34
モザイクの掛かっていないアダルトサイトを見続けていると、夜が開けていた。
今まで感じたことのない不思議な高揚、グロテスクなものを見た後の、粘着性の胸糞悪さ。色々なものが胸の中に渦巻いていた。
時計の針は九時五分を差している。夜が明けるどころか、完全に日が昇っていた。
普段の土曜日なら十時に起きるから、十分に早起きだと、言えるといえば、言える。
目が痛い。チカチカする。そらそうか。十時間くらいパソコンと向き合っていたんだから。
立ち上がると頭がくらくらした。足がもたつく。麻薬を吸うと、こんな感じになるのかもしれない。
ままならない意識で着替えた。汗でべたつくシャツを、剥ぎ捨てるように脱ぎ、新しいものを着る。真っ白なTシャツだ。そして、ジャージなどではなく、ジーンズを履く。
部屋のドアを開けて廊下に出ると、女がいた。
「おはよう、龍一。ちょっと買い物に行って来るわね」
女の手には不倫相手からプレゼントされたという高価なカバンがあった。
「いってらっしゃい」
眠気なのか軽蔑なのか、無愛想な声しか出なかった。
女は息子の異変に気付いたのか、心配そうに顔をしかめた。
「どうしたの? 元気なさそうだけど」
お前のせいだろ、無頓着なクズが。
「眠たいだけだよ」
「そう……、それならいいけど。出かけるの?」
「うん」
「じゃあ、行って来るね」
女は玄関で靴をはき、家を出ていった。その際に開かれた扉から入り込んだ陽は、眩しかった。
リビングから雑音が聞こえる。不倫親父がテレビでも見ているのだろう。耳障りだ。部屋に戻ろう。
ドアを閉める。今思えば、この部屋は男の部屋にしては整然としている。
俺の心は、こんなにぐしゃぐしゃなのに。
すると、異様に腹が立ってきた。全てを、ぐしゃぐしゃにしてやりたい。叩き潰したい。破り捨てたい。
机の上に並ぶ教科書をバラバラと床にばらまき、CDや本を入れているカラーボックスを蹴り、ぶっ倒してやった。
複雑な破裂音や紙を握り潰すような音、様々な破壊の音が耳に入る。でも、快感はひとつもない。何もすっきりしない。何故だ。人間は物を破壊することにエクスタシーを覚えるんじゃなかったのか。
龍一? と男が聞こえた。でも関係ない。あんなクズ、家族でもなんでもない。
その時、机の上に置いてあったパソコンに目が止まった。
あれは、俺が高校入学した時に買ってもらったものだ。
どこの誰とも知らない母親の彼氏と、不倫親父の金で。
こんなもの、こんなもの、こんなものこんなものこんなもの……!
体の芯で何かが弾けると同時に、俺はパソコンを両手で持ち上げていた。そして、勢いよく机の角にぶつけた。
ドン。
軽々しい音だ。俺の心は重たいのに。もっと気持ちのいい、爽快な音を鳴らしてくれよ。
ドン。
ドン。
むかつく。全てがむかつく。全部消えてしまえばいい。
ドン。
ドン。
ドン。
ドン。
いなくなってしまえ。
「ああああああああああああ!」
「龍一!」
男が声を上げながら部屋に入ってきた。
「な……何してるんだ……お前は……」
床が見えないほどに荒れた部屋。パソコンを机に叩きつける、目を真っ赤に染めた息子。
その光景に男は声を失ったのだろう。眼球がガタガタ震えていた。
「それ、入学祝に買ったパソコンじゃないか……! 何してるんだ……!」
男が近づいてくる。許可も取らずに、ズケズケと。
来るな! と、もう一発、ドン、とパソコンを叩きつける。
「やめろ!」
「近づくな不倫野郎が!」
そう叫び、睨むと、男は足を止め、目を見開いた。
「な、何を言ってるんだ……?」
