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ひそやかな危険

 私は、唾を吐くということができない。口からぺっと吐き出すあれができないのだ。別に技術的な問題ではなく、これは気分だ。なにしろ子供のころはそんなことはなかった。むしろ暇さえあれば側溝やら草むらやらに唾を吐いていた。唾液は無限に湧き出るわけではないので、そう自由に吐いていたとはいえないが、癖と言っていいぐらいには唾を吐いていた。我ながら嫌な子供である。

 いまとなってはそんなことも遠く昔。唾を吐くといったら、水で口をゆすいでそれと一緒に吐き出すのが常だ。道端に吐くなんてことはいまの私には絶対になかった。

 私が子供時代から一転してそんな風になったのは、幼い頃に父親からある話を聞いたからだった。

 父は物静かで、仕草や振る舞いもどこか上品さのある人間だ。別に生まれや育ちがことさらいいわけではないと思うが、子供の時分からおっとりした性格で、妻を娶り子供をもうけてもそれが変わらなかったらしい。

 そんな人間だから、父が道端に唾を吐くところなんて私はいまに至るまで見たことはなかった。私の癖は、ドラマや映画の影響を受けてしみついてしまったのだと思う。

 ある日、父は私を自分の傍へ呼びつけた。倫理観や道徳には厳しい人だから小言を言われるのはそう珍しいことでもなかったが、一言二言言葉をかけるのではなくわざわざ呼びつけるなんてことは、年に一度あるかないかという位だった。私は少し面食らいながらも大人しく父親の傍にいって正座した。

 父は話があると切り出した。そして、私の唾を吐く癖について言及した。私は、とうとう言われたかという思いだった。唾を吐くという行為があまりよろしくないというのは当然ながら自覚していたし、いつか注意されるだろうというのもとっくに覚悟していたのだ。少々ばつの悪さはあったものの、委縮することもなく神妙な顔をして父の言うことを聞いていた。

「どうしてやってはいけないかわかるか?」

 父が言った。頭ごなしに禁止するのではなく、なぜいけないのかを本人に理解させようというのだ。父はそういう手順をしっかり踏む人間だった。

「汚いし……行儀が悪いから」

 私はそう答えた。口調はおぼつかなかったが、言っていること自体は正しいという自負があった。しかし、

「それもそうだが、それだけじゃない。もっと大事なことがある。それは、身の安全を守るためだ」

 父はそう言ったのだ。え? と思わず聞き返してしまったことを覚えている。父の言葉は、私の考えの外にあるものだった。身の安全を守るためとはどういう意味だ。唾を吐いているところを見た年上の子供や大人たちに、生意気だと殴られたりする可能性があるということだろうか。

 怪訝な顔をする私に、

「雨上がりの日に、水溜りに唾を吐いたことがあるか?」

 父は突然そう訊ねた。話の繋がりを感じられない問いに、わけがわからぬまま私は頷いた。

「それがいけない。水溜りに唾を吐くのが危険なんだ」

 そこから、父は語った。

「学校で習ったかもしれないが、水っていうのは生物の起源だ。人間も動物も魚もなにもかも、先祖の先祖を辿っていって昔の昔を突き詰めていけば、そこは海になる。生みの中で生まれた微生物が生物の起源。つまり、海の中には命の源があると言ってもいい」

 私は何の話が始まったのかと混乱していたが、取りあえずふんふんと頷きながら聞いていた。

「そして、人間の唾液。お前が吐いている唾だ。こっちはこっちで、命の源となる情報を持っている。お前の体には、髪の毛の一本から爪の先まで、命の情報が入っているんだ。これは魂の一部といってもいい」

 私は眉をハの字にしながら頷き続けた。

「じゃあこの二つが一緒になるとどうなるか。つまりお前が水溜りに唾を吐く時だ。水溜りは命の源で、そこに唾という情報が飛び込む。すると――」

 私はそこで唾を飲んだ。父はいったい何を言うつもりだろうか。

「そこに新しい命が生まれるんだ。水溜りが意思を持って動き出す」

 私は再び声を上げた。父があまりにも素っ頓狂なことを言ったからだ。

「いや、意思を持っているというのは確かじゃない。もっと動物的、むしろ機械的なものかもしれないが、ともかく動き出す。そして人間を襲うんだ」

 今度は声も出なかった。私はぽかんと口を開けた。

「ぐわっと地面から立ち上がって、そのまま目の前にいる人間に頭から覆いかぶさる。当然その人間は体をすっぽり水で覆われることになって、そのまま体を分解されて水の栄養にされる。きれいさっぱり吸収されてしまうということだ」

