残念な腹積もり
「たまには美味いものが喰いたいな」
そんなぼやきを、俺は心持ち口を開けた間抜けな顔で聞いていた。別に好きでそんな顔をしているわけじゃない。相手の声を正確に聞き取るために必要だからしているだけのことだ。
「贅沢は敵だ」
極力口を動かさず、短くそう言ってやる。
「少しは要望を受け入れてくれてもよくはないか?」
俺の口の中から、そんな言葉が返ってきた。
「いやだったら別のやつの口を住処にしろよ」
そう。会話の相手は、俺の口の中にいるのである。
この奇妙な生き物と出会ったのは半年ほど前だ。出会ったというか、ある朝目覚めたら口の中に潜んでいたというのが正確なところだが、ともかく突然俺の口の中に住み着き始めたのだ。見た目はトカゲみたいな爬虫類然とした感じで、大きさは小指の先程度。人間並みの知能もあるようで、流暢に会話をすることもできる。俺の口の中から出てくることはなく、口の中の、上顎だったり頬の内側だったり、時には舌の裏だったり、そんなところに張りついて生活している。口の中に何かが入っているなんて初めは邪魔で仕方なかったが、一か月もすればなぜだか慣れてしまって特に気にならなくなった。
「オレは〝喰い虫〟といって、まあ寄生生物の一種だ」
困惑する俺に向かって、こいつはそんなことを言った。人間の口の中に住み、その人間が口に入れたもののおこぼれを頂くのが目的だと、そう説明した。
俺の貧弱な知識でもっても、この喰い虫が普通の生物じゃないことはわかる。UMAか宇宙生物か、その正体は全く以てわからないが、取りあえずそのまま放っておいても俺の体に何かしらの問題が起きることはなかった。体力を吸い取られるなんてことはないし、体のどこかが変化するなんてこともなかった。
必要なことといえば、ただただものを喰わせることだけ。だから、俺は寄生されることを早々に受け入れた。幸い、職場でも同僚に気づかれることはなく、彼女とのデート中にも相手に違和感を抱かせることさえなかった。
ただ一つ誤算だったのは、喰い虫が大食漢だったことである。その小さな体でどうやって消化しているのか、こいつは大の大人一人分の食事をぺろりと平らげた。
「まあ腹八分。いや、五分ぐらいか」
なんてことを言ってのけやがる。おこぼれに預かるどころか、こいつ専用に食事が必要だったのだ。しかしいまさら文句を言っても事態が良くなるわけではない。俺はそれも受け入れ、こいつと一心同体で生活しているというわけである。
「俺はお前にいてほしいわけじゃないからな。出ていくのは自由だぞ」
さして興味がないような口調でそう言った。これは本心である。
「そんなこと言うなよ」
「だってお前がいても俺には何の得もないからな。むしろ食費が増えて迷惑を被ってる」
「そこは持ちつ持たれつだろ?」
「だから俺は持たれてないって言ってんだよ」
言いながら、俺は腰を上げて冷蔵庫の方へ向かった。無造作に開けて、中を確認する。肉や野菜がごたごたと層をなしている。一人暮らしにしては結構充実している方だと思う。
「おっ」
中を軽く手で掻き分けてみてみると、安売りしていた時に買ったらしいブロック肉のパックが出てきた。
「これ喰うか?」
「…………少し痛んでいる」
「はあ?」
消費期限を確認すれば、日付は昨日だ。
「大丈夫だろ。色も変わってないし、しっかり火を通せば食えるって」
「駄目だ。それは喰わん」
「おいおい、贅沢だろ」
俺は苦笑交じりに言った。
「俺の体内にあるセンサーが反応している。それは喰わん。喰ったらいかんものだ」
「なんだよそりゃ」
「目で見ただけで喰って良いか悪いか判断できるんだ。人間だってできるだろ? 苦いものは毒だとか、酸っぱいものは腐ってるとか。それの高性能版が俺たちには備わっているんだ」
「へぇー」
不満ありありの声でそう言って、俺は肉のパックを冷蔵庫へ戻した。これは今日中に俺が喰うこととする。
「贅沢な居候様だぜ。ったく」
「どうした? 随分機嫌が悪いな」
「ああ?」
「いまさらオレに対して不満を持ったわけでもあるまい。なにか嫌なことでもあったか?」
俺は舌打ちした。
「お前はおふくろかよ」
寄生生物にそんな言葉をかけられるのは、心地良いものではない。
人間には人間の苦悩というものがある。
