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 結局花は買わなかった。冷静に考えたら家に花瓶なんてない。麻生が作ったであろう墓においてこようかとも思ったが、今は丁度部活が終わるくらいの時間帯。通学路を逆走するのはどうしても気が向かなかった。


 迷惑な客ですみませんでした、と帰り際に謝ったのだが花屋の店長は「迷惑なんて、そんなことないわよ」と謙遜してくれた。「花屋なんてあんまり人来ないから、こうやって色々会話できただけで嬉しいのよ。そうね、今度あの子が来たらプレゼントしてあげようかしら」




 帰りの電車はさほど混んではおらず、空調が十分に効いていた。仕事終わりのサラリーマンはたくさんいたが、高校生はまだ少なかった。


 俺は電車に乗りこみ、居眠りしているサラリーマンの横に座った。

 今日も一日お疲れさまでした、と心の中で呟いてみた。なんか、自分も営業を終えて会社から帰っているサラリーマンになったような気がしたのだ。ちょっと背筋を伸ばしてみる。どこか達成感があって気持ちがよかった。


 電車が動き出し、窓の景色が横へ流れていく。景色自体はいつもの見慣れたものだが、いつもより少し暗い。そのせいか、初めて通る道を歩いているようなワクワクが踊っていた。

 あっという間に電車が速度を落とし、慣性で隣の居眠りサラリーマンが揺れ、肩がぶつかった。それでも彼はまだ起きない。

 プシューと扉が開く。この車両からは誰も降りず、誰も入らなかった。こんな浅い時間なのだから、それが当然なのだろう。


 窓の外には例のラブホテルが仁王立ちしている。「高校生がよく使う道にお前みたいなのがそんな堂々と立っていいのか」と指をさす駅に対して「だからどうした」と上から睨んでいるような、不思議な威圧感さえ感じる。

 きっと、あと数時間もしてすっかり暗くなった辺りで、この電車から降りる人が増えるのだろう。


 扉が閉まり、サラリーマンに吸い寄せられるように慣性がはたらいた時だった。窓の向こうに、スーツ姿の男女が一組、楽しそうに腕を組んで歩いているのが見えた。こんな時間にここを使う人がいるんだな、とある種の感動を覚えたが、その男には見覚えがあった。


 父さんだ。


「……え?」


 顎が落ちるように、口が開いていた。

 乗り合わせている乗客が数人、疲れの隙間から蔑むような睨みを効かせたかもしれない。だが、俺の目には窓の外の遠ざかっていく二人の背中しか映っていなかった。

 レディーススーツを着て茶髪のパーマをかけた女性には見覚えがなかった。だが、男の方は父さんにしか見えなかった。


 どうして……? 見間違い?

 そうだ、そうに違いない。見間違いだ。見間違いに決まってる。


 俺はひたすらに「俺は目がよくないんだ」と言い聞かせた。でも、髪型や背丈、スーツは毎日家で見かける父さんと同じものにしか見えなかった。

 いや、同じような髪形と背丈と、ややぽっちゃりした体型で、同じようなスーツを着ている人なんか五万といるんだ。それだけで、あれが父さんだと決めつけてはいけない。


 それに、ただひとつ、家での父さんと全く違うところがある。

 笑顔だ。あんな楽しそうに目を細めて笑う父さん、見たことない。


 自分に言い聞かせる中、気付いた。

 目が悪いって自分に言い聞かせてるくせに、笑顔まではっきり見えているじゃないか。


 何かが、深い海の底へとゆっくり沈んでいく。水圧に押され、胸が苦しくなる。叫ぶように、心臓が、バクバクと、胸の裏側を叩く。

 俺は、くだらないことを言い聞かせるのを、やめた。余計に苦しくなるだけだ。それに、あのホテルに泊まるなら今晩は帰ってこないはず。あれが他人の空似なら帰ってくるはずだ。




