きっかけ
ドアを閉めてかちゃりと鍵をかけてしまえば、私の頭は仕事モードへ切り替わる。そして、洋服や本、バッグが乱雑に置かれた自分の部屋を視界から消し去ることもできる。
私の朝は早い。部屋が散らかっているのは、仕事が忙しく時間にも心にもゆとりがないからだ。そうに違いない。自分に言い聞かせながら、私はエレベーターを待つ。
ただ、昔はそうじゃなかった気もする。もう十年近く前、新人の頃は覚えることだらけで忙しかったはずだが、部屋はきれいに片付いていた。あれはどうしてだろうか。ああ、男がいたからか。部屋に連れ込む相手もいなければ、そりゃあ手も回らなくなってしまう。
相手を見つけるとなると、どんな人がいいだろう。自分と同じようにのんびりとした人か。それとも、掃除もきっちりこなす生真面目で神経質な人か。包容力があって、ありのままの私を受け入れてくれる年上の男が一番楽な気もする。
そんな自分に都合のいいことを考えながら、エレベーターに乗り込む。いつも通りにボタンに指を伸ばすと、見慣れぬものが視界に入った。向かって右手側、操作盤のすぐ傍に一枚の布巾が入った小さな籠のようなものがある。籠には、『ご自由に窓をお拭きください 大家』と書かれた紙が張ってあった。
なんだこれ、というのがまず出た感想。窓というと、エレベーターの扉についている窓のことだろうか。ちらりと目をやるが、別段汚れているようには見えない。意図はわからないが、単なる大家の気まぐれのようだ。
私は布巾から目を外し、一階のボタンを押した。私の部屋は八階なので、下に着くまでは少しばかり時間がかかる。
退屈な箱の中で、自然と布巾に視線が戻る。きれいに畳まれた布巾には、汚れひとつなかった。まだ誰も使っていないようだ。
私はそれを手に取った。何の変哲もないただの布きれだ。おもむろに、窓を拭いてみる。四隅まできっちり拭くが、目立った汚れもないので見た目に大した変化はない。成果といえば、うっすらついていた埃が除けた程度だ。
布巾を籠に戻したところで、一階に到着した。軽く手をはたき、私は会社へと向かった。
布巾は夜には回収されていたが、翌日になるとまたきれいな姿で置かれていた。私は同じように窓を拭いた。相変わらず汚れてはいない。私の部屋とは対照的に綺麗なものだ。
その翌日も、翌々日も、布巾はまっさらな綺麗な姿で定位置にあった。私の方も、その度に布巾で窓を拭いた。不思議なもので、一度始めてしまうと止め時を失ってしまう。やらずにおこうかと思うと、なんだか落ち着かない気分になる。窓を拭くことで妙な達成感を覚えたりもする。そんなものの前にまず自分の部屋を片付けろという話だが、それはそれこれはこれだ。こんな布巾を目にしたところで、部屋の掃除をしようというきっかけにならないのだから仕方がない。
そんな妙な日課が続いていたある日、いつも通りに窓を拭き一階に到着するのを大人しく待っていると、三階でエレベーターが止まった。乗り込んできたのは、初めて見るスーツ姿の若い男だった。私よりも年下だろうか。朝も早いというのに、溌剌とした爽やかな雰囲気を纏っている。
会釈を交わし、私は奥に詰める。操作盤の前に立った男は『閉』ボタンを押し、流れるような動作で布巾に手を伸ばした。
「あ」
意識せず、声が出た。男が振り向き、きょとんとした顔をする。私は慌てて弁解する。
「すみません、さっき拭いたところだったので、思わず……」
「ああ、そうだったんですね。僕が拭いたら二度手間になっちゃいますね」
男は笑いながら布巾を籠に戻した。私も笑みを返す。
そうこうしている間に、エレベーターは一階に着いた。男が『開』のボタンを押してくれていたので、軽く頭を下げて先に降りる。そのまま背後を見れば、何故か男はエレベーターに乗ったままだ。そのまま扉も閉まる。
不思議に思って見ていると、男は布巾を手にして窓を拭き始めた。手早くそれを済ませ、布巾をきれいに畳み直して籠に戻す。扉が開き、ようやく男は降りた。はにかみながら、言い訳するように口を開く。
「無駄だとわかってても、なんか気分が落ち着かなくて。性格なんですかねぇ」
少し照れたその顔に、少年のようなあどけなさを感じる。
ふむ。年下というのも、悪くないかもしれない。
「そういうこと、ありますよね」
微笑みながら、言葉を返した。そのまま軽く言葉を交わしながらマンションの外へ出る。
幸い、明日は休みだ。部屋を徹底的に掃除しようと私は決意した。




