31
その日の帰り。普段なら喜びに満ち溢れる金曜日の下校中。なにもかかわらず、俺は痩せこけていた。
「最悪だ、死にたい」
睡魔よ、俺を殺してくれ。
「ごめんって。ごめん。許してくれよ」
木本はしてやったりな顔で大笑いしている。
「何でこうなるんだよ……」
「既読スルーするからだよ」
少し前に、セックスで終わる変な夢を見て、夢診断した結果、「お前は欲求不足だ」とスマホに図星を突かれて「ハハハ」と独りで笑ってしまった時のことさえ、「エンコー申し込んだらOKだったから嬉しすぎて笑った」と解釈されてしまう始末だった。
「そんなことよりさ、コンビニ寄らないか?」
「そんなことよりって……」
そんな軽い言葉で済まされる現状ではない。
結局コンビニに行くことになった。木本はガムと月刊の漫画雑誌が買いたいらしい。
入ったのは通学路にある駅前のコンビニ。――麻生が担任の財布を持っているのを目撃したあのコンビニだ。
コンビニに入ると、パートらしきおばさんの業務的な心のこもっていない「いらっしゃいませー」が聞こえた。
そういえば、コンビニに入るのは久しぶりかもしれない。昼ご飯はだいたい母さんの作る弁当か食堂のご飯だし、漫画は単行本派だし、無趣味なので雑誌はほとんど買わない。お菓子もあまり食べないしジュースもあまり飲まない。多分、前にここに来たのは先月の今日、木本が月刊の漫画雑誌を買いに来た時だろう。
買うものも特にないし、とりあえず木本について行こうか。
木本がコンビニに入ったところで左に曲がったので、その背中を見ながら俺も左の雑誌コーナーへと曲がった。
色んな雑誌があるな、と棚を見ながら同時に木本の動向も見ていた。木本も棚を見ながら歩いている。
あった、と俺は気付いた。木本が愛読している雑誌は棚の下に五冊ほど積み上げられていた。
でも、木本はそれがちゃんとあるのを確認しただけで手には取らず、そのまま黙って歩いて行った。
あれ? 他のも買うのか。
木本は雑誌コーナーの端、つまり角の十八禁コーナーで立ち止まり、手を伸ばしたので、俺はさも赤の他人のようにその角を曲がった。コンビニは基本的に個人で行動する所だろう。
左に一面飲み物が陳列されているのを見ると、何故か急にのどが渇いてくる。カバンの中にお茶はあるけど……たまにはジュースくらい飲んでもいいかもしれない。
透明の扉を開けて、真っ先に目に入ったサイダーを手に取った。
次に俺は弁当のコーナーに足を運んでいた。別におなかがすいているわけでもないし、家に帰ったらご飯だってあるが、自然とそちらに足が向いていたのだ。
麻生が最後に買ったのはどれだろう、と棚を見た。でも、分かるはずはない。麻生の母親の持っていたレシートをもっとよく見ておくべきだった。
いや、別にどれでもいいじゃないか。買わないんだから。
そんな変な自分を客観的に見て、自分の変化が、痛かった。
嫌いだったはず人間の行動を、いま、俺は知ろうとしていた。跡を辿ろうとしていた。
何だろう、この気持ち。
結局、サイダーだけをレジに持って行き、金を払って外に出た。一口だけ飲み、カバンに入れる。たくさんの生徒が駅へと歩いているのを眺めながら、木本を待つことにした。
イヤホンを耳に刺し、無表情にひとりでさっさと歩く者もいれば、数人でキャッキャキャッキャと笑いながら、周囲の迷惑を気にもせず、横柄に歩いている者たちもいる。こうして外から見ていると、ひとりで歩く人は悲しく見えるし、数人で歩いている人は目障りに見える。あまりいいように目に映る人はいない。せいぜい「あの子可愛いな」くらいだ。
じゃあ、自分は他人からどう映っているのだろう。
罪と戦っている、ようには見えないだろうな。
そんなことを考えていると、木本がやってきた。
「お待たせ。そんなことより、なんで、俺が立ち止まったらどっか行くんだよ」
手に雑誌とガムのボトルが入ったレジ袋を右手にぶら下げ、財布にレシートやお釣りを入れながらの登場だ。
「立ち止ったのが十八禁コーナーだったからだよ」
「買ってはないぞ。立ち読みしただけだ。それとも、お前のために熟女ものでも買ってやったらよかったか?」
「断じてやめてく――」
言葉が途切れた。木本の手にあるものを、認識して。
財布が、いつものと違う。いつものがどんなのだったかはよく思い出せないが、とりあえず、いつものじゃない。でも、新品でもなさそうだ。白と黒のストライプの、白部分が少し黄ばんでいた。
ただの財布なら、特に何も感じなかっただろう。しかし、この、白と黒のストライプ柄の長財布は、前まで担任のポケットから顔を出していた、麻生に盗まれたはずの財布と瓜二つだった。
「おい、その財布……」
「ん?」
「その財布だよ」
「ああ、これ?」
すると、木本は口角を上げて、今にも噴き出しそうな声で、言った。
「担任のだよ」
……は? どういうことだ?
