったことはない。眠気なんて吹き飛んでしまった。
しかし恐怖はなかった。驚きは大きかったものの、いまの男には害意があった様子はなく、実際に何かされたわけでもなかった。ただ通り過ぎて行っただけだ。その顔こそ青白くいかにも不健康そうではあったが、血まみれということもなく、見た目の不気味さもなかった。
男が消えていった壁をぽかんとした顔で見つめていると、反対側の壁からまた何かが出てきた。
「お、悪いな。前を通るぞ」
今度は鬼だ。筋骨隆々で半裸の鬼。体色は灰で、頭には立派な角が一本。正確に鬼であるかは知識不足でわからないが、見た目にはそうとしか言えない。
鬼となれば今度こそ何かされるんじゃないかと俺は身構えた。しかし、
「じゃあな」
そんな言葉を残して、鬼は壁の中へ消えていった。目の前を通っただけだった。
連続して現れた謎の通行人たちに対し、俺は驚くしかない。何が起こっているのか皆目見当がつかなかった。
そして、それはさらに続いた。壁から出てきて目の前を通り、また壁の中へ。着物姿の女に、尻尾が二本ある猫に、セーラー服姿の女子校生に、ぼろぼろの服を着たホームレスらしき男に、ふわふわと浮かぶ巨大な目玉に、すいすい泳いでいく骨剥きだしの魚に、冴えない顔をしたサラリーマンに。次々と多種多様な、生きた人間でないという共通点を持ったものたちが目の前を横切っていった。
その幽霊たちは皆、失礼とかお邪魔しますとか一言二言何かを言って通っていく。敵意はなく、俺に対してはさして関心を持つ様子もない。
中には、
「お邪魔しまーす。……お?」
俺の姿を見つけるや否や、股間を凝視してくる女の霊がいたりしたが、それも、
「いや~ん」
とか、
「……ふふっ」
とか言って、すぐに壁の中へ消えていった。俺は胸が高鳴るような恥ずかしいような何とも言えない気持ちになったが、それ以外には特に俺に対するアクションはなかった。
そんな調子で幽霊たちの姿を見ていると、俺の頭もだいぶ落ち着いて、この現象が何であるのか見当がつき始めていた。
世の中には、霊道という幽霊や妖怪の通る道があるとかいう話を聞いたことがある。時刻も丁度丑三つ時。ここが霊道になっていて、通り過ぎていくのはそこを通っている霊たちだというのが、俺の持ちうる知識から得た結論だ。
これまでは、この時間帯にはもう部屋でぐっすりだったから気づかなかっただけで、おそらく毎夜こんなことが起きていたのだ。
思えばこの部屋は家賃が安かった。念のため入居する前に調べてみたりもしたが、過去に事件的なものはなにもなかったので不思議だと思っていたのだ。
しかしまあ、俺に不都合があるわけでもないし、現にこれまでなんの問題もなかったのだから不動産会社に文句を言う気もなかった。ただ通り過ぎていくだけなら害もない。そんなことを考えているいまも幽霊たちは目の前を通り過ぎていく。
俺は大きく欠伸をした。すっかり気が緩んで眠気が戻ってきた。
害がないとわかれば、幽霊たちは放っておいてさっさと眠ってしまおう。そう思って、俺は尻を拭いて水を流してから、目の前のドアノブを掴んだ。しかし、開かない。
「あれ?」
がちゃがちゃと何度か動かしてみるがまったく開かない。
「あ、終わるまで出られないよ」
通りがかった子供の霊が、ちらりと俺を見てそう言った。そしてそのまま壁の中へ。
俺は虚ろな顔で再び座った。瞼をこすり、ため息を吐く。
今後絶対、夜中にトイレに起きるのはやめよう。




