望むトコロ
「ご主人は、本当に大丈夫でしょうか?」
暗がりの中、先輩と顔を突き合わせてわたしは言う。
「ご主人は十分実力のあるギャンブラーですけど、相手の名の売れ方と言ったら半端じゃない。今日こそは危ないんじゃないですか?」
「何を心配しているんだ。大丈夫さ。ご主人を信じようじゃないか」
先輩は笑い顔でそんなことを言った。わたしはそれを聞いても安心することはできない。
「もし負けたら、わたしは……」
言葉にすればそれが現実になってしまう気がして、その先は言えなかった。
「おいおい、何を不安がっている。勝負が終わってもお前はまたここに戻る。奪われやしないさ。ご主人がそれを許さんよ」
先輩の力強い言葉。
わたしは先輩を縋るような目で見る。
「俺が保証するさ」
ちゃちな不安を消し飛ばすような、歯を見せた笑みが返ってきた。
「負ける準備はちゃんとしてきたかよ、おい」
ご主人の、威嚇と嘲りの混じり合った声が飛ぶ。
「そいつはどんな準備だ? 生まれてこの方しかことがなくてよ。教えてくれねえか」
「出すもんを持ってきたかって話だ」
相手はそれに対して鼻で笑い、
「そんな心配は勝ってからしろよ。まあ、そんなことはありえねえけどな」
吐き捨てるように言った。
ご主人は名うてのギャンブラーだ。街のあちこちの酒場で、ポーカーで勝負をしている。チップなんてものはなく、卓の上ではくしゃくしゃになった札が舞う。ご主人はまだまだベテランとは言えないが、ここいらでは知らない者はいないと言ってもいいぐらいの腕前を持っている。
だから、対峙する相手も当然力のある者が増えていく。今夜の相手はご主人以上に名の知れたギャンブラーである。年齢はほとんど変わらないようだが、そのキャリアの長さが違う。幼い頃から勝負に慣れ親しみ、息をするように賭け事に興じていたという話だ。これまでに対峙した中で、圧倒的な実力者である。
先輩には励まされたものの、やはりわたしには不安があった。向こうが上手なのではないか。まだ挑むべきではなかったのではないか。
勝負が始まってからも、そんな思いが頭を巡った。そして、わたしのそんな不安は見事的中してしまったのだ。
「準備が必要なのはてめえなんじゃねえかぁ?」
勝負は一方的に進んだ。相手がイカサマをしているような様子はなく、その結果は純粋な腕の差だった。
「うッ……」
平静を装おうとしているご主人だったが、わたしの耳には喉の奥から漏れてきたような呻きが届いた。わたしの不安は一挙に膨れ上がる。それを打ち消してほしくてたまらないが、そうしてくれる先輩の姿はいまこの場にはない。
どうすることもできず、わたしはここからの逆転劇をただただ祈った。
だが、
「これで終いか。あっけねえもんだな」
現実は非情だった。勝負はあっさりと着き、相手の嘲笑が響いた。
「じゃあ、そこにある金を貰おうか。負けた時のためにてめえがせっかく準備してきたもんだしよぉ」
相手がわたしを――いや、わたしを初めとした紙幣たちを指差して言った。もう、覚悟しなければいけないのか。わたしは卓上からご主人の顔を見上げる。陰鬱な顔をしながら、なぜか額に手をあて何かを思案している風だった。
「おい、さっさとよこしな」
「……すまん、ひとついいか」
ご主人はポケットに手を突っ込み、そこから無造作に何かを取りだす。
「一部を両替してもいいか」
そこには、先輩の姿があった。ご主人の指の間に挟まった数枚の紙幣のうちのひとつ。重なり合ったその一番前に、先輩の顔が見えた。
「はあ? 偽札でも掴まそうって?」
「そんなことはしない。調べたいだけ調べてくれ、こいつは本物だ。なんなら誓約書を書いてもいい」
「……まあ、そんなアホなことはしないだろうけどよ。何が目的かは知らないが。いいぜ、認めてやるよ」
相手の了承を得て、ご主人は紙幣を卓上に置いた。わたしのすぐ傍に先輩の顔が来た。
「どういうことですかッ?」
「この結果は残念だったが、安心しろ。お前は行かなくていい。万が一負けた時はこうしてくれと、事前にご主人に言っておいたんだ」
「でも、それじゃあ先輩が――」
「俺はいいんだ。むしろこれを望んでいた」
先輩は、そんな優しい嘘を言った。やるせない思いが込み上げてきたが、それを言葉にするよりも早く、わたしを除く紙幣たちはご主人の手で卓の真ん中に無造作に置かれた。
相手はそれを手にして、きっちり金額を数える。その時に見えた先輩の顔はわたしの見間違いだろうか、満面の笑みに見えた。
札を数え終わった相手は、その真紅の唇を笑みの形に変える。
「よし、オーケーだ。またいつでも相手をしてやるよ、負け犬野郎」
そう言って手にした札を折り、その豊満な胸の谷間にしまった。




