32
家に帰り、部屋で飲みかけのサイダーをカバンから取り出して蓋を開けると、中身が吹き出し、蓋が飛んだ。
ベッドがびしょびしょに濡れた。
汗ふきタオルでいくら拭っても、サイダーの甘ったるい冷たさはシーツに染み込んで取れない。
罪のにおいも決して拭えない。鼻を押さえても消えない。鼻の中からにおっているようだ。
くさい。今までの比じゃない。苦しい。息ができない。肺胞全てに、においが行きわたり、脳へ、脚へ、中指の先の毛細血管へ、ドクドクと罪悪感が広がっていくようだ。何度咳をしても、くしゃみをしても、何の罪も侵していない人を、独りよがりに殺した罪は薄れやしない。犯罪者を殺しただけだという正当化の杖を突いて、初めて気を持つことができたのに、その無理やりな正当化さえ、ぐしゃぐしゃに握り潰されてしまった。もう、駄目だ。もう、無理だ。
『あなたの心はクラッシュ寸前です。直すには死んでください』
無機質な音が頭の中で響いた。
なんとか家に帰ることはできたが、これ以上何もできない。死ぬことさえできない。
ヒリヒリする、と思って木本に殴られた頬を触ってみた。
「痛った……」
腫れているなと思い、スマホ画面を鏡にして見てみると、白黒画面でも、確かに腫れているのが分かった。パッと見ただけでは気付かないかもしれないが、じっと見れば、十分に気付けるくらいの大きさだった。今日が週末で良かった。
「……ああ」
これ以上、あとひとつでも何か裏切られるようなことが起きれば、気が狂ってしまいそうだった。
それにしても、と思った。どうして麻生は財布泥棒を犯していないのに、わざわざ裏山に来たんだろう。あれが自分の財布なら、木本や俺が担任にチクッたところで自分は無実だと証明できるだろうに。
それだけ、麻生には限界が来ていたということだろうか。最初から死ぬ覚悟で裏山に来たのか。だからあの日だけお供えの花が特別だったのかもしれない。
苦しみから逃れるための変則的な自殺? いや最後の禊だったのかもしれない。自分で罪の意識やにおいに苦しみながら、刑務所のようにつまらなく長い時間を送るだけじゃ駄目だと思っていたのかもしれない。そんな時に肉体的に苦しむ禊になるであろうチャンスが訪れた――。
コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。
「……はい」
「龍一。お母さんだけど、いい?」
「……いいけど」
俺の返事を聞くと、母さんはドアを『おそるおそる』といった具合にゆっくり開けて部屋に入り、ゆっくり閉めた。
「珍しいね」
母さんが俺の部屋に入って来ることなど、普段ほとんどない。前に入ってきたのがいつだったのかも思い出せないくらい、昔だと思う。勝手に入ってきてなければ、だが。
「ちょっと、話があるの」
そんな母さんは、久しぶりに息子の部屋に入ることに緊張しているのか、喋りながら、さりげなく部屋を見渡していた。
いや、息子の部屋に入ることより、その『話』をすることに対する緊張の方が大きいかもしれない。
「話って……何?」
普段、のほほんとしている母さんの、緊張した表情と声につられ、俺も、自分の心臓が、きゅっ、と、引き締まるのを感じた。
「あのね、」
母さんは、一度も俺と目を合わさず、カーペットに正座した。そして、決意したようにごくりと唾を飲み、初めて目を合わせた。
「お父さんと、離婚しようと思うの」
「……え?」
リコン……離婚?
