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「俺はバカなのか?」
その晩、俺は母さんから適当な理由を付けてクレジットカードを貸してもらおうとしたが、理由が思いつかなかった。そんな自分に嫌気が差し、つい空気に語りかけてしまう。これで「イエス、ユー・アー・バカ・ベリー・ベリー・マッチ」なんて指差されたら笑いもんだ。
クレジットカードを貸してもらうための理由を、改めて考えてみよう。
ネットショッピングにしても、大体は代金引き換えで、クレジットカードなんかいらない。音楽のダウンロードにしては3800円は高すぎる。コンピュータソフトのダウンロードというところが決して間違ってないし、妥当なのだろうが、何に使うのかと訊かれてしまったら終わり。
……うん、やっぱり思いつかない。
それに加え、いざ親を前にすると、その勇気がどうしても出てくれない。罪悪感、じれったさ、恥ずかしさ、申し訳なさ。様々な感情が口の中でもごもごする。
結局この晩は何も言えなかった。食事も口に通らなかった。好物の豚の生姜焼きだったのにもかかわらず、ほとんど食べられずに結局残してしまった。
残業終わりの父さんは、何かを悟ったのか何も気づいてないのか分からないが、何も言わなかった。
母さんは「どうしたの?」とパスを出してくれたのだが、「いや、別に」しか返せず。十七年間慣れ親しんできたはずのボールすらも、傷心の俺にはキャッチできなかった。
別に察してほしいとかそんなのじゃない。よく分からないが、百パーセント自分が悪いのに、それを認めたくなかった。
時間は実にゆっくり流れた。普段俺は暇な時、ネットで何かしらの動画を見て暇を潰している。しかし、この晩はパソコンを一度開いたものの、電源は付けずにもう一度閉じてしまった。またあの警告が現れると思うと、ノイローゼになってしまいそうだったから。
でもパソコンを点けないは点けないで特にやることもなく、その上罪悪感に押しつぶされそうで鬱状態だった。ツイッターやラインをする気にもなれない。できる限り電子機器に触れたくなかった。ひとりで部屋にいるよりは、リビングで最近まともに見ていないテレビを見る方が少しは気も紛れるだろうと思い、そうすることにした。そんな自分が、昨日「週末の癒し」とか言って、エロサイトサーフィンをしていた気持ちの悪い自分自身の姿を連想させて億劫だったが、それ以外の方法は全く思いつかない。
父さんが野球を見ていたので、俺も距離をおいて見ていた。その試合は投手戦で、ボールが外野に飛ぶことさえもほとんどなかった。父は「いい試合だ」とか言って楽しそうだったが、ルールをある程度知ってるくらいで選手もほとんど知らないような素人の俺には、この何も起こらない試合は非常に退屈に思えた。でも「退屈な試合だ」と思えるだけでもまだ気が楽だった。
父さんは何も言わなかった。普段一緒に野球を見ることもない息子と一緒に野球を見ているという光景自体が異常なのに、そこには全く触れようとはしない。「あ~、どうしてそこで打てない!」とか「五者連続三振!」とか独り言ばっかりだ。
もしかしたら父さんは息子の異変についてあえて触れず、息子に向かって不器用なフォームでボールを投げ、コミュニケーションを取ろうとしているのかもしれない。
男とは言葉を交わさなくても通じ合える生き物だ、とどこかで聞いたことがあった。今まで「そんなバカな」と思っていたが、案外間違いではないのかもしれない。
0―0、九回裏ツーアウトフルカウントの時に、父さんの顔をじっと眺めてみた。少し口元は青いが、目は輝いている。珍しく息子が自分の顔をまじまじと見ていることにも気付かず、球場の熱い世界に入り込んでいる。
結局父さんが、濁って腐乱臭を放つ自分の心を見透かしているかどうかは、分からずじまいだ。
何も告白できないまま、俺は布団の中に入っていた。布団に入ったのは十一時前。いつもならもう二時間は起きているはずなのに。
明日こそは、明日こそは、クレジットカードを借りて自分で処理しよう。請求が来た時はちっぽけな小遣いから払おう。
カードを借りる理由はコンピュータソフトのダウンロードでいい。色々突っ込まれたらその時はその時だ。
