彼我の距離
美空は自分の部屋で、ひとり悩ましげな唸り声をあげていた。
眼前にあるのは小さな苗木。そのサイズに見合った小ぶりの鉢に植えられたちっぽけな苗木である。
美空はいま右手に除菌スプレーを持っていた。トリガー部分に人差し指をかけ、いつでも発射できる構え。
その構えを維持したまま、美空は小さく唸る。眉間にはうっすらと皺が寄り、唇がもごもごと動く。
ただ指を数センチ動かせばいい。それだけで事足りる。
わかっていても、美空はそれを実行に移せていなかった。
踏ん切りがつかない。そして、怖気づいていた。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。
なにも恐れることはない。躊躇するような事でもない。
そう自分自身を説得しながら、美空は頭の中に友人である美奈の話を思い起こす。
この苗木を自分に渡した時の彼女の言葉を。
うちのお兄ちゃんは物凄くお酒が好きだったわけよ。
お兄ちゃんはわたしの十個年上で、その時は大学四年生。まだ二十一歳だったんだけど、飲酒歴は十年近く。友達とかには自分は中学から晩酌してた酒豪だって自慢にならない自慢をするような馬鹿兄だったんだけど、その言葉通りにお酒には確かに強かったの。一杯二杯じゃ当然けろっとしてて、日本酒だろうがビールだろうがワインだろうがウイスキーだろうがいくら呑んでも潰れるどころか酔った様子さえ見せないって友達たちも驚いてたみたい。お兄ちゃんは飲み会の席では口癖みたいに、「俺には神様がついてるからいくら呑んでも平気なんだ」って言ってたんだって。
そんなお兄ちゃんだからお金に余裕があればいくらでもお酒を飲みに行っててさ。バイトはしてなかったけど実家から出てなくて生活費はいらなかったし、うちはお金には困ってなかったからお兄ちゃんにはお父さんとかお祖父ちゃんからお小遣いがたっぷり出てたの。
だからお兄ちゃんはその日も友達を引っ張って全国チェーンの居酒屋に入ったらしいの。いつも通りにお酒を飲んでいつも通りに平気な顔をして、特別なことはなにもなく時間は過ぎていったんだけど、そろそろ店を出ようって時にお兄ちゃんが突然苦しそうな声を出したの。でも、お兄ちゃんの顔はいつも通り。赤くなってもないし、目の焦点が合ってないなんてこともない。酔っぱらった様子は全然ないのに、どうしてか胸の辺りを手で押さえて苦しそうな表情をしている。
友達はいままで見たこともないお兄ちゃんの姿に驚いてすぐに救急車を呼ぼうとしたんだけど、お兄ちゃんが家に帰らせてくれって言ってそのままタクシーでうちに運んだの。お兄ちゃんに肩を貸しながら、門を抜けてどうにかこうにか玄関まで連れてきた。
ただ、お兄ちゃんはそこが限界だったみたい。扉の目の前で膝を落として、がくんと頭をうな垂れさせた。いまから土下座でもするみたいな体勢になったの。その場にいた友達はそれがお腹の中のものを吐く体勢だと思ったみたいで、お兄ちゃんの背中を軽くさすったんだって。友達の予想は的中。お兄ちゃんは苦しそうな声を漏らしながら頭を前に突き出した。
でも、予想は当たってのはそこまで。友達はお兄ちゃんを見て驚きの声を上げた。
お兄ちゃんの口から飛び出しのは、緑の塊だった。ばさっと音を立てて、木の葉っぱの塊が出てきたの。口の中からはわたしたちの腕ぐらいある木の幹がにょきにょき伸びて、その先にこんもりと葉っぱがついてる。
友達が見たのは、人間の口から木が生えてるっていうあり得ない光景だったの。
この木が何なのか、美空はわかるよね。
そう、その通り。うちに伝わる神様の宿る木。持ち主に繁栄と幸福を約束する神聖なご神木だよ。
残念ながらお兄ちゃんはその日からご神木――うちにある十…………二本目になるのかな――の養分になっちゃったってわけ。お兄ちゃんのお腹の中にあったご神木の実、正確にはその中の種が発芽したってことだからさ。完全に意識がなくなって口から木を生やしたお兄ちゃんの姿はわたしも次の日の朝に見て、それはまあだいぶショッキングな光景だったしお兄ちゃんが気の毒な気もしたけど、こればっかりは仕方がない。そもそもお兄ちゃんが小っちゃい頃にお父さんたちの忠告を聞かないでご神木の実を食べたりしなければそんなことにはならなかったんだから、自業自得だもん。家族みんなお兄ちゃんがご神木の養分になることは覚悟してたし、お兄ちゃん自身もそれを受け入れてお酒をどんどん呑んでたんだから。ご神木に奉納するお神酒が少なければ、つまりお兄ちゃんがお酒を呑む量を少なくしていれば種が発芽するのはもっとずっと先だったかもだからね。
一年経ったいまではご神木は庭の一角にどっしりと根付いてるし、お兄ちゃんの体はきれいさっぱりなくなってるし。むしろ早々とお兄ちゃんが養分になってくれて家族としても良かった気がするんだよ。だってそのおかげでこうして美空に苗木をあげられたんだもん。
ご神木は定期的にお酒を捧げていれば枯れることはないけど、その代わり実から新しい苗ができることも普通ないんだ。お兄ちゃんみたいな養分、要は人柱でもないと苗ができるような実をつけてくれないの。うちの敷地に新しいご神木が生えたのは数十年ぶりだとかお爺ちゃんが言ってたもん。
お兄ちゃんの犠牲のおかげでわたしたちは幸せのおすそ分けができる。これはいいことだよ、うん。あっ、だからってこの苗木にお兄ちゃんの霊だとか精神みたいなのが宿ってるってことはないから安心してね。お兄ちゃんはただの養分だから。
それで、結局わたしが言いたいのは美空も気をつけて苗木を育ててねってこと。
最初に言った通り、ご神木に実がついても絶対に食べちゃダメだからね。お兄ちゃんみたいになっちゃうんだから。
でも、それさえ守ってればご神木は美空にとってプラスにしかならないから安心して。絶対に悪いことはないからさ。
あっ! だからって毎日高級なお酒をあげたり変な神棚みたいなのを作ったりしなくていいからね。っていうか、そうやって手をかけるとどんどん実をつけちゃってある意味逆効果だよ。
そういえば、実を食べないよう気を付けるよりも、そもそも実をつけさせないぐらいに管理するのがちょうどいいってお父さんも言ってた。神様に頼り切って心酔しても危ないし、突っぱねて乱暴に扱ってもいけない。つかず離れず、いい距離感を持つべきだって。
そうだそうだ。その方が安全だって言ってた。お酒もそんなに必要ないし、なんならいっそのこと――
そこまで思い起こし、美空は自分の目の前にある苗木に意識を戻した。
ちょうどよく付き合えば大丈夫。
友人の言葉を思いだし、意を決する。
なにも恐れることはない。
美空は、右手に持った除菌用アルコールスプレーのトリガーを引いた。