俺は大根を一本手に取った。それをそのまま、端から頬張る。歯を立て、口いっぱいの大きさを噛みきる。すると、口の中からシャリシャリと音がし始める。口の中の大根は瞬く間にその体積を減少させていき、終いにはきれいさっぱりなくなる。そして、俺はまた大根を頬張る。喰い虫は小言を言うこともなく、与えられた大根を大人しく喰っている。
生野菜だろうが生肉だろうが、喰い虫は喜んで喰う。美味い物が喰いたいなんて文句を言うこともあるが、俺に言わせればそんなことは贅沢極まりない。こっちは何の見返りも義理もないのに養ってやっている身だ。一食ごとに感謝の念を述べられてもおかしくない立場である。
また舌打ちをする。
口の中から、しゃりしゃりと音が鳴り続けていた。
そんなデメリットしかない喰い虫だが、ある日俺の頭には妙案が浮かんだ。喰い虫の有効活用。その案である。
「こりゃいったいどういうことだ?」
喰い虫が珍しく困惑したような声を出したのは、寄生生活が始まってから七か月が過ぎた頃だった。
「音は聞こえてたんだから、なにがあったのかは察しがついてるだろ。これは俺の彼女だよ」
玄関に倒れている女の体を見下ろしながら、俺は言った。少しばかり息が荒くなり、服の下で汗が滲みだしてくるのを感じた。表から部屋の中まで運ぶのには骨が折れた。
「なんでお前の彼女は頭から血を垂れ流しているんだ?」
「俺が殴ったからな」
すでに彼女は事切れているはずだ。瞼は固く閉じられ、胸が呼吸で上下することもない。
学生の頃からずっと一緒だった彼女。そんな彼女が俺に別れを切り出したのは、喰い虫との生活が始まってから四か月が過ぎた頃だった。とはいっても、別に喰い虫が俺の口の中に住み着いたせいでそんなことになったわけじゃない。ではなぜかというと、それは俺にもわからない。彼女は唐突に別れを切り出し、その理由ははっきりと答えなかった。愛想を尽かしたとも言わず、他に男ができたとも言わない。のらりくらりと追及をかわしながら、とにかく別れたいと言うのだ。
「なんで殺したんだ?」
「お前に答える義理はねえよ」
俺がいくら食い下がっても、彼女の意思が覆ることはなかった。しばらく会わずに時間を置いてみても変化はなく、彼女の友人にそれとなく話を聞いてみても得られるものはなにもなかった。
俺は追い詰められた。彼女と別れるなんてことは考えられなかった。いずれ結婚し、子供を作り、二人で一緒に老いていく。俺が描いていたそんな人生プランが崩れ去ろうとしていた。喰い虫の存在は想定外だが、それは俺にとって大した障害じゃあない。
俺の中に、段々イライラが蓄積されてきたのは当然の帰結だった。なぜそんなことを言い出すのか。ただ俺を苦しめたいのか。そんなことを思い始めた。
そうして、自暴自棄というものは、意外と簡単に訪れた。
望む世界が得られないのなら、いっそ自分の手で壊してしまえ。
「それで? これをどうするつもりだ」
「喰えよ」
俺は言った。
「風呂場で解体してやるから、いままで我慢した分たらふく喰えよ。生でもいけるだろ?」
これが、喰い虫の有効活用法だ。そしてそれを思いついたからこそ、俺は彼女を殺すという手段を実行することができた。喰い虫が喰うことで、死体をなんの証拠もなく完全に消すことができる。彼女が行方不明になれば俺に疑いがかかるだろうが、肝心の死体が出てこなければ逮捕なんてことにはならないだろう。きっと大丈夫だ。そのはずだ。
しかし、
「どうした?」
せっかくご馳走を用意してやったというのに、喰い虫はなんの反応も示さなかった。歓喜の声を上げたっていいはずだ。
「おい、なんか言えよ」
「……これは喰えん」
「はあ?」
喰い虫が、ふざけたことを言い出した。
「なに言ってんだ。お前まさか倫理的に喰えないなんて言うつもりか? お前は人間じゃないんだ。牛だろうが豚だろうが人間だろうが、同じ肉だろ」
俺は早口でまくし立てた。しかし、喰い虫の方は落ち着いた声で答える。
「そういうことじゃない。これは喰えん。オレのセンサーが喰っちゃいかんといってる」
「それどういう意味だよ」
「これは病気持ちだ」
「……え?」
理解が、一瞬遅れた。
「どんな病気かしらんが、喰ったら危ないってことは確かだな。できるならさっさと処分した方がいい」
喰い虫の短い言葉で、俺の頭は真っ白になっていた。思考がおぼつかない。ぐるぐると不快感だけが巡っている。
その言葉がなにを示すのか、必死にそれだけを考えた。
わかったのは、最早取り返しがつかないということだけ。死体を処理することはできない。そして、彼女が返ってくることもない。




