間に接ぐ
「そんなに好きなら声をかけろよ」
心ここに非ずといった様子の伊達の顔を見て、俺は至極当然のことを言った。伊達ははっとした顔でこちらを向いて、
「駄目だよ。恋はちゃんとステップを踏まなきゃならない」
そう抗弁する。
学生たちで半分ほど埋まった学食の中、伊達がいましがた見ていた方向にいるのは鶴江美紀という女。伊達が惚れ込んでいる相手である。
大学の構内で彼女の姿を見た伊達は一目惚れをしてしまい、学食や講義中の教室で彼女を見つめていることが日課のようになっていた。
俺から見れば彼女は、腰まで伸びた手入れの大変そうな黒髪に化粧っ気のない地味な顔が特徴的な人物だ。しかし伊達からすれば清楚で可憐なお嬢様にしか見えず、その所作のすべてに気品があるとか。
「ステップが大事って言うなら、それこそ声をかけるべきだろ」
俺は呆れた顔で言う。それ以外にやるべきことなど考えられない。
そんな一般的な見解に対し、
「そうじゃないだろ。恋のステップの一歩目ってのは別にある」
伊達は真面目な顔でそう返す。
「恋の始まりは、なんてったって間接キスだろ」
「なに言ってんだお前」
大真面目に断言した友人を前に、反射的に冷たい言葉を返してしまった。言ってから、冗談への返しにしてはきつかったかなと思ったが、目の前の伊達の表情はそのままだった。
「いや、常識だろ。恋愛なんて間接キスから始まるものだ」
伊達は冗談では言っていない。自分で言ったことを笑い飛ばすこともせず、言葉を続けている。
「そういう風に相場が決まってる」
どこの相場だそれは。妙なことを口走り続ける友人を前に、俺は困惑するしかなかった。
「おいおい、待て。間接キスってお前、小学生じゃないんだから」
「小学生だろうが大学生だろうが同じ人間だろうが」
「いや、そもそもお前の恋は一目惚れっていう形でもう始まってるだろ。考えるべきはそこからのステップアップだろ?」
「一目惚れじゃあ駄目だ。お互いに恋を意識するには間接キス。それしかない。それこそが真理」
伊達は揺るぎない。澄んだ瞳で俺を真っ直ぐに見返してくる。
「だから俺は、美紀ちゃんとの間接キスを成し遂げてみせる!」
「いやいや、お前さぁ……」
そこから俺は伊達の説得を試みたが、いくら言葉を尽くしてもその考えを変えることはできずに終わった。
大学に入学してから知り合い、友人としてはまだ一年と少しの付き合いでしかないが、こんな妙な考えを持っているとは思わなかった。
翌日の昼、学食に姿を現した伊達は、席に着くのと同時に机の上に何かを置いた。紙パックの野菜ジュースだ。置いた時の音からして中身は空。
「飲み終わったんなら捨てて来いよ」
「バカ、これは美紀ちゃんのものだぞ。捨てられるかよ」
その時、俺は自分の耳を疑った。しかし、伊達の昨日の発言を思い返せば、その疑いはすぐに消えてなくなった。
「……それ、盗んできたのか?」
「捨てた直後に拾っただけだよ」
伊達は顔に笑みさえ浮かべてそう言った。
俺は自分の頬が引きつっているのがわかった。言葉もない。
伊達は嬉々とした様子でストローに口づけていた。
その日の午後、同じ講義を取っている伊達を教室で待っていると、やつは少し息を弾ませながらやってきた。そして席に着くと同時に、シャーペンを机に置いた。
俺は少し嫌な予感がしたが、目の前にあるのはシャーペンだ。伊達が望むのは間接キス。単なる盗癖の持ち主でないのなら、シャーペンを盗むようなことはしないはず。
しかし、そんな俺の考えを伊達自身が破壊する。
「これ、盗ってきちゃった」
開口一番、苦笑いでそんなことを言う。
「駄目だろ……。っていうか、そんなものどうすんだよ」
「彼女さあ、こうする癖があるんだよ」
伊達はシャーペンを持って両肘をつき、ペンのノック部分を口元に持っていく。
「こうやって唇にあてんの」
伊達の口元はにやりと歪む。
そんなものを隣で見せられ、俺は気分が悪くなってきた。
伊達の行いを見て見ぬ振りもできず俺は注意と説得を試みたが、それがやつに届くことはなかった。頑なに間接キスにこだわっている。病的といってもいいぐらいだ。
このまま放置しておくわけにもいかない。だから俺は、別の手に出た。
「話がある」
いつも通りに学食に来た伊達に言う。伊達はまた小言を言われるんじゃないかと僅かに顔をしかめたが、一応話を聞く姿勢にはなる。
「あの女、煙草吸ってるぞ」
「え?」
「煙草を吸ってる。お前のイメージとは結構違うみたいだな」
それは俺が調べ、この目で見た確かな情報だった。
俺が取ったのは、伊達の持つ彼女への恋心を失くしてしまうという手だ。伊達は鶴江美紀の清楚さ、お嬢様っぽい雰囲気に惹かれていて、そのイメージはかなり凝り固まっていた。おそらく煙草を吸うなんてのはもってのほかだ。しかも彼女は俺たちと同い年のはず。
まさかの事実を前に、伊達は彼女に幻滅するだろう。こんなことを言いふらすのは彼女に悪いが、伊達に思いを寄せられるよりはマシなはず。
「信じられないなら、暇なときに喫煙所をあたってみればいい。そこそこヘビースモーカーみたいだし、きっと見つけられるぞ」
俺の言葉に、伊達はなにも返さない。目を見開きショックを受けた表情をして黙っていた。
これでどうにか納まるか。俺は心の内で安堵のため息を吐いた。
しかしそれは早計だった。
翌日姿を現した伊達は、その手に何かを持っていた。
「お前、それ……」
指で挟むように持っているそれは、煙草だった。ひしゃげてしまった煙草の吸殻。
「教えてくれてありがとよ」
伊達の顔には満面の笑み。
今度は俺が目を見開く番だった。
「昨日の話は最初はびっくりしたけど、大丈夫だ。ちゃんと受けれいた。おかげでいいものも手に入ったよ」
そう言って、いかにも慣れていない仕草で煙草を口元に持っていく。そっと咥え、静かに吸った。
そして、
「……はぁー。これが彼女の味。美紀ちゃんの吐息の味なんだ」
うっとりとした顔で呟く。
俺の顔からは最早表情が消えていた。駄目だ。こいつは何を言っても駄目だ。
伊達は火もついていない煙草を美味そうに吸いながら、ポケットから四角い何かを机の上に出した。
見れば、それは煙草の箱だった。勝ったばかりの、新品の煙草。突然出てきたそれに目を奪われていると、
「気になるか?」
伊達が言った。
「これはこうするんだ」
手早く箱を空け、煙草を一本取りだす。火もつけずに口に軽く咥えた。
「こうして……」
口の隙間から、舌がうねっているのが見えた。舌先で吸い口をつつき、ねぶる。
「これを美紀ちゃんの煙草に交ぜるんだ。彼女がこれを美味そうに口に咥える。そうしたら、ようやく間接キスの成立だ」
伊達は頬を上気させている。
俺は、自分の顔から血の気が引くのを感じた。
そして、これが俺と伊達の間の最後の会話になった。