聞き間違えかと思った。そんな節は、今まで、一切感じられなかったから。
「り、離婚……?」
否定してほしいと思った。聞き間違えだと笑って欲しかった。
でも、母さんは首を縦に振った。
「うん。龍一も、もう大人だから、この意味は分かるでしょ?」
分かる。分かるけど……そうじゃなくて……。
「なんで?」
母さんは、自分の胸に白い拳を、そっと置いた。目の粗い皺が痛々しかった。
「最近、あの人からの愛を感じられないのよ。お母さんね、ずいぶん長いことあの人の笑った顔、見てないのよ。私もあの人を愛すのに、もう限界が来ちゃって。夫婦が成り立つための基盤が、うちにはもうないのよ」
「そんな……」
両親の間にそんな亀裂が入っていたなんて気付かなかったことにも驚いた。でも、母が父のことを「あの人」という距離を置いた呼び方をしたことに、より大きな何かを感じた。上手く言葉にできない何か。
それに、
「母さん、最近幸せそうだったじゃないか」
「それは、あれよ。パートや私生活は幸せだったから」
「父さんが母さんのこともう好きじゃなくなったなんてこと、ないよ」
考える前に、そう発していた。
母さんは、そんな息子に驚いた様子だった。
「どうして?」
何を剥きになってるんだろう、と脳裏によぎるが、震えた言葉が先に出てしまう。
「だって、母さんが最近よく使っている、あの高そうなカバン、父さんからのプレゼントだろ?」
二週間前、クレジットカードを借りた時に持っていたカバンを、思い浮かべた。父さんから貰ったんだなあ、と俺は認識していたし、それ以外の答えなんてどこにも見当たらなかったから、ほとんど確信を持っていたと言っていいだろう。
しかし、その返答は予想外のものだった。
「違うわよ」
「え?」
少し怒りを込めるように力強く、母さんは言った。
「あれは彼の。あの人は何もくれなかったし、それどころか『誕生日おめでとう』すら言ってくれなかったわ」
母さんの意味の分からない言葉が頭の中で何度も回転する。福引の球のように、一番の不可解な言葉が口から出た。
「……『彼』って?」
「あ、えっと……」
母さんは恥ずかしそうに右下を向いた。
「私の、不倫相手」
「……」
ああ、そうか。と思った。驚く前に、そう思った。
昇進したわけでもない父さんがあんなカバン買うなんて、よっぽど奮発したんだな、と思っていた。でも、そうじゃなくて、最初から買ってなんかいなかったんだ。言われてみると、その方が、ずっと、辻褄が合う。
それに、父さんが最近になって積極的に残業するようになった、なんて分かりやすい不倫の合図に母さんが全く気付なかったのは、自分自身が不倫していたからだったんだ。人を騙している人間は、自分が騙されているなんて考えもしない、と聞いたことがある。
「……そう。いつから、してるの」
「そうね。龍一が中学三年生の頃の、秋、くらいかな」
「そんなに前から……」
言葉が漏れると、母さんは申し訳なさそうに「ごめんね」とうつむいて呟いた。でも、多分演技だ。反省なんてひとつもしていない。夫以外を愛して何が悪い、とでも思っているに違いない。
それに、中三の秋といえば、
「――鮭が初めて出てきた頃……」
俺の重たい台詞を聞き、思い出したように母さんは軽く答えた。
「あー、そうね。丁度あの時よ。彼が『家族にもっといい物食べさせてやりな』ってお金をくれたの。それから、会う度に、数万円」
そう言って、母はニコッと、はにかんだ。
食卓に一品増えたのはそのせいか。
そういえば、こんな言葉を聞いたことがある。
『妻が急に元気になったら、浮気を疑え』。
おっとりゆったりした母さんが、テキパキと仕事をこなすようになったり、化粧が濃くなったのも、不倫が原因だと、事務的に悟った。特に、感情に訴えて来るようなものは既にない。呆れているというか、なんというか。
「この家を出て、彼の家に住もうと、私は思ってるの。離婚の慰謝料も彼が払ってくれるって」
「お金持ってる人なんだ」
「うん、企業の社長。龍一の親権については、あの人としっかり話し合うつもりよ。私は龍一に任せるように説得するつもりだけど」
親権は自分が欲しい、と母さんは言わなかった。
だから何?
自分に問いかけるが、別の誰かが「そんなの、本当は分かってるんだろ?」とほくそ笑んでいる。
「とりあえず、明日のお昼にでも話し合おうと思ってる。離婚届はさっき言ったカバンに入ってるわ。今日は龍一の気持ちを聞きたかったの。いい、よね?」
「別にいいよ」
吐き捨てるような口調で、俺は言っていた。
「もう大人だから。子供じゃなくてさ」