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 母さんが部屋を出ると、俺はすぐにベッドに寝転んだ。サイダーで湿ったシーツが右手に染みるが、もう何でもいい。気にならない。

 現実から逃げ出したい、と思ったつもりはない。だが、無意識の何かがそう訴えたのかもしれない。カバンからウォークマンを取り出し、耳にイヤホンを差していた。ロックミュージックが流れる。でも、ひとつも頭に入って来ない。頬がヒリヒリと痛むのを止めることすらできない。

 その痛みと共に、俺は目を瞑り、腕を目の上に置いた。


 ……母さん、あの距離でこの腫れに気付かなかったのか。


 ――気付かなかったか?


 木本の声が脳内で鳴った。これはいつのだ……思い出した。中学を卒業して何日かした後に、木本の家で漫画を呼んでいた時だ。

 木本の家にあった少年漫画の一巻を俺が、最新刊を木本が読んでいて、俺の方が先に読み終え、ふと思ったことを木本に尋ねたのだ。


「そういえばさ、俺とこんな暇な時間過ごしていていいのか? 彼女といちゃいちゃしなくても」


 中学を卒業すると同時にヤンキーを卒業したとはいえ、彼女から卒業はしていないだろうと俺は思っていた。だが、木本は手元の漫画に目を向けたまま、意外なことをさらりと口にした。


「あー、別れた」


「え?」


「気付かなかったか?」


「気付かなかったよ。え、いつ?」


「卒業する少し前くらい」


「なんで?」


「まあ、そうだな。これに関しては友達同士でも隠しておきたい」


 その回答に納得したわけではなかったが、それ以上は何も聞かなかった。

 どうしてこんなことを思いだしたのだろう、と高二になって不貞腐れている俺は思ったが、「あっ」と気付いた。


 ――男だって女だって浮気くらいする。でもどうして男だけが浮気をするとイメージがあるか、分かるか?


 どうして中学卒業前に木本がこんなことを言ったのかが、時空を超えて、俺の脳味噌にぶち当たった。この言葉の前日に、木本は西嶋と喧嘩していたんだ。テニス部のキャプテンで、色男の西嶋と。そして喧嘩の原因について、西嶋の言葉を聞いてキレた木本も、当の本人の西嶋も、話を一緒に聞いていた西嶋の友達も、黙秘を続けた。


 ――男はいつだって詰めが甘いんだ。だから浮気なんかしてもすぐにばれる。


 そして、木本の彼女もこのクラスの一員だった。

 木本の彼女は西嶋と浮気していたんだ。木本と交際しながら、ばれないように西嶋とも付き合っていた。

 きっと女好きで色男の西嶋が木本の彼女を口説いたのだろう。「二番目でもいいから」とか言って。木本と彼女が付き合っていたことは有名だったから、その逆はないはずだ。

 彼女の方は西嶋との関係を秘密にしていたに違いない。でも西嶋は「どうせばれない」とでも高を括って友達に「木本から彼女を奪ってやった」とでも話したのだろう。もしかしたら、木本のことをもっと馬鹿にしたような言い方だったのかもしれない。でも、人の声っていうのは皆それぞれ。人混みの中でも意外に聞こえるものだし、自分のことに限ってよく耳に入ってしまうものだ。木本は西嶋の言葉を聞いてしまったのだろう。そして、キレた。

 喧嘩に介入した者が口を揃えて喧嘩の原因を言わないのは、浮気をした彼女を守るためだろう。もうすぐ卒業だとはいえ、原因を口にしてしまったら彼女に『浮気者』のレッテルが貼られてしまう。男という生き物は、たとえ、女に裏切られたと知っても、女を守ろうとするものだ。


 もちろん彼女も、付き合っている二人の男が喧嘩を始めたら、流石に原因が自分だと気付いただろう。

 そしてその後、木本と彼女は別れた。どちらが先に別れを切り出したかは分からないが、別にどっちでもいい。

 もしかしたら彼女は西嶋とも別れたかもしれない。木本が西嶋に襲いかかったという構図を見れば、色男の西嶋が秘密の関係を軽々と打ち明けてしまったことは明らかだ。そんな口の軽い男と交際を続けても仕方ないだろう。


 全部俺の憶測にすぎないが、不思議な自信があった。


 そう思って目を開けると、蛍光灯が目をちらつかせ、また閉じた。

 何曲聞いたかは定かではない。ひとつの曲が終わって空白が流れた。その時、玄関が開く音がした。「おかえり」という母さんの元気な声が聞こえてから、「ただいま」という、つまらなそうな父さんの小さな声が微かに聞こえた。

 不倫男と不倫女の再会だ。そう思った瞬間に次の曲が始まった。


 これは、と俺は目を開き、起き上がった。


 グリーンデイの『バスケットケース』だ。確か――さっきの続き――漫画を読み終わった時に木本が「何かBGMかけよう」と言って、ウォークマンをスピーカーにつないだ時に丁度流れた曲だ。