「おいおい……、コンビニ帰りの麻生を襲った時、財布は返したはずだろ。裏山にはあいつ手ぶらで来たし。どこでそれを……」
「あれ、言ってなかったっけ?」
惚けるような言い草だったが、それが『わざと』なのは明白だった。
「あ、言ってなかったな。担任の財布を拾ったの、俺だよ」
廊下に落ちてたからさ、と、右手に持った長財布を左手でポンポンと叩きながら、コンビニと隣の建物の間の隙間へ鷹揚と入っていった。
「貰っちゃった」
「ちょっと待て……」
木本に続く形で路地に入っていくが、それどころじゃない。頭がこんがらがっている。
そんな、混乱を起こした脳の中で、自分の足元がばらばらと崩れ去っていく恐怖のようなものが、暴れまわっていた。
「それ盗んだの、麻生じゃなかったのか」
すると、木本はダムが決壊したように、大口大声を上げて笑った。
「ハハハハハ!」
それを見て、不思議と、何も思えなかった。
ただ、木本を見つめることしかできない。
笑い尽くし、いくつか弾き笑いした後、涙をぬぐいながら、木本は、一音一音、はっきりと言った。
「龍一さ。ホント、観察力足らないよな。あ、そうか視力もよくないんだったな。それだったらしょうがないか。いや、それでもやっぱり観察力足らないよな」
「なんのことだ……」
路地の影に入り、木本を睨んだ。
それでも木本は、堰が切れるのを堪えながら笑っている。
「今まで何度もこのコンビニに麻生が入るのを俺は見てるんだよ。お前の隣で」
「……」
「だから俺は知ってたんだ。麻生が担任と同じ財布を使っていたことを」
「え……?」
ハハハ、と木本は嘲笑し続ける。
「まさか財布かぶってるやつが同じクラスにいるとはな」
「ちょっと待て……。ってことは、麻生は最初から財布を盗んでなんかいなかったのか?」
木本は人を見下した目で笑ったままだった。
「だから、さっきからそう言ってるだろ。財布盗んだのは俺。麻生は何にもしてないんだって。ハハハッ」
「……」
「いつ誰が死の引き金を引くかなんて、分かったもんじゃねえよな。まさかあいつも、俺の盗みが自分の死の引き金になるなんて、一欠片だって考えもしなかっただろうぜ」
恥ずかしさなのか、怒りなのか、血液が沸騰している。体が熱くなる。それと共に罪のにおいが更に強大に進化して鼻に入っていく。
腕が震える、足が震える。口も震える。
「……じゃ、じゃあ、俺は、何の罪もない、人間を――クラスメイトを――殺したのか?」
否定してほしかった。そんなわけないだろ、と言ってほしかった。
なのに、木本は即答する。
「ああ。そうだよ」
麻生は罪と戦い続けていた。それを知って、俺は罪悪感に苛まれて苦しんでいた。どうしようもない後悔で潰れそうだった。自分を少しでも正当化しなければ今にも壊れそうだった。
――俺たちは犯罪者を裁いただけだ。何も罪悪感に苛まれることはないだろ。
それすらも、否定された。
次の瞬間、俺は木本の胸倉を掴み、外壁に木本の背中を押し当てていた。
「なんで言わなかった……っ! 麻生は財布泥棒なんかしてないって、したのは自分だって……、なんで言わなかった!」
「どうしたんだよ、急に。なにキレてるんだよ」
「いいから答えろ!」
俺が睨みつけると、また木本は笑いだした。
「アハハハハ」
その意味の分からない笑いに、思考の歯車が狂い、世界が逆回転するような錯覚に襲われる。
「……何が、おかしい」
「お前、イライラしてたじゃねえか。担任に殴られて。何かにやつ当たりしなきゃ気が治まらないって感じだっただろ? そこで麻生がコンビニにいるのが見えたんだ。俺が盗んだ担任のと同じ財布を持っているあいつを。これは丁度いいって思ってさ。全部お前を思っての行動だよ。For 龍一、さ」
「なにっ……!」
握る手に力が入る。ワイシャツが絞めつけられて悲鳴を上げる。
「それに、お前優しいじゃんか。だから真実を知ったら傷つくかなあ、と思って、ずっと黙ってやってたんだよ。現に、お前は何故かキレている。命の恩人の胸倉を掴んでいる」
自分の歯ぎしりが耳に歪む。ぎりぎり、と耳が、歯が、手が、震える。
「あと、何も知らないお前を見てたら面白くてさ」
「……あ?」
「だってさ、麻生を斜面から転がして、あいつが死んだ時、お前言っただろ。『そんな、本当に死ぬなんて……』って。もう、面白くてさ」
『死』が、面白い?
