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「そういえばホントに大丈夫だったか?」
翌日の六時間目終わり、担任が教室にやって来るまでの隙間時間に木本が話しかけてきた。捨てられた犬を笑うような目だ。
「もう六時間目終わってるけど」
「知ってるが」
その言葉が出るまでどうしてこんなに時間がかかったのかを聞きたかったのだが、なんか面倒になってきた。「……まあ、大丈夫だったけど」
結局、あれから動けるようになるまで十五分くらいかかってしまったのだが。
「風呂に入るのが辛かったよ」
かすり傷とお湯はどうしてあんなに相性が悪いのか。生きているのがつくづく嫌になるほどだ。
「あ~、それは災難だったな」
「全部お前のせいだけどな」
「でも、気持ちよかっただろ?」
そう言われると、頭の中に昨日の自分の感情が再び浮かんできた。
スリリングで、爽快で、生きてるって感じ。
「ああ。そうだな」
俺が返事すると、木本は二ッと笑った。
それを見て俺もニッと微笑む。
その時、教室のドアが開く音がした。
「はい、着席~」
担任が入ってきた。たいした特徴もないただのおっさんだ。
入って来る時間は平常運転なのだが、その声はいつもよりワントーン低く、顔の彫りも心なしか深い。
教室の生徒たちが自分の席に座り、自分の方を見るのを確認すると、担任はゆっくりと口を開いた。
「単刀直入に言います。私の財布がなくなりました」
すると、教室内がざわつき始めた。その中には「急になんだよ」という笑いも含まれている。
「笑い事ではありません。今、このことを全クラスで同時に報告しています。私はいつもズボンのポケットに財布を入れているのですが、もしかしたら授業終わりに教室か廊下で落としたのかもしれません。なので、心当たりがないかを学校の生徒全員にこうして聞いているのです」
いつもは生徒に敬語なんて使わないのに。
この異様な雰囲気に笑う人は既にいなかった。みんなが真剣ではないものの、じっと威圧的な態度の担任を見つめている。
先生は生徒の顔をひとりひとり舐め回すように眺めながら、喋った。
「もし拾ったという人がいれば名乗り出てください。今とはいません。放課後でいいので。つまり、」
そこで担任は口の動きを止め、緊張感を演出した。
「明日になっても俺の財布が俺の下に届いてなければ窃盗とみなします」
教室内の緊張感が更に強くなる。
担任は取り繕ったような無表情のまま話し始めた。
「窃盗。つまり犯罪です。犯罪は決して許されるものではありませんが、もし誰かが盗んだんだとしても、今日中ならば許します。落し物を拾ってくれたとみなします。故に、民法に書いてある通り、財布の中に入っている金額の10分の1を差し上げます」
黒と白のストライプの長財布。それが担任の財布だ。授業中にポケットからひょこっと顔を出していることも珍しくないので、みんな知っている。
先生は改めてご丁寧に「黒と白のストライプ柄の長財布だ」と説明したのだが、肝心の中身は教えてくれなかった。
その後はいつも通り解散し、放課後になった。
ほんの少しだけ、いつもより教室があわあわとざわついている気がする。
「財布どうなると思う?」
そんな中、木本がにやにやしながら訊いてきた。
「見つかるんじゃない? 10分の1貰えるんだろ?」
「そう言うと思った」木本は嬉しそうに笑った。「予想通りだ」
まさかお前が盗んだんじゃないだろうな、と少し思ったが、声に出して言うことはしなかった。友達を疑うのは少し気が引けたから。
「龍一は優しいからな。でも俺は、『10分の1』より『1』の方が魅力的だと思うが。それにさ、仕事場に財布なんか持ってくる方が悪い」
「まあ、そうだな……」
確かにそうだが、なんとなくそうじゃない気がする。そうであってはいけない気がする。
木本に反論しようとはさらさら思わないが、くすぐったい違和感を覚えてしまう。
それに、「龍一は優しい」という言葉が胸の内を複雑にしていた。優しいという言葉は一見誉め言葉のようだが、素直に嬉しいものではない。