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「犬も歩けば棒に当たるっていうけどさ、まず人間も当たらないよな」
「だな」
いきなりなんだよと訝しみながらも「いつものことだから」と俺は自分に言い聞かせて頷く。「走ってるんならともかく歩いてるしな」
その日の放課後、授業が終わってすぐに木本と俺は教室を出ていた。
「その犬、きっと狂ってるんだよ」
左にいる木本の顔を見上げる。
木本は俺より頭一つ分近く背が高い。俺も決して小さくはないのだが、木本と並ぶとまるで幼い子供のようだと言われたことがある。木本は体格も大きく、ワイシャツ越しにも筋肉が隆々であることは容易にうかがえる。
「そもそも犬も歩けば棒に当たるってどういう意味だっけ、龍一。頭がおかしいって意味?」
ちなみにそんな木本の弱点は学力の低さだ。
「何かをしようとすれば思いがけない災難に遭ったり、逆に思わぬ幸運に出会ったりってことだと思う」
「なるほど」
木本はもやもやが解けたのか、手を叩いた。「ことわざってたまに謎だよな」
廊下には既に多くの人がいて、それなりにガヤガヤしている。友達と喋っている者。誰かと待ち合わせしている者。カップル。ひとりでさっさと帰ろうとしている者。様々だ。
「他にさ、」
木本は普段通りの大きな声で続けた。「飛んで火に入る夏の虫ってあるけどさ、夏である必要が分からないよな」
共感を求めないでくれ、と木本には聞こえない声でぼそっと言った。
「なんか言ったか?」
「いや、なんでもない」
不良上がりの木本が「飛んで火にいる夏の虫」なんて知っていることに俺はまず驚いた。しかし、それを口にすると、多分『「バカにしてるのか」→「してる」→殴られる』の流れが待っているはずなので、あえて触れなかった。まあ、多分言葉の響きが気に入っているだけだろうが。
「キャンプファイアーの火だからとか?」
とりあえず提案してみた。
「冬にだって焚火はある」
「冬にはそもそも虫がいない」
そう答えながら、俺はむずむずするものが体中を這うのを感じる。「飛んで火にいる夏の虫の意味知ってるのか?」と訊きたい。でもその先には『「なめてんのか」→殴られる』の鉄壁の流れがあるに違いなく、この感情は抑えるしかなかった。
「冬に虫がいないなら尚更夏である必要がない」
俺のむずむずなど露知らず、木本はもっともなことを言った。
確かに、と俺は呟く。その小さな言葉が我慢の栓を吹き飛ばし、詐欺広告の時と同様に好奇心で最も気になっていた疑問をぶつけてしまう。
「木本、『飛んで火に入る夏の虫』の意味知ってるのか?」
ゴンッ
その瞬間、脳天に拳骨が落ちた。「痛って!」
「なめてんのか。それぐらい知ってるに決まってるだろ。仮も高校生だぜ」
『「なめてんのか」→殴られる』ではなく『殴られる→「なめてんのか」』だった。
「そっちが先だったか……!」
「何の話だ」
「いや、なんでもない」
周りの目が少しこっちに来て、色々と痛い。
俺は両手で頭を押さえ、涙が零れそうになりながら言った。
「一応……一応、な。一応、うん。一応。どういう意味だと思う?」
「ただのバカ、って意味だろ」
「今すぐ殴った分返せ」
「え? 違うの?」
マジで言ってんのかよコイツ。
とてつもなく木本を殴りたくなった。でも好奇心よりもその後の恐怖心が勝った。震える手をなんとか理性で抑え、階段を下りて行く。
すると、俺は気付いた。
「あ、両手頭に乗せて気付いたわ。体操服ロッカーに忘れてきた」
俺は普段、体操服袋を手に持ってきている。なので、手にそれがないからその事実に気づくことができた。
「やっと気付いたか。それに気付かせるために俺はお前を殴ったんだよ」
「嘘つくな」
ちなみに、木本はそれを通学用のボストンバッグの中に入れている。と言っても、そのバッグには体操服しか入っていないのだが。
「早く取りに行け、明日異臭騒ぎが起こるぞ」
「色々殴るぞ」
「殴ってみろ。今日の深夜お前の家に侵入して、寝ている間にめっちゃ深爪にしてやるからな」
「なんて地味な……」
俺は木本に背中を向けて階段を上って行った。
ほとんどの人が降りている中、ひとりだけ階段を上がっているのは何か恥ずかしい。いじめられているみたいな気分だ。誰も自分のことなんて見ていないのだろうが、全員が少数派の自分を見下しているような気にさえなってしまう。
クラスがある四階まで着き、角を曲がった。
その時、誰かと肩がぶつかりバランスを崩してしまった。
「痛って……」
後ろを見ると、同級生の麻生信次が、俺とぶつかったことなど最初からなかったかのように、鼻元に手を当てて階段を下り始めていた。
