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裏山の入り口となる道は、大人がなんとか五人横に並べるくらいの広さしかない。だが、しばらく進むと道がなくなり、自然なままの山の風景となる。
木々の間から緑色のトーンの光が差し込み、ここは幻想的な雰囲気さえも漂う。あちらこちらからセミや子供たちの楽しそうな高い声が聞こえてきて、心なしかこちらまで自然と楽しい気分になる。
「どっからロープの向こう行く?」木本も少し笑顔を浮かべていた。
「そうだなあ、墓石のところとかどう?」
「お、いいな」
この山の割と上の方にはラグビーボールくらいの石がひとつ、ぽつんと縦に置いてあるところがある。おそらく誰か、あるいは何かの墓なのだろう。しかし、それが何の墓なのかはあまり有名ではなく、少なくとも電車通学でここに来ている俺は知らない。時々そこには花が置かれているのだが、それを見た人は幸運になれるとか言われている。見つけた人が勝手に持って帰ったり、小学生が何も知らずにその辺にちぎってばら撒いたりするので、なかなかお目にかかることができないのだ。その石が交通事故で死者が出た道路の隅に置いてあるようなものと同じであることは確かだが、それを偲ぶ者はほとんどいない。
その墓石のところまで俺たちは到着した。
「今日も花ないな。運がよくないのかね」
木本も俺も今までそれを見たことがない。
「ただの都市伝説なのかもしれないな」
「でも、細木は見たことあるって言ってたぜ」
その石は決して汚くない。花を置いている人が定期的に磨いているのだろうか。
墓石を横目に、俺たちはその後ろにある立ち入り禁止のロープを超えた。
その先に広がる森は後ろにある木々よりもずっと緑が濃く、不気味な感じがする。
なんだか吸い込まれそうな雰囲気だ。最初に手が、次に頭が、心が、胴体が、トルコアイスのように伸びながら、足だけを残して。
「いいねえ、この怪しさ。俺の勘が正しければこの先にはきっと何かあるよ」
「何もないと思うけど。立ち入り禁止なんだから」
「いや、何かあるから立ち入り禁止なのかもしれない。どこ●もドアとかあるかもよ」
「断言するよ。ない」
「いや、行ってみないと分からないぜ~」
行くまでもなく絶対にない、と俺は呟いたのだが、木本にはうまく聞き取れなかったらしく、「なに?」と目を合わせてきた。
わざわざ同じことを言うのも面倒だな、と俺は微かに溜息する。
「いや、なんでもない」
一瞬は眉間にしわを寄せた木本だったが、俺と同じように面倒がったのか何も言わずに歩き続けた。
しばらく歩いていると、光の遮られる量が増え、空気が涼しくなってきた。
「いい避暑地だ」
木本が呟くと、俺も「うん」と頷いた。「セミはうるさいけど」
子供たちの声もずいぶん遠くなったが、逆にセミの鳴き声は大きくなった。まるで危険を知らせるサイレンのようだ。
歩いていると、更に暗くなっていきた。前方に見える木々の密度も確実に上がっている気がする。
「いい道じゃねえか、これは絶対あるぜ、どこ●もドア」
「道ですらないと思うけど」
「知らないのかよ。人が道を歩くんじゃない。人が歩いたところが道なんだよ」
「はいはい。で、なんでどこ●もドアだと思うんだよ」
「全ての道はローマに通ずるって言うだろ。きっとローマに飛べるどこ●もドアがあるんだよ」
「知らないのかよ。それ、嘘だぜ」
「おい、見てみろよ」
木本は突然前を指差した。「地面が途切れてる。崖じゃねえか」
「ごめん、俺には見えない」
俺は視力が中途半端に悪くないので、コンタクトも付けていない。木本が指差す先がぼやけていて見えていて、崖になっていることも確認できない。
「よく見えないけど、少なくともローマではないな」
木本はゲームなどの電子機器はあまり使わないせいか、視力が子供の頃からほとんど衰えていないらしい。スマホすらラインや電話以外ほとんど使わないのだとか。しかし、パソコンは俺よりずっと詳しい。世の中不平等なものだ。
近づいていくと、確かにそこで地面は途切れていた。
「崖っていうよりは急な斜面って感じだな」
角度は六十度くらい。高さは五十メートルほど。斜面の上には雑草や落ち葉が一面を覆い、たくさんの木が天に引っ張られるように生えている。足を滑らせて落ちでもしたら、ひとたまりもないだろう。
「いい道じゃねえか」木本は笑う。
「そうだな」
俺は皮肉を込めて苦笑いする。「ローマより先にあの世に辿りつきそうな素晴らしい道だ」
「そう言えばさ、大分前に来た時もこんな感じの崖あったよな」
「ん? ああ、あったな。いつのことだ、あれ」
昔、木本と俺は墓石のある場所とはまた別の立ち入り禁止エリアを進んでいき、同じような斜面を見つけたことがあった。「初めてここに来た時くらいじゃないか?」
そう言うと、木本は「ああ、そうだそうだ」と嬉しそうに手を叩いた。「思い出した。初めて裏山に来た時だったな。あれはここよりもすげえ急だったよな。飛び降りたら確実に死にそうな感じの」
「そうそう」
その時は「これは立ち入り禁止になって当然だ」と思って引き返したはずだ。