決意をして目を瞑るが、やはり心のもやもやはそう簡単に睡魔に会わせてはくれない。
一時間くらいは経ったか。五回以上は寝返りを打ったと思う。目を瞑っていると、天井がゆっくり下りてくるような感覚に何度か襲われた。閉所恐怖症の気持ちが、ほんの少し皮膚の裏を走る。生乾きのようなにおいがする。罪悪感と不安が混ざると、こんな悪臭になるのか。でも、それは紛れもなく、自分の毛穴から出て、ふらふらと漂い、鼻に迷い込んできている。そういえば、テレビか何かで聞いたことがある。自分の体臭が分からないのは、そのにおいに、鼻が麻痺してしまうから。同じように、何度か罪を犯せば、このにおいと脳までの距離は久遠になるかもしれない。人は、においを感じなくするために罪を犯すのか、におわなくなったから、罪の意識がなくなるのか。どちらにせよ、ここは、深い森。動けば動くほど、足掻けば足掻くほど、自分の座標が分からなくなり、それを探すためにまた動き、足掻く。ぐるぐると、ぐるぐると、森の奥へ、迷い込んでいく。
ふと目を開けてみると既に日が昇っていた。時計の短針はぼやけながらも7か8辺りを差している。
眠った気がしない。でも七、八時間起きていた記憶もない。
体を起こすと、内臓に重りがぶら下がっているような感覚がまだ残っているのが分かる。嫌なことがあっても、大体は一晩寝れば治るのに。それだけ重たいということなのだろう。
今まで何度かケンカしたこともあるし、人をいじめたこともある。ケンカが弱かったからか、余計に同級生をいじめるのは楽しかったりした。絶対に勝てるからだ。高校生になってからはそんなにないが。
『いじめは犯罪だ』なんてテレビで評論家が話してたりする。しかし、そもそも犯罪が何なのかも分からない学生にそんなこと言うのは、火に油を注いでいるようにしか見えない。競馬好きのおっさんに「競馬なんかやめなさい」って言っても効果がないのと同じ。逆に言い返してくる。最終的には競馬仲間が寄ってたかって暴動を起こすだけだ。
俺のいた中学では万引きなんてやってない方が少数派だった。俺も何度かやったことがある。捕まったことはない。
「塀の向こうに行ったことがある人より、ない人の方が多い。同じように学生間では少数派こそ罪で、万引きしない方が犯罪。世間の常識を教えるはずの学校なんて、所詮そんな非常識な世界なんだよ」
これは俺の悪友である木本豪太が中学時代に発した言葉だ。
「漫画や小説、ドラマで当たり前のように犯罪が行われていて、しかもそれが親しまれていて、需要だってある。みんながお金を払ってまでそれを欲しがってるんだから、『犯罪=悪』なんて考え方は矛盾してるんだよ」
それを聞きながら俺は「なるほど」と思った記憶がある。
「言葉にはさ、『本来の意味』ってのがあるだろ?」
突然彼はこんなことを言いだし、俺の頭の上には「?」の文字が具現化した。
「例えば、『辛党』の意味知ってるか?」
「辛いものが好きな人、じゃないのか?」
「違う。酒好きの人って意味だ」
へえ、と俺は呟いた。「じゃあ甘党は酒を飲めない人だ」
「ちょっと違う。酒より甘い物の方が好きな人のことだ」
「へえ」
「他にも本来、『失笑』は滑った時じゃなくてウケた時に使う言葉。『破天荒』は素行が荒いとかじゃなく、前代未聞なことをすること」
「へえ」
今までほとんど間違って使ってたんだな、俺は。
「でもさ、龍一みたいにほとんどの人間は間違って意味を解釈している。だが、その間違いってのは本当に間違いなのか?」
「……どういうこと?」
俺が首を軽く傾けると、木本は「いいパスだ」と微笑んだ。
「『多数派こそ正解』ってことだよ。いくら本来の意味といっても、辞書に載っているといっても、誰も正しく使えてないんじゃあ、意味はない」
俺は、彼の言っていることにまだ少し納得がいかない気がした。今まで辞書を中心に地球は回っていると習ってきたから。
「俺たちは古典というものをわざわざ勉強している」
「え?」
木本の単刀直入な言葉に、俺はまた困惑させられた。
