絵とする談笑
チラシの裏に、シャーペンで人の顔を描いてみる。他愛もない落書きではあるが、弘法筆を選ばずといったもので素人が見れば少しは感心する出来の仕上がりになる。元美大生というだけで、しがない会社員である僕に弘法は言い過ぎだけれども。
ものの数分で、厳めしい中年男性の顔を描き上げた。自尊心は強そうだが傲岸不遜ということはなく、その鋭い眼の奥には優しさを湛えている。そんな男だ。
僕が手にしていたシャーペンを寝かせると、男の口がぱくぱくと開いた。
「初めまして、私の名はルーカス・シュナイダー。物理学者をやっとります」
「やあ、シュナイダー博士。不躾な頼みだけど、なにか面白い話をしてくれないか」
「そうですね。では、僭越ながら少し論じてみましょうか。――えーと、アボガドロ定数をご存知かな。アボガドロ定数を以てすれば因果律も永久機関も思うがまま。フーリエ解析もくっつけてやればマクスウェルにラプラスとどちらの悪魔もユークリッド幾何学的なモンテカルロ法で、万事が精々レイリー散乱で終いになって――」
「うん。悪かったよ博士、さようなら」
僕は描いたばかりの男の顔を、シャーペンで上から塗り潰した。そうすると、男が再度口を開くことはない。
ひとつ、ため息を吐く。
僕が紙の上に描いた人間は、まるで生きているかのように喋ることができる。かといって、そこに自我があるわけじゃない。僕自身が適当に決めた名前や肩書を持って、絵と対面している人間が持つ知識や古い記憶を元にして、その人間が望む通りに喋るだけだ。
だから、学生の頃のおぼろげな物理学の知識とどこかで見聞きした単語しか知らない僕には、シュナイダー博士からまともな話を引き出すことはできなかった。いまこの場に本物の物理学者がいれば、きっと多少は面白い会話も生まれたことだろう。
この不思議な力は僕が本格的に絵を描き始めた頃に生まれたのだが、当然ながら画力そのものの向上には一切寄与するわけもなく、僕は絵の道で身を立てることはできずに今現在つまらない人生を送っている。
アパートの自室で、ひとり寂しくこんなことをしていても意味がない。そんなことはわかっている。本日は仕事も休みで、外は快晴。出かけることこそ健全である気もするが、もともと出不精なことに加え、気落ちしている今そうするという選択肢は僕になかった。
無意味とわかっていながらも、僕はまた手を動かす。
次に描くのは女性だ。緩やかに描くカーブは頬になり、真っ直ぐに伸びる線は髪になる。今度は顔だけでなく、胸から上だ。胸のラインを引くときには否が応でも力が入る。シュナイダー博士には悪いが、男女ではやはり気持ちの入りように差異がでる。
最後に大きな瞳をこれまた念入りに描いて、そうして完成したのは、見目麗しく気品が感じられながらも他者を優しく迎え入れるような包容力を持った、そんな魅力的な女性の姿である。そこまで筆一本で表現しきれているのかは実際のところ不明だが、僕が決めたのだからそうなのだ。彼女はそんな人間。決定事項。
「どうしたの、浮かない顔をして?」
さっそく優しげに声をかけてきた。
「ちょっと不安なことがあってね。まあ、僕自身のミスというか、至らないところがあってのことなんだけど……」
「そんな深く考え込むことはないわ。あなたは思慮深くて、自分自身のこともよく理解している。あなたがこうと決めたことなら、悪い結果になることなんてないわ」
「そう言ってもらえると、ありがたいな」
僕が力なく微笑むと、彼女も笑みを返す。
「あなたは本当の意味で優しい人なのよ。誰かのために何かを投げ出す覚悟のある人。世界にそんな人はどれぐらいいると思う? あなたは素晴らしい人――」
話は途中だったが、僕はたまらず彼女をシャーペンで塗り潰していた。恥ずかしさに勝てなかったからだ。自分がそんな言葉を望んでいるということを突きつけられている恥かしさと、せっかくの休みにこんなことで気を紛らわせているという恥かしさ。自分でやっておきながら、情けない話ではある。
またひとつ、ため息を吐く。
いつもの僕なら、理想的な女性を描いてお喋りを楽しもうなんてことをする必要はないのだ。なぜなら、僕には現実に恋人がいる。こんな薄っぺらいものじゃなく、触れることもできる生身の相手がいるのだ。僕のつまらない人生において、唯一の価値ある存在。
彼女は僕にとって素晴らしい女性である。どこかにデートに行くよりも、僕と他愛ない話をすることを好む。話をしている時僕の表情が好きだと言い、少し低めのこの声が好きだと言う。家で映画を見たり音楽を聴いたり、そんなことをしながら思うままに喋る。純粋な感激を伝えたり、評論めいた文句を並べてみたり、それだけで楽しいのだ。あまり遊びに出たがらない僕にとってそれは有難いし、彼女もそれを本心から望んでいる。なんて相性の良いカップルだろう。素敵すぎる。
ただ、そんな僕たちにもひとつ問題があった。お互いの仕事の関係上、休みが重なることが少ないのだ。まあ、仕方がない。学生じゃないのだから、どうしても生まれてくる問題だ。僕は少し残念な気持ちはあるものの、それほど深刻には捉えなかった。連絡を取る手段をいくらでもあるし、声が聞きたければ電話をすればいいだけのこと。いまみたいに不安になることも鬱屈した気分になることもなかった。
だが、彼女はそれだけでは満足できなかったのだ。
僕はため息の代わりに、シャーペンを握っていない左手で額を押さえた。
彼女があんなことを言わなければ、僕はこんなに憂鬱な気分を味わうことなんてなかったのだ。もしくは、僕がそれを易々と聞き入れなければよかった。そうすれば、彼女からの連絡の頻度が少なくなったり、一回あたりの話す時間が短くなったりすることはなかったはずだ。
これは、僕自身のミスだ。僕の自業自得だ。彼女にねだられたからといって、やるべきではなかった。
僕は後悔している。
なぜ、気合を入れてしっかりと色まで塗ってしまったのだろうか。
なぜ、三割増しでかっこよく書いてしまったのだろうか。
ああ……。
僕の自画像を彼女にプレゼントしたのは、やはり間違いだったのだ。