謝りもしないのかよ。
俺は無意識に舌打ちしていた。
自分自身も悪いのは分かっているが、なんとなくそれを認めたくはなかった。
麻生信次。俺のクラスメイト。
だが、話したことはない。そもそも授業で先生に当てられた時以外に麻生が喋っているのを、俺は見たことがない。その当てられた時でさえ、疲れた蚊の飛ぶようなか細い声しか出さない。
俺が知っている麻生のことと言えば、出身中学くらいだ。どうしてそれを知っているかもよく覚えてはいないが、クラスの誰かが、小中と劇団で役者をしていたらしい細木に「麻生と同じ中学だろ?」と言っているのを聞いたことがあるような気がする。でも、俺は細木が麻生と話しているのすら見たことがない。
中学ではどんな感じだったのか。
今の成績はどんなものなのか。
何が好きで何が嫌いなのか。
俺は何も知らない。
唯一知っているのは鼻や口を押さえる癖があるということだ。木本は「男が鼻を触る時はセックスしたい時なんだよ」とバカにするように笑っていたが、本当にそんなこと考えているような気はしない。
同じ場所にいるのに何も知らない。髪が長く、前髪に至っては目が隠れるほど長い。陰気なイメージだ。話しかけようとも思わない。勇気を出して話しかけたとしても、まず返事のひとつもないだろう。
そんな麻生のことを、俺は、滑りが悪くてなかなか開いてくれない古びた窓のように嫌っており、それは木本も同じだった。
「あいつ好きじゃないよ、俺も」
ロッカーから体操服の入った黒い袋を取り出し、木本の方へ歩いて戻った。そこで麻生とぶつかった話を木本にしたら、彼は目を細めて言った。
「ムカつく」
俺は思う。おそらく麻生のことを少しでも好いている奴などひとりもいないだろう、と。
「どうする? 今から裏山でも行くか?」
校舎を出たところで木本は尋ねた。
「そうだな、あそこ涼しいし」
この学校の裏には山があり、そこはそのまま裏山と呼ばれている。●ラえもんに出てくるような立派で大きいものではないが、小学校や中学校も近くにあるので、小中学生の遊び場としては定番。よく鬼ごっこなどが行われている。高校生にもなるとあまり行く人はいないのだが、俺たち二人は時々そこに行って木の陰で寝転がったりしながら喋ることがあった。さすがに小学生がはしゃいでる中、高校生がはしゃぐわけにもいかないので喋っているだけなのだが、それなりに時間を潰すことはできる。
「よし、立ち入り禁止エリア探検するか」
「だな」
その裏山は自由に使えるが、自由に使えるスペースはかなり限られている。自由に使えない少々危険な部分は『立ち入り禁止エリア』と呼ばれている。そこには区切るためのロープが張ってあるが、所詮ロープなので簡単に侵入できる。木々が生い茂っており、この時期(夏)の昼でも薄暗く不気味だ。みんな入りたがらない。そこを探検するというのが、少し大人な俺たちの密かな楽しみのひとつなのだ。
校門を出る。普段家に帰る時はまっすぐ行くのだが、裏山に寄るため、右折。
「あ~、煙草吸いたい」
木本がいきなり呟き、俺の方を意味ありげにチラッと見る。「今日学校来る前に一本吸っただけなんだよな。よく頑張ってると思わねえか?」
木本は中学から煙草を吸っているが、煙草が値上がりしたのと脱ヤンキーを目指していることの二点から、ゆっくり禁煙しようとしている。一時期は一時間に一本吸わないと気が済まず、よく逆ギレしていた。
最近は随分禁煙が進んだな、と俺は思う。「よく頑張ってると思うよ」
木本はじっと俺の目を見つめる。きらきらした目で見てくる。餌を求める犬のようなつぶらな瞳で見てくる。正直気持ち悪いが、よく「優しい」と言われるような俺は正直に気持ち悪いとは言えない。
「……別にいいぞ」
「お、いいの? じゃあお言葉に甘えて」
木本は満面の笑みで、ボストンバッグの外ポケットから煙草とライターを取り出した。俺は風上である右にずれ、彼と距離を離す。
俺はかなりの煙草嫌いだ。小さい頃、歩き煙草をしていたサラリーマンが煙草の持っている手を胸元まで下げた時、俺の頬に火が当たってしまい、火傷したことがあった。
それ以来煙草がトラウマなのだ。
今度そのサラリーマンに出会ったら、ライターの火を皮膚に押しつけて根性焼きしてやろう、とさえ思っているくらい煙草を憎んでいる。
大人が煙草を持っている時の手の高さが、丁度子供の顔の高さ。
そんな禁煙を訴えかけるCMに、俺は誰よりも共感した。そのCMを作った人と握手している夢さえ見てしまうほどの感動だ。
あれは「全米が泣いた」とかいうベタな押し文句の映画よりよっぽど泣ける。
木本が煙草を地面に落とし、踏みつけたところで俺は彼に近寄って行った。
「かわいいな龍一」
「うるさい」