「夕方から女連れてラブホテルとはいい身分だな。あの女は会社の女か?」
図星で言葉を失う、とはこのことだろう。気味がいい。
無言になった不倫親父に向かって、ひとつ舌打ちする。それから、机の上に置いてあったスマホと定期をジーンズのポケットに入れた。
「どけ、邪魔だ」
「ちょっと待て……、」
男は近づいてくる息子を制止させるようとしたのか、俺の方に手を伸ばした。
「確かに俺はラブホテルが近くにある駅に降りた! 職場の女性と降りた! でも! ラブホテルになんて行ってない!」
「苦しい言い逃れだ」
心の腐った親父を無視して通り過ぎようとしたが、この男は薄汚れた醜い手で俺の腕を掴んできた。
「信じてくれ! 俺は営業に行っただけだ! その晩帰ってこなかったのも会社に戻って泊まっただけだ!」
掴まれた手から、痒みが走る。多足生物がたくさん、伝ってくるようだった。
「汚い! 離せ!」
手を振り払う。
「腕を組んで歩いてただろ、お前!」
「あれは、」
男は、息子が自分をお前と呼んだことなんて気にも留めず、薄汚れた弁解を続けた。
「彼女が勝手に……!」
「ああ? てめえ、にやけてたじゃねえか」
「それは、若い女性に腕を組まれたら嬉しくなるだろ……!」
俺は故意に舌打ちする。相手に不快感を与えると共に、上下関係を明白にするための、舌打ちだ。
「苦しい言い訳だ」
「言い訳じゃない! 信じてくれ! 俺は不倫なんてしていない!」
男はまた俺の腕を掴もうとした。
「触るなデブ! 汚らわしい!」その手を避け、俺は部屋を出た。
「ちょっと待ってくれ、龍一……」
その弱々しい声に、無性に腹が立った。
こんな奴に、あっさり上下関係を覆させられるような浅はかな野郎に、育てられたなんて、情けない。
むかつく。
叫んだ。
「犯罪者が俺の名前呼ぶんじゃねえよ! 不倫なんてクソみたいなことして、にやにやへらへらして何の罪悪も感じてないカスが!」
「なに言ってるんだお前は……、罪悪感も何も俺は不倫なんかしていない……!」
「じゃあ、お前は自分の妻を愛してるのか?」
そう訊かれると、彼は一度大きくまばたきをして、頷いた。
「ああ。愛してるさ。母さんを愛してるさ! 愛してる! なのに不倫なんてするわけないだろ……!」
「その愛する母さんが今どこにいると思う?」
「は……? 買い物に行ってるだろ……」
「男だよ」
「は……?」
「今頃、男とじゃれあってるよ。言うまでもなく、彼氏とな」
「お前、何を……」
「お前の愛する女はお前を愛してなんてない。彼氏に買ってもらった鞄に離婚届が入ってるから覚悟しな」
「なっ……」
男はガラクタまみれの床に、膝から落ちた。
「そんな……」
弱い男だ。とっとと死ねばいい。
膝の出血にすら気付いていない男なんて放って、部屋を出て、靴を履いた。
玄関を出たところでスマホをポケットから出し、壁にもたれてメールを打った。
『話がある。今から裏山に来てくれ。現地集合だ』
相手はもちろん木本。
エレベーターの方へ意識を朦朧とさせながら歩いていると、返信が来た。さすがは木本と言うべきか、早いものだ。
『いいぜ。今からだな。お前のためなら裏山くらいちょろいもんだよ。南極にだって行ってやる』
木本らしい返事だ、と思いながらスマホをポケットにしまった。それと同時に、そのポケットから、また、蟲が這うような感覚に襲われた。
思わず、腕を跳ねさせ、壁にぶつけた。
そういえばこのスマホも、あの二人から買ってもらったものだったな。
あの、穢れた夫婦から。
そう思うと、憎らしくなってきた。
こんなもの……こんなもの……!