 この曲は、ボーカルと、ギターのブリッジ・ミュート音から始まる。そのシンプルで美しいメロディーラインと進行、アレンジに心惹かれた覚えがある。そのままのアレンジで次のパートに入るとハイハットシンバルが静かに「これから何かが始まるぞ」という警告を発し、その後、突然、ボーカルと共にギターとベースがうねるように雄叫びを上げ、爆発のような激しいドラムが挿入されて部屋いっぱいに反響した。

 その流れに、俺は目に見えるほどの衝撃を受けた覚えがある。


 洋楽だから歌詞は分からなかった。だが、歌詞なんてどうでもいいと思えるくらいに、俺は三分間、その歌の世界に入っていた。曲が終わった時、木本は「気にいったみたいだな。俺もこれ好きなんだ。アルバム貸してやるよ」と棚を探り始めた。

 そのアルバムは、俺にとっては初めての洋楽アルバムだったし、初めてのパンクロックだったので、しばらくは耳に馴染まなかった。でも、時間が経つにつれ「バスケットケース」以外の曲の抗体も少しずつなくなり、今となっては木本に幾度もCDを貸してもらい、グリーンデイの曲はもうほとんどがウォークマンに入っている。


 曲が終わり、耳からイヤホンを取るとドアの向こうから「龍一! ごはんよ!」と母の声が聞こえた。もしかしたら最後の晩餐になるかもしれない、と思いながら、重たい腰を上げる。


 その日の夕飯は豪華だった。ご飯、味噌汁は当然、豚の生姜焼き、アジの南蛮漬け、サラダ。


「いいにおいだな」


 その父さんの表情は多少笑顔だったが、母さんはそれを見ていなかった。


 ――ずいぶん長いことあの人の笑った顔見てないのよ。


 なんて言っていたけど、母さんはそもそも、父さんのこと自体を見ていなかっただけなんじゃないか。

 ふと、昨日、父さんが知らない女性の前で満面の笑みを浮かべていたのが思い出された。

 修復不可能な亀裂が、両方から入っているのは事実だ。


 そんなことは口にせず、俺は「うん、いいにおいだ」と頷いた。でも、実際には鼻が今にもちぎれてしまいそうな罪の悪臭しか入って来なかった。前までは他のにおいも多少入ってはいたが、今は完全に不可能となっていた。

 中身がなくて、ぎこちない。そんな、意味深な豪華料理を食べた後はリビングでテレビを見た。内容はひとつも頭に入らなかった。だからだろうか、時間は意外に早く経った。父さんはテレビの実験番組に釘付けになり、母さんは謙遜したので、俺が最初に風呂に入った。


 いくらお湯をかけても、いくらシャンプーで髪を洗っても、気が遠くなるようなにおいは、微塵も消えてくれなかった。

 湯船に浸かっていると、母さんの笑顔が頭の中に現れた。この笑顔は不倫の歓びから来たのかと思うと、うすら寒かった。


 どうして風呂っていうのはこんなに考え事をしたくなるのだろうか。なんだかイライラしてきた。不倫は不貞行為だ。犯罪だ。やっちゃいけない。絶対にやっちゃいけないはずだ。それを、母さんは楽しんでいた。父さんもだ。残業だと偽って夕方からラブホテルに向かうなんてどうかしている。最低の父親だ。


 ……不倫は犯罪だ。二人ともそれを楽しんでいる。罪の意識に苛まれているどころか能天気にヘラヘラ笑っている。木本もだ。


 ……俺だけなのか? 罪に苦しんでるのは。まともな人間は俺だけなのか?

 いや、違う。逆なのか?

 俺がおかしいのか? 俺が狂ってるのか?


 湯船の中で全身が震える。

 ミサンガが徐々に負荷がかかって切れるように、正気の糸が切れた。


 俺が――俺が、おかしいのか? 俺ひとりがおかしいのか? 俺ひとりが狂ってるのか? 人を殺した程度で罪悪感に苛まれている俺がおかしいのか?


 弾けるように自問自答しながら、風呂を出て部屋に戻り、ベッドに飛びこんだ。

 逃げるようにイヤホンを耳に刺して音量を上げて再生する。


『Which?』だった。



  キミはどっち?

  キミが決めるんだ

  謙遜とか優しさとか そんなださい言い訳はいらない

  Are you greens and blues?

  それでいいのか?

  臆病なタイムアップなんて最低な終わり方さ

  損得は考えず やりたいかで考えろ

  それで無理なら直感で選んでみな

  悪いようにはならないさ 大丈夫

  俺に騙されたと思って決めてみな

  人を騙すよりは楽だから

  さあ、決めるんだ

  キミはどっち?