「何のためにあんなものやるのか。まさか本当にあのわけの分からない上に誰も使っていない死んだ言葉と、全世界で使われている英語を天秤にかけたいわけじゃないだろ。昔の書物を読んで昔の考え方を知るだけなら現代語訳したものだけ読めばいい。じゃあ、何のために俺たちは限りある大事な脳領域を、あんなものに侵されているのか」
木本の横顔を見る。彼の視線の先には俺ではなく、真っ赤に輝く茜空があった。
「俺たちがあれを勉強して知るべきことは『言葉は時とともに変わっていく』ということだ。鎌倉時代、平安時代、室町時代、江戸時代。それぞれ言葉が増えたり、意味が変わったりするのは習っただろ」
そんなことが教科書に書いてあった記憶はある。
「その時代時代で多数派だった意味こそ『その時代の言葉の正しい意味』だったはずだ。それを先生も学者もみんな認めている。なのに、たった今、ここで言葉の意味が変わってきているのを何故正しいと認めない? 今、多数派である言葉を何故間違いだという? 鎌倉から平安になって意味が変わったことを肯定して、昭和から平成になって意味が変わったことを何故否定する?」
確かに。
口からその言葉がポロッとこぼれた。
「辞書に書いてある言葉が正しいのか? いや、違うな。言葉の意味をアンケートで取って一番多かった意味こそが、真に正しいはずだ。逆に『本来の意味』ってのが正しいんだとしたら、その『本来の意味』っていうのは、いつを基準にした意味だ? それに、本当に『本来の意味』っていうのを使わなくちゃいけないなら、俺たちは未だに『いとわろし』とか言ってなくちゃいけないことになる」
ここまで話して、木本はひとつ唾を飲み、話を元に戻した。
「『いじめ=犯罪』。これは憲法が変わってないんだから、今だって正しい。だが『犯罪=悪、絶対に駄目なこと、許されないこと』っていうのは既に古い。今や『少数派=悪、絶対に駄目なこと、許されないこと』なんだよ。だからいじめはなくならない。いじめはな、する方が多数派で、される方が少数派だ。いじめられるやつが悪い。だから俺たち多数派は少数派を裁かなければならない。法の代わりに悪である少数派を裁くことこそが『いじめ』なんだよ」
月に変わってお仕置きよ、と同じだ、と冗談めかして笑ってから木本はトーンを落として続ける。「いじめは正しいんだ。それを、『いじめは正しい』ということを、俺たちは学校で古典から学んでいる。少数派をいじめて何が悪い?」
かなりの極論だが、当時の俺は妙に納得してしまった。今でも、街でいじめらしきものを見かけると、ついその言葉を思い出してしまう。
「いじめられっ子を殴ったりカツアゲしたりする奴だけが『いじめている側』じゃない。傍観者だって立派な『いじめている側』だ。もし殴ったりしている俺らみたいなやつと傍観者を分けるんなら、傍観者の方が当然多いだろうな。だからみんな傍観者になるんだよ。それが一番正しいんだから。そこで傍観者にならずにいじめを止めようとするやつは、一番の少数派だな。つまり重罪だ。終身刑か、それとも死刑か。それくらいの」
今まで自分が培ってきた倫理だとか道徳が否定されて、少しだけ血の温度が上がった。でも、決してそれが沸騰することはなかった。沸騰させてはいけない、と思う自分がいたのも事実だ。
その後、木本は右手を前にまっすぐ伸ばし、掌を仰向けに大きく開いた。
「俺たちは、多数決の原理を中心に成り立っている民主主義国家を生きていることに誇りを持ち、少数意見の存在を認めた上で握り潰さなければならない」
そう言うと同時に彼の掌は力強く閉じた。きっとあそこに俺の拳が入っていたら、骨がボロボロに砕け散っていたことだろう。
俺の中の天使がひとり怒って暴言を吐いたのが、脳の裏に見えた。しかし、数人いる悪魔が、今度はその天使をリンチし始めた。そのひとり以外の天使たちは遠くからそれを眺めていたり、知らんぷりをして無駄話をしていたり。
「みんな今起きていることを間違いだって言う。こんなことは起きてはならない、てさ。でも、そんなの綺麗事だ。今起きていることこそが今の基準で、正しいんだ。異常気象も毎年起これば普通の気象だし、太陽が東から昇って西に降りるのも、学校でいじめが起きているのも、平等に正しいんだよ」
木本豪太。彼ほどの怪物を、俺は見たことがない。