「ここは、滑り下りるくらいは、できそうだな」
その声と共にすぐ近くから視線を感じ、俺はゆっくり木本の方を向く。わくわくした目をしている。すごくわくわくした目をしている。ついでに黄ばんだ歯が口の中からひょこっと顔を出している。
「まさか……」
木本のわくわく感を悟り、脇から凄いスピードで冷たい汗が噴き出てきた。
「滑り下りようぜ!」
うわっ。
「マジで言ってんの。そんなにあの世に行きたいのかよ」
「死にはしねえよ。それに、俺はいつだってマジなんだよ。久しぶりに体中からアドレナリンが出まくってるぜ!」
「ハハハ……」
ゆっくり斜面に視線を戻してみる。
小学生の頃とかはこういうの割と大丈夫だったとは思うが、しばらく都会でこじんまりと暮らしていたせいか、ただただ怖い。
更に冷や汗が噴き出てくる。
一方、木本は体の穴という穴から燃えたぎるやる気が吹き出していた。
「俺はスーパー●イヤ人になった! 今なら空だって飛べるぜ!」
「そうだな、今なら俺も冷や汗の勢いで飛べそうだよ」
改めて下を見る。
ハハハ……、笑い声しか出ねえや。
「行くぞ! 負けたらジュース奢りだからな」
「ちょっと待て、まだ心の準備が……」
「こういうのは待てば待つほど怖くなるもんなんだよ。大丈夫、俺がついているから」
「気持ち悪いからやめてくれ」
「3、2、1、」
「ちょっと待て」
「GO!」
木本はスライディングのような姿勢で軽やかに、そして豪快に滑り始めた。
「くそっ」
仕方なく俺も同じように滑り出した。
足の裏や尻に、地面との摩擦から生まれる振動が伝わって来る。懐かしい感覚だ。
木本ほどではないが、俺も多少荒っぽい時期があった。その時の記憶が走馬灯のように頭の中を流れ、痛々しくも気持ちいい感覚が体に戻って来る。
体が空気を裂き、音を立てる。
落ち葉が水飛沫となり、宙を舞う。
滑りながらあちこちに生えている木を避け、ゴールへと下って行く。相手のパンチを避けてカウンターを与えるような感覚。と言っても実戦でそんな美技など出来た試しもないのだが。
というわけで、あと十メートルほどのところで俺は木を避け切れずに激突した。脚は避けていたのだが体が曲がり切れず、右わき腹にヒット。
一応、防御本能で右腕をクッションにすることはできたが、ダメージは大きい。バランスを崩し、残り十メートルをぎこちなく転がり落ちていった。
緑と茶色が流れながら交互に視界を覆う。時々体が浮き、バウンドする。地面に落ちている木の枝が体に何度か食い込む。
痛い、痛い、ただただ痛い。
でも、どこか快感だ。生きてる、って感じ。
結局体勢を立て直すことができないままゴール。そのまま少し転がり、木の根元におなかを打ちつけ、止まる。
「痛ってぇ……」
仰向けに倒れ、緑の木々の隙間から見える青空を見ていると、先に無事ゴールしていた木本が巨人のように視界に入ってきた。彼はしゃがみ、俺の顔をポンポンと叩く。
「そんなことよりジュースおごれよ」
「そんなことより少しは心配しろよ」
木本はハァと溜息を吐き、「仕方ねえな」と声を漏らして棒読みした。「大丈夫でございますか?」
なんか逆にムカついたが、面倒なので言い返しはしない。
「……多分、大丈夫。でもしばらく起き上がれそうにない……」
「それを大丈夫じゃないっていうんだよ」
「確かにそうだな……大丈夫じゃないかも……お前がついていたのにな」
「バカ。俺がいなければお前は死んでいた。生きてるのは俺の神秘的な力のおかげだ。感謝しな」
「バカ言うなよ……」
「本当のことだろ?」
そう言って木本は狡猾な顔で俺の網膜を覗き込む。
「……ああ」
随分昔の話だな。「よく覚えてるなそんな話。さすがは、怪物だ」
俺がそう言うと、木本は嬉しそうに黄ばんだ犬歯を見せた。「その響き、やっぱり好きだよ」
怪物。それは昔、俺が木本に助けられた時に、木本を形容して使った言葉だった。
「そんなことよりジュースおごれよ」
「分かったから黙ってくれ」
「分かってると思うけど二リットルペットボトル一本だからな」
「ごめん、分かってなかったわ」
「ハハハ、冗談だ、160円で許してやる」
許すって何を、と心の中で呟く。「痛てててて……」
自分たちが降りてきた斜面を改めて横目で見る。
二つの線がうねりながら斜面の上からここに降りてきている。
「人が道を歩くんじゃない。人が歩いたところが道なんだ」
俺は余力で蚊のような声を絞り出す。どうしてそこまでして絞り出したかは自分でもよく分からない。
木本は俺の方を見て「だろ?」と笑っている。
それを見て俺も苦しみながら笑う。
「それにしてもここ、まるで秘境みたいだな。そう思わないか?」
「確かに。モンスターをハントするゲームで、見たことあるかも」
無造作に木が生い茂り、色んな虫の声が聞こえる。人の手が加えられたような形跡は一切ない。
「うざい奴を埋めるにはベストな場所だな」
「ハハハ……面白い冗談だ」
正直声を出すのも辛いくらい痛い。擦り傷くらいしかないのだろうけど十分痛い。むしろ今になって更に痛い。アドレナリンが引いてきたからだろうか。
「いてててて……」
そして、どこか心が若返った気がする。
今よりも少し荒れていたあの頃に。