 ――龍一は優しすぎるんだよ

 

 ――「優しい」と書いて「ださい」と読むんだよ。


 その木本の声と一緒に『Which?』の歌詞がとびとびで聞こえてきた。


 ――優しさとか――ださい――いらない


 どうせ、俺はださいんだ。ださい。ださい。ださい。俺はださい。いらない。いらないんだ。俺はなんか、いらないんだ。優しいなんて、ただの言い訳なんだろ。

 一時停止ボタンを押そうとすると手が震え、「戻る」ボタンを二回押していた。


『バスケットケース』が始まった。


 今になってもこの歌の歌詞は知らない。木本によると『バスケットケース』というのは元々『戦争などで手足がなくなった人』を差し、それが転じて『頭が狂ったやつ』とか『役立たず』という意味にもなるらしい。

 更にこの歌を書いた時、ボーカリストはパニック障害だったらしく、その時の混乱した感情をそのまま描いていると、木本から聞いたことがある。


 バスケットケース――頭が狂ったやつ、役立たず――まさに俺じゃないか。


 何か悔しくなり、イヤホンを耳に付けたままウォークマンを壁に投げつけた。イヤホンからウォークマンだけが抜け、耳栓型のイヤホンが耳に残った。それを外してまた壁に投げつける。


 においが更に俺をむしばみ始めた。


「ぁ……ぁあ……」


 腕がヒクヒクと震える。痺れるように震える。

 右手で、左腕の付け根を掴む。力を入れる。思いっ切り握り、腕をちぎるように引っ張る。腕も脚も全てなくなってしまえばいい。

 なくなってしまえ。


「あああああ!」


 でも、そう簡単にちぎれるはずがない。痛みと赤い痕だけが残った。


「何が、……何が、人を騙すよりは楽だ、だ……、騙してる母さんや父さん、木本は笑ってるのに、騙された俺は、俺はこんなに、こんなに……、苦しんでるじゃないか……!」


 細木と麻生の顔が頭の中に浮かんだ。神様が苦しんでるのはお前だけじゃない、と慰めているようだった。

 だが、火に油を注ぐだけの逆効果だ。


 あいつらも苦しんでた……? いや、違う! 違うに決まってる! 狂ってるのは俺だけだ!


《細木は麻生の話をして「あいつに何もしてやれなかった自分が悔しいよ……」と震えてたじゃないか。いつもああいう姿を得意の演技を使って誰にも見せず、頑張ってきた細木でさえも隠せないほど、苦しんでたじゃないか――》


 いや、違う! 逆だ! あいつは何ひとつ苦しんでなんかいない! 苦しんで悔しがっている演技をしたんだ! 麻生の母に俺を会いに行かせるために演技して、自分の思うように俺が動いているのを、鼻で蔑んで楽しんでたんだ! きっとそうだ! 絶対そうだ! そうに違いない!


《……麻生は自分の犯した罪を苦しんでたじゃないか――》


 あの晩、あいつは最期を覚悟して大量の菊を持ってきていた! 殺されると分かってきたんだ! つまりあれは自殺だ! あいつは結局逃げたんだ! 一生かけて罪を償うと誓っておきながら、結局途中で投げ出して、逃げたんだ! 罪から逃げたんだ! あいつは逃げたんだ! 逃げたんだ! 逃げたんだ! 逃げたんだ! 逃げたんだ! 逃げたんだ! 逃げたんだ!


《……》


 布団の中で、小さく、小さく、うずくまる。全身を大刻みに震わせ、布団に身を潜らせた。


 なんで、なんで俺だけが罪の意識なんて感じて苦しんでるんだよ! なんで俺なんだ! なんで俺なんだ! 答えろ! なんで俺なんだ!


『あなたの心から罪悪感が検出されました。罪悪感を追い出すには死んでください』

『心の動作が遅いとお悩みでないですか? 死ねばその悩みはすぐに解決されます』

『あなたの心はクラッシュ寸前です。直すには死んでください』


「うあああああああああああああ!」


 ぷつっ。


 叫ぶと、更にもう一本、ギターの絃のような固い糸が切れたように、興奮が収まった。


「……」


『あなたの心はクラッシュしました。もう手遅れです。死んでください』


 廊下を歩く音が近づいて来て、ドアがノックされた。


「龍一? どうしたの?」


 不倫ババアの憎たらしいバカな声が耳を突っついた。


「なんでもない」


 黙れ。耳障りだ。死ね。


 俺は椅子に座り、パソコンを開いた。

 広告詐欺に遭ったことを話した後に言った、木本の言葉が頭によぎった。


 ――リアルを経験した後か、明日地球が破滅するかっていう時まではとっときな。


 俺は木本が送ってきたメールに書いてあったアダルトサイトの名前を打ちこんだ。


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