 父は淡々と話していた。いつも通りに、目立った抑揚のない平坦な口調である。

「命を持った水は、その唾を吐いた張本人を吸収したら、大人しくなって元のただの水溜りに戻る。しかし、そうするまでは他の人間を吸収しながら唾を吐いた人間を探し続けるんだ。その水から逃れることは誰にもできない」

 そこで父は言葉を切った。そして、改めて私の目をまっすぐに見て、

「だからいけないんだ。わかったか?」

 言い聞かせるようにそう言った。私は、戸惑いながら頷く。

「なんだ。信じられないか? それなら実際にやってみればいい、と言いたいところだが、こればっかりはそうするわけにもいかないな。そんなことをすればお前が死んでしまう。それはさすがに困る」

 父はそう深刻でもないような調子でそう言った。その口ぶりが、私には恐ろしく感じた。父の話は荒唐無稽で子供とはいえとても信じられないようなものだったが、私にはそう思えなかったのだ。父の話し方はことさら恐怖をあおるものではなく、声も凄みを効かせたものではなかった。ひたすらに淡々と、事実を冷静に告げる話し方だったのだ。私はそこに説得力を感じた。子供だましじゃあない恐るべき事実を耳にしたとしか思えなかった。

 私は、言葉のすべてを鵜呑みにしたわけではなかったが、その時にはもう、唾を吐くなんてことは止めようと決心していた。子供特有の好奇心よりも、不可解なものに対する恐怖の方が勝ったのである。

 私は唾を吐くのをやめることを父と約束した。そしてその日以降、現在までそれを守っているのである。

 いまでも、私は父の言ったことが単なる方便なのか事実なのか確信が持てていなかった。すっかり大人になったというのにそんなことを怖がっているのかという話だが、私はいまでもそれを恐れているのだ。洗面台に口の中の水を吐き出す時、私は吐いた水がさっさと視界から消え去ってくれることをいつも願う。排水溝の中に消えていくたび、内心でほっとする。吐き出した水が重力に逆らって顔に飛びかかって来やしないかと恐れているのだ。


「――そんなことがあったんだよ」

 ある晩、私は妻にそのことを話した。その時見ていたテレビのバラエティ番組の流れか何かで私が口にしたのだ。食事時にする話でもないが、妻は特に気分を害した様子もなかった。

「それじゃあ、ペットボトルとかも駄目じゃない?」

 妻は言った。

「ペットボトル?」

「ペットボトルってちょっと飲んでから蓋をして、それからまたあとでちょっと飲んで蓋をして、ってやるじゃない。唾液が入っちゃうでしょ」

「ああ……」

 確かにその通りだ。いままでそんなことを考えたことはなかった。

「まあいまの話に関係なく、一度口をつけたらさっさと飲んだ方がいいっていうけどね。菌が繁殖するからってことで。あっ、お義父さんの話って、そういうことを防ぐために昔の人が言い伝えてたものが元になってるのかな?」

「まさか」

 私が苦笑すると、妻も笑った。それでその話は終わった。妻はテレビの方に視線を移して、すっかりそっちの方に意識が向いた。

 しかし、私は妻の言葉に少し引っかかった。唾液が入る。吐くことをしなくとも、水に唾が入ることはあり得る。その場合はどうなるのだろうか。水は動きださないのか。

 真面目に頭を悩ませるような事じゃない。それはわかっているつもりだが、しかし私は考えていた。

 ふいに、視界の中で何かが動いた。それは、味噌汁の入った椀だった。嵩が半分ほど減った味噌汁。その表面が、すっと持ち上がったのだ。広げた布の中心を指でつまんで持ち上げるように。

 ぎょっとした。次の瞬間には、私は手を伸ばしていた。椀を掴み、その中身を一息に飲み干したのだ。自分の身を守るために。

 そしてその日以降、私は水に襲われるのを恐れていた。いままでなにも気にせず生きていたが、私は危険と隣り合わせの生活を送っていたのだ。

 私は用心に用心を重ねた。食事の時、汁物は口をつけると同時に全て飲み干した。ラーメンなどの麺類は避け、酒も可能な限り断った。

 やつらはいつどこで生まれ、襲ってくるかもわからないのだ。

 そうして私は、いつからか妻との夜の営みも避けるようになった。念には念を入れなければならないからだ。

 口づけを交わすことさえ、私は恐れたのである。

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