「うぁああああああ!」
マンションの九階から、俺はスマホを思いっきり投げた。まっすぐ飛んで行き、すぐさま、視界からアウトする。
何かが割れるような音が微かに聞こえた、気がする。
電車に乗った。今日が土曜日だからか、もう通勤ラッシュとは程遠い時間だからだろうか、乗員は少なかった。おかげで冷房がよく効いている。
でも、今の俺には寒すぎるくらいだった。
足が震える。腕が震える。内臓が震える。
寒さとはまた違う要因の震えなのだろうが、冷蔵庫の中にいるみたいに寒い。
すると、ラブホテルが目の前にある駅に電車は止まった。
舌打ちが隠せなかった。他の乗員が数人こちらを見て来る。
俺を見るな。気持ち悪いんだよ。俺を見るな。
念が届いたのか、俺が睨んだからなのか、みんな、肩を震わせて視線を逸らす。
それでいい。
それにしても、今の俺は、どんな目をしているのだろう。
窓を見るが、外が明るくて鏡の役割を果たしてくれなかった。
そして、次の駅で降りた。
足元がおぼつかない。さっきの寒さのせいで、余計に。
改札にぶつかりながら、改札を通り抜ける。
また数人がこちらを見て来る。憐れむような目で。
うるさい。こっちを見るな。死ね。
もう既に嗅覚はない。でも、人間の汚ないにおいは何故か感じてしまう。
鼻を擦りながら裏山の方へ歩いていく。足もまともに働いてくれないし、視界もなんとなく揺れている。役立たずだ。千切れてしまえばいいのに。
しばらく歩いていると、頭に何か衝撃を感じた。
電柱にぶつかったようだ。でも、不思議なことにさほどの痛みは感じなかった。遂に痛覚まで狂ったか。
その時、いつかの木本との会話を思い出した。
――犬も歩けば棒に当たるっていうけどさ、まず人間も当たらないよな。
その木本のつまらない言葉に俺はこう答えたはずだ。
――その犬、きっと狂ってるんだよ。
あながち間違ってないかもな。
口元が緩む。今の自分の状況とピッタリで面白かったからなのか、口元まで侵されているからなのかは分からない。
その時、『Which?』が頭の中に流れた。
キミはどっち? やる方かやられる方か。
キミはどっち? 人かゴミか。
キミはどっち? 斉藤か木本か、麻生か細木か。
裏山に着いた。昼間だからだろう、あまり不気味さは感じない。
そこに木本がいるのは、すぐに分かった。不気味な存在だからだろうか。
「よお。何の用だ?」
俺は木本の前まで歩いて答える。
「俺、自首するよ」
すると、木本は顔色一つ変えず、あっさりと答えた。こちらに向かって歩きながら。
「そうか。それは仕方ない。俺の座右の銘は『有言実行』だからな」
俺のすぐ前で足を止め、木本はにこっと笑った。そして、俺の頬を右手で殴った。
俺は弾け倒れる。でも、痛みはない。
「飛んで火に入る夏の虫だな、龍一」
「飛んで火に入る夏の虫の意味、分かってるのか?」
「ただのバカって意味だろ」
ふっ、と俺は笑いながら立ち上がる。
あながち間違ってないかもな。
すると、俺はまた倒れた。どうやらまた殴られたらしい。
「言うの忘れてたけど、今度は利き手で殴らせてもらうからな」
ヒッヒッ、と木本は見下して笑う。おそらく、俺が痛がっていると思って快感に浸っているのだろう。
しかし、今の俺には何の痛みも感じない。
「立てるか?」
「ああ、立てるさ」
微かに血の味がする。でも、どうでもいい。
俺は静かに立ち上がる。
それを見て、木本は立ち入り禁止のロープを超え、セックス前の鼻の下が伸びた男のように、楽しげに言った。
「こっち来い。言われなくても分かってるだろうが、お前より俺の方が足は速いぞ」
「分かってるさ」
俺は大人しく木本に付いていく。
彼が向かっている場所がどこか、すぐには分からなかった。でも、しばらく歩いていると思い出した。ここは来たことがある。
「あの、崖か」
「ああ、そうだ」
その崖は、麻生を殺すよりも遥か前に、俺たち二人が見つけた崖だ。
麻生を落としたところよりもずっと急で、明らかに危ない場所だ。その時は「これは立ち入り禁止になって当然だ」と思って引き返したはず。
「あそこに行くのか」
「懐かしいだろ」
「そうだな。すごく楽しみだ」
木本はチラッと振り返って俺を見る。煮え切らないような不快感がその顔のところどころに現れていた。今から殺されようとしているのに俺が全く逃げようともせず、むしろ笑顔だからだろうか。
「なあ、龍一」
木本は歩くのをやめた。
「なんだ?」
「麻生を殺した時ってさ、ボコボコにしてから崖に運んで落としたよな」
「ああ」
木本が何を言いたいかは分かった。
すると、木本は正面から俺に近づいてきた。そして、殴った。
