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這いまわるもの

 自分の呼吸の音がやけにうるさく聞こえる。大きく息を吸えば、カビ臭さが鼻をついた。

「……だるっ」

 俺はうつ伏せになった状態で体の力を抜いた。軍手やツナギ越しに、固く締まった冷たい土が触れる感触。

 一時休憩だ。懐中電灯のスイッチを一度切った。

 他人の家の床下で、俺はなにをやっているのだろうか。

 自然とため息が出るが、そんなことは自明である。これは仕事だ。だからやっている。

 白蟻業者の営業として必要不可欠な床下の点検。これをやらずには営業活動は始まらない。数えきれないぐらい繰り返した自問自答をしながら、俺はつかの間の休息を得る。

 ツナギを着て軍手をしてマスクで口を覆ったら、懐中電灯片手に家の床下に単身乗り込む。床上からテレビのワイドショーの声が聞こえてくるなか、黙々と土の上を這いまわる。コンクリートの基礎は決まった箇所しか通り抜けられないので、慣れないうちはまるで迷路だ。

 季節は夏。外に比べれば日が当たらない分涼しいが、狭苦しい床下で匍匐前進をしていれば汗は滝のように流れてくる。ツナギは体に張りつき、じっとりと重たい。

 口の周りにも汗が噴き出すが、マスクを取れば強烈なカビと埃に鼻と喉がやられる。あとからひどい目にあいたくなければ、不快感と息苦しさは我慢せざるを得ない。

 暗闇の中で孤独感に苛まれながら、ぼんやりとそんなことを考えた。汗と土にまみれた体を弛緩させ、いまはとにかく休む。

「……はあ」

 そうしていると、不意に視線を感じた。誰かに見られている。

 一つではない。二つ、三つ……もっと多い。コンクリートの基礎の向こうから俺を見ている。もちろん人間なんかじゃない。テレビを見ている家主ののんきな笑い声はさっきから聞こえていて、敷地内には他の人間もいないはずだ。

 その視線には微かな敵意を感じた。領域を侵すものに対する反感と、招かれざる者に対する警戒心。営業なんて仕事をやっていれば、そんな感情にはいやでも敏感になる。

 しかしそんな視線に対し、俺は驚きも恐れもしなかった。こんな状況は稀に起こる。それを知っていた。特別に対処が必要なものというわけでもない。無視していいものなのだ。

「さて……」

 俺は両手と両膝をつけ、体を僅かに起こす。懐中電灯をつけ、前方を照らす。点検の再開だ。

 移動を始めると、視線の主たちも同じように動き始めた。おれのあとを同じようについてきているのがわかる。音も立てずにつかず離れず、遠巻きに俺を囲むような格好だ。

 そうされたところで俺がビビることはないが、その代わりに鬱陶しいという感情が湧いてきた。こっちは文字通り汗水たらして土で汚れながら働いてるってのに、不躾にじろじろと見やがって。

 仕事の邪魔にはならないものの、そのつかず離れずの距離感が余計にイライラさせる。文句があるならかかってこい、近づいてこないのならどこかへ行ってしまえ、とそう言いたくもなる。

 そんなイライラを腹の中に抑え込みながら点検を続ける。マスクの中で荒い息を吐きつつ、俺は基礎や地面に睨むような視線を飛ばし、異常はないか確認する。特に問題は見られない。

 白蟻がいたら駆除工事を勧められたのに。思わず舌打ちが出る。

 すると、暗闇で何かがきらりと光った。一瞬見えたそれは、目だった。俺を睨むように見ている目。

 ひやりとした感触が背中を走る。

「……いやいやいや」

 なにを怖がることがある。俺は軽く頭を振って気を取り直した。睨まれたからなんだってんだ。襲われることなんてない。やつらは実際のところ臆病なんだ。

 俺は頭を落ち着かせる。息苦しさと暑さで判断力が鈍っているのかもしれない。あんなものを怖がるなんてどうかしている。

 さっさと点検を終わらせてこんな所は出てしまおう。俺は急いで床下を回り、確認を済ませていった。その間も視線は絡みつくように俺を追ってきた。つかず離れず。


 そうやって全体を見終え、俺は出入り口となっている換気口から裏庭へ這い出した。

 出た瞬間、むわっとした熱気が顔を襲う。時刻は昼過ぎ。暑さはピークだ。

 立ち上がって土や埃を払おうとしたが、濡れたツナギには土がべったりとこびりついていた。それでも気休め程度に服を払いながら、俺は換気口に目を向けた。

「……あれ?」

 いま床下に出入りできる箇所はここだけだというのに、中からやつら――猫たちが出てくる様子がない。いままでおれに纏わりついていた視線は、この家の飼い猫たちのものであるはずだ。出口にいる俺を警戒して出てこないのだろうか。

 俺は額の汗を袖で拭いながら、ファスナーを腹の辺りまで開けた。服の中にたまっていた熱気が解放される。そうやって一息つきながら、換気口から少し離れてしゃがみ込む。

 猫の出入りができる床下の場合、点検中についてくるのはそう珍しいことでもない。暗くて狭い床下は猫にとっては居心地がいいらしく、おれたちが入るとまるで不審者を見るような目をしてくる。縄張り意識があるんだろうが、鬱陶しいことこの上ない。

 そんな猫の姿をこの目で拝んでやろうとしばし見ていたが、まだ出てくる様子はない。日頃から入っていない場合、物珍しさで潜り込んだはいいが出口がわからなくて出て来るのに手こずるなんてのは、ままあることだ。

「あら、終わったの?」

 唐突に、家の陰からひょいっと家主が姿を現した。俺は反射的に営業スマイルを浮かべる。

「はい。点検は終了しました」

 そして少しばつの悪そうな顔をしてみせる。

「ただ、こちら猫をお飼いになってますか?」

 俺の質問に、家主は少しまごつき、

「ええ、まあ。でももう何年も前よ。みんな死んじゃったもの」

 困ったような顔でそう言った。

「……え?」

「全部で六匹。子猫のころからずっと一緒だから悲しくてねぇ。ずっとそばにいたかったから、息子に頼んで床下に埋めてもらったの。あっ! ごめんなさいね。これは先に言っておけばよかったわね」

 あはは、と家主は笑う。

 だが、俺の目はすでに家主の方を見てはいなかった。吸い込まれるように換気口へ視線が向いた。

 いやというほど見慣れたはずのその黒い穴が、いまはとても禍々しいものに見えた。

 俺の顔は笑みのまま硬直する。

 穴の奥から、猫の鳴き声が聞こえた気がした。

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