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翌朝、やはり父さんは家にいなかった。母さんは父さんの浮気なんか気付いた様子もなくテレビのニュースを見ている。「あの人気俳優とあの人気女子アナがラブホテルに入っていくのが目撃されました」と女性キャスターが嬉しそうに視聴者にV振りをしていた。
母さんは「バカねえ、こんな言い逃れできないところ入っちゃって」と、蔑むようにも楽しんでるようにも見える顔で、呟いている。
あんたもバカじゃないか、と言いかけてしまい口を両手で押さえる。どうして今まで全くと言ってもいいほどなかった残業――しかも泊まるほどの――が繰り返されているのに疑いすらしないんだ。
母さんは昔から、少しのほほんとしていて抜けているところがあるとはいえ、さすがに鈍すぎる。
いっそ「斉藤さん家のお父さんと職場のいやらしそうな女性がラブホテルに入っていくが目撃されました。言い逃れはできません」と報道してくれないだろうか。
もう眠れないことに慣れたかもしれない、と登校しながら思った。一周回って笑えさえするくらいだ。
昨日は麻生への罪悪感が強まった上に、父さんの浮気を目撃してずっと考え込んでしまっていた。残業なんて分かりやすい浮気のサインを出しているのに、一向に気付く気配もない母さんにも、イライラすらしていた。もちろん睡魔も呼んだが、やっぱり来ない。渋滞にでも遭ってるのだろうか。
気がつくと鼻を触っていた。弾くように鼻から手を離す。
今日何曜日だっけ、とスマホを見る。金曜日だ。そういえばあのスパイウェア詐欺から明日でちょうど二週間だな。
ああ、頭が回らない。
『頭の動作が遅いとお悩みでないですか? 自首すればその悩みはすぐに解決されます』
無機質な声が自分の中から聞こえる。
自首は、しない。そう決めたんだ。
「みんなに報告あるんですけどー、ミサンガ切れましたぁー」
学校に着き、教室に入るとそんな呑気な女声が聞こえた。
すると、数人の女子がキャーキャーわめき始めた。
「おめ、おめ、おめ!」
はいはい、おめでとう。一億円拾えるといいですね。
席に座ると、栓が緩んだように汗が噴き出してきた。歩いている頃から汗は掻いていただろうが、全く気にならなかったというか、気付かなかったというか。あ、そういえば今夏だ、と改めて思い出された。
頭がどんどん鈍くなっていくのが、鈍っている頭の中でも分かるくらいはっきりしてきた。昨日、初対面がたくさんあって頭を使い過ぎたのかもしれない。
ハンカチで顔を拭いているとミサンガの歓声の中、「斉藤、」と誰かが呼ぶ声が聞こえた気がした。ついに幻聴まで現れたかと思ったら、目の前に細木が立っていた。
「無視かよ」
「あ、ごめん。気付かなかった」
「そんなに影薄いのか俺は。サッカー部のキャプテンだぞ」
「敵にマークされないから便利じゃないか」
「味方にも気付かれないんじゃパスももらえない」
「今更だけどサッカー部のキャプテンのくせに童貞なのかよ」
「うるせえな」
「お前が話しかけてきたんだろ。何の用だ」
「麻生の親には会ってきたのか?」
「またかよ」
「まただよ。何度でも訊くぞ。お前が『もうやめてください細木さまぁ! 靴舐めますから許してくださいお願いします!』って土下座するまで聞き続けるぞ」
「……会いに行ったよ昨日」
観念する、というのではないが、そんな感じに真相を伝えた。
おっ、行ったのか、と細木はにやけた。「どうせ行ってない」とでも思っていたのだろうか。
「墓石の花は麻生が置いてるんだってさ」
彼の母ではなく花屋から聞いたとは面倒なので言わなかった。そこはさほど重要ではないだろう。
「そうか、やっぱりな。俺の予想は当たった。さすがは細木様だ」
「分かったら散ってくれ。俺はお前の靴なんか舐めたくないし、何より眠たいんだ」
とは言っても、においのせいでほとんど眠ることすらできない。
そこで、木本が教室に入ってくるのが見えた。俺と目が合うや否や、ニヤっ、と笑った。
噴き出す汗が、冷や汗に変わる予感がした。
「龍一ー! 昨日の援助交際はどうだった?」
おい、と反論する前にクラス中がざわめき、蔑みの視線が容赦なく送られてくる。ミサンガが切れたという話題はどっかに飛んで行ったようだ。
これはヤバイ。
いや、違う。違うんだ、と教室を宥めながら立ち上がるも、木本は止まらない。
「相手はやっぱり熟女だったのか?」
「違う」
すると、細木が跳ね上がるように立ち上がった。
「まさか斉藤、麻生の母親と!」
「違う!」
「ベッドの中で話聞きだしたのかよ!」
「違うって!」
「おいおい、何のことだよ細木」
木本が食いついてきた。
やばい。このコンビはやばい。うざすぎる。
「違うって! エンコーなんてしてないって!」
「おお、木本。あのな、コイツ……麻生の母親とワン・ナイト・ラブだぜ」
「やめろー!」
結局俺は「息子を失った母親の悲しみに漬けこんで不貞行為を行った変態熟女好き」というレッテルを貼られることになった。