「俺の座右の銘は有言実行だ。悪く思うなよ」
何を悪く思うんだよ、と俺は言っていなかった。何の痛みも感じないが、体はかなり、きてるのだろう。
次に、俺は腹を蹴られた。口から血が出た。その自分が噴水になったような現象に、俺は少し感動し、仰向けに倒れた。
そして木本が馬乗りになり、殴った。殴った。何度も殴った。
その度に血が出る。その度に意識が薄れていく。その度に、快感も増していく。
究極のドMだな、と俺は笑った。
「なに笑ってんだよ」
「いや、なんでも」
木本は舌打ちする。この場合の舌打ちは、どちらが上の立場だと示しているのだろうか。
まあいい。
いいざまだ。あの木本が俺を気味悪がっているなんて。
更に俺は殴られ続ける。手足など全く動かなくなるくらいに殴り続けられる。でも、痛くはない。
心なしか木本の顔が少しずつ険しく、パンチの力も強くなっている気がする。額の汗は、夏の暑さだけのせいではないはずだ。
いいざまだ。木本が焦ってるなんて。
すると、木本は立ち上がって唾を吐いた。
「なんだお前。頭がおかしくなってきたのか」
「……」
俺は何も言わなかった。いや、言えなかった。あと一度くらいしか口を開けられない気がしたのだ。頭がおかしくなってきたのか、なんて、答えがイエスに決まっている質問にわざわざ答えるわけにはいかない。とっておきの一言を、最期に言うまでは。
俺がもう動けないのを見越したのか、木本は俺を抱え上げ、肩に乗せた。まるで大工が運ぶ丸太にでもなったような気分だった。
視界には木本のわき腹と、ベルトコンベアのように動く地面が見える。また、少しずつ暗くなっている気もする。俺の意識が遠のいているだけでないことを祈ろう。くたびれる前に、やらないといけないことがあるんだ。
「着いたぞ」
木本の声が聞こえ、俺は地面に落とされた。
ああ、懐かしい。いい景色だ。崖も見降ろしたいな。
そんな俺の願いが届いたのか、はたまた俺を怯えさせようとしたのか、木本は俺の髪を掴みんで引っ張り、顎を浮かせて崖を見せてくれた。
相変わらずの急斜面だ。まるで地獄のハイウェイだ。そんな歌あったよな、と思いながら、俺は笑う。
「落として欲しいか? 落として欲しくないか? 今ならまだ間に合うぞ?」
落として欲しいに決まってるだろ、と、やはり俺は言わない。残り少ない言葉をこんなところで使ってたまるか。
「だんまりか、仕方ない。お望み通り落としてやるよ」
そうだ。早く落せ。早く俺を投げ落せ。俺の口は、体は、早くあの言葉が言いたくてうずうずしてるんだ。
それと同時に、意識が少しずつ霞んでいくのが、視界の霞として現れるようになった。瞼が、とろん、と落ちそうになる。どうやら俺の体はもう、眠たがっているらしい。
寝るな、寝るな、まだやることがあるんだ、と意識を込めていくが、睡魔にはそう勝てるものではない。確実に、視界がブラックアウトしてしまった。
と思ったら、そこに、何かがいた。アニメでよく見かける、悪魔のようなフォルムの何かがたくさん、ふらふらとこちらに近寄って来る。
――呼んだか?
そう、聞こえた気がした。
そうか。こいつらは今まで俺が散々呼んできた睡魔だ。いつになったら来るかと思っていたが、このタイミングで全員揃って襲いにやってくるとは、粋なものだ。
何人いるだろう。一、十、二十……。数え切れたものじゃない。
なるほど。これだけの睡魔がいたら、一夜や二夜では目が覚ませないだろうな。
ニタニタと不敵に唇を光らせる彼らに、俺は唱えた。
もうちょっとだけ待っていてくれ。あとで好きにやらせてやるからさ。
その瞬間、脚が何かに触られたのを感じ、体が反射的に跳ね、目が覚めた。
「どうした?」
木本の声だ。
どうやら木本が俺の脚を持ったらしい。睡魔は少し待ってくれたようだ。
そして俺の体は、地面にこすられながら木本を中心とした円を描いて回っていく。
ジャイアントスイングか。いい趣味してるよ、お前。
視界の回転が少しずつ早くなる。いつしか顎が地面から浮いた。まるで空でも飛んでいるかのような、爽快な気分だった。
そして、脚を掴まれている感覚が消え、俺は回転しながら崖に向かって飛んで行った。
やばい。最高の気分だ。笑いをこらえきれない。勃起しちまったじゃねえか。
少しずつ体が下がっていき、今にも体が斜面にぶつかろうか、という時、木本と目が合った。面白い顔をしている。
俺は、この瞬間を待っていたんだ。
世界中の果物全てを一斉に噛み砕くような、甘く弾ける快感に、襲われた。最高だ。堪らない。
そして、木本の目を見ながら微笑み、最期の口を開いた。
「ありがとう」