前までは自分だってそう感じていたはず。なのに。
「何がだ……!」
「最初から殺す気じゃなかったのか、ってことだよ」
「は……?」
また、歯車が戻る。一周回って元に戻ればよかったが、そんな奇跡など起こりはしない。
「お前は……、最初から殺す気だったのか?」
そして、狂った。
俺が、じゃない。木本が、だ。
「ハハハッ!」
握りしめた手が、ハッとほどかれるほど、その奇声は激しかった。
今まで木本と散々つるんできて、こんなに楽しそうに、大袈裟なまでに声をあげて笑うのを見たのは、初めてだった。
「当たり前だろ! だからスコップ用意してたんだろうが! あれはな、俺が前もって誰かうざい奴を埋めるために用意してたんだよっ! まあ、すぐに使う羽目になるとは思わなかったけどな。まさかお前、マジであれが偶然あそこに置いてあった、なんて信じてるんじゃないだろうな?」
はっ、とした。
確かに、なんであんな物が都合よくあるんだ、と疑問には思っていた。そんなラッキーあるのかと。でも、最初から殺す気なんてなかった俺には、あれが意図してあったものだなんて鱗粉ほどにも思いもしなかった。そもそも、俺には、木本の「ラッキーじゃない。これは国民の義務を果たした俺らへの神様からのささやかなご褒美だよ」という言葉を信じるしか選択肢なんてなかった。
確かに、ラッキーではなかったわけだ。
「あれ? その顔は図星? ハハ、マジかよ! 頭悪過ぎだろ!」
「黙れ!」
ぱぁん。
俺は、左手で木本の頬を殴っていた。
木本の顔が揺れる。でも、ダメージを受けた様子はない。
彼は殴られたことすらなかったように、坦々と喋り続けた。
「考えてみろよ。あいつを生きて返したらどうなるか。暴行罪で俺たちは一発逮捕だ。だが、殺して埋めて、証拠隠滅すれば俺たちは逮捕されないかもしれない。こっちの方が期待値は数倍高いだろ。現に俺たちは捕まっていない。あそこで生かしておいたら、俺たちはこうしてコンビニを訪れることすら許されなかっただろうな」
それは間違いない。でも、根本的な何かが間違っている。
ぱぁん。
もう一発木本を殴る。
やはり、その差は象とフンコロガシほどだった。
一般人と、怪物の差。
「利き手じゃない手で殴られても痛くないんだよね。ほら」
その語尾と共に、俺は倒れていた。それから右頬に強い衝撃が走り、掴んでいた胸倉から手が離れていたことに気付いた。
殴られたのは顔なのに、腹の奥から吐き気のようなものが湧いてきた。
「あれ? 俺もちゃんと利き手じゃない左手で殴ったんだけどな。あ、そっか。お前弱いんだったな。忘れてたよ」
両手を地面に突き、うつむいて息を切らせ、ピントのずれた目で、コンクリートを眺めた。
群れから外れた蟻が一匹、うろうろと挙動不審に歩いていた。
不甲斐ない。自分が、不甲斐ない。堪らなく情けない。
「一応言っておくが、変なこと考えるんじゃねえぞ。お前にとって俺は友達、兼、命の恩人。俺にとってお前は友達、兼、奴隷だ。余計なこと考えたら、その命はないと思え」
木本は振り返り、去って行った。
「また月曜日に。それまでじっくり頭冷やしておくんだな」