 家に帰り、玄関を開くと、ゴーというガスの音と、ジューという鉄板で何かを焼いている音が聞こえた。


「ただいま」と、通過儀礼的な抑揚のない声を出す。

「おかえり」と、はきはきした母の元気な声が聞こえた。


「今日遅かったわね」


「友達と遊んでたんだ」


 こんないい奥さん貰って浮気なんてするはずない、と思いながらダイニングのドアを開けると料理の音がクリアに聞こえた。

 その時、気付いてしまった。

 もうすぐ父が帰って来る時間のはずだなのに、テーブルの上にはご飯茶碗が二つしかなかった。俺のと、母さんのと、二つ。父さんのがない。


「と、父さんは……?」


「今日は残業で帰らないって」


 今日は龍一の好きなハンバーグよ、と母さんは笑った。


「あ、そう……」


 駅で見かけた男の、楽しそうな笑顔が脳裏に浮かんだ。

 いや、あれも営業か何かかもしれない。女性社員と二人であの辺りの得意先にでも訪れているのかもしれないじゃないか――なら、どうして腕なんか組んで……。


「最近忙しいみたいね、お父さん」


 そう言えば、ここ一、二か月、父さんが残業で帰ってこない日が三、四回あった。

 ……そうか。父さん、浮気してるのか。

 最近太ってきたっていうのも、幸せ太りだったのか。

 息子の通学路にあるラブホに行くなんて、詰めが甘すぎるよ。


 もう、自分に「そんなはずはない」と言い聞かせる気力なんてなかった。自分の中から何かが抜けて空へ昇っていくような脱力感。それが、体をリビングのソファに倒れ込ませた。




 ――男だって女だって浮気くらいする。でもどうして男だけが浮気をするというイメージがあるか、分かるか?


 木本の声が頭の中で鳴った。これはいつのことだっただろう。中学を卒業する前くらい、登校時に手袋やマフラーを外した頃だった気がする。

 分からない、とあくびをしながら答えた記憶がある。登校中だっただろうか。当時木本には彼女がいたが、その前からの習慣を崩したくないのか崩せないのか、俺をひとりするのが可哀想なのか。分からないが、登下校は俺と続けていた。

 別に近所というわけではない。ただ単に通学路が途中で合流するので、そこから一緒に通っていたのだ。


「男はいつだって詰めが甘いんだ。だから浮気なんかしてもすぐにばれる。逆に女は狡猾で頭がいい。いざとなったら、記憶を自分の都合のいいように塗り替えることだって、できるらしい。嘘発見器くらい軽く騙せるんだってさ。それくらい女ってのは頭がいいんだ。だから、浮気しても、ばれない。故に、バカな男だけが浮気をする、っていうイメージがでっち上げられるんだ」


 まさにその通りだ、と二年越しに実感した。男は浮気してもばれるものだから浮気なんてするべきじゃない。それでも浮気するのが『男はバカである』と言われる何よりの所以(ゆえん)なのだろう。


「そんなことよりその手どうしたんだよ」と言った記憶もあった。


 その時、木本の拳にはガーゼと包帯が巻かれていた。よくみると、口元もかさぶたで赤くなっている。


「そういえば昨日休んでたな、龍一」


 そうだ。この前の日、俺は春めいてきた頃にも関わらず、風邪をひいて寝込んでいたんだ。


「昨日喧嘩したんだよ」

 木本は少し悲しげな表情だった、気がする。「正確には喧嘩しかけた、だな」


 珍しい、と俺は思った。『喧嘩しかけた』ということではなく、いつも自信家な彼の悲しげな表情に。


「誰と?」


「西嶋」


「え?」


 西嶋といえばうちの学校の成績トップ者で、テニス部のキャプテンをしていた色男だ。あまり喧嘩なんかするイメージはない。


「どうして喧嘩に?」


 西嶋と木本は同じクラスで、席もふたりとも後ろの方で近かったと思う。仲のいいイメージはなかったが、特別悪いイメージもなかった。


「ちょっと、あいつがムカつくこと言ってさ……」


 木本は笑っていた。だが、不器用な作り笑いにも見えた。


「一発殴って、もう一発殴ろうとしたら避けられて、まあ当たったは当たったんだけどさ、いくらテニスができるとは言っても、あんなやつに俺のパンチがよけきれるはずがないしな。まあ、後ろの黒板の枠の金属も一緒に殴っちまって、この怪我だ。そしたら後ろからクラスの連中に羽交絞めされて、職員室行きだよ」


「そうか」


 それ以上何も訊かなかった。木本の暗い瞳を見ると、あんまり介入するべきじゃない問題なんだろうな、と感じたのだ。


 木本のクラスと俺のクラスは別々だったが、教室に着くと、どこからか昨日の喧嘩の話題のことが聞こえてきた。木本はともかく、西嶋が喧嘩したとなれば、翌日まで話題が残っていても不思議ではない。


 どうやら喧嘩の理由は二人とも話さなかったらしい。木本も西嶋も、別々の輪の中で話していたらしいが、突然木本が「なんだと、この野郎!」と叫んで西嶋に襲いかかったとか。木本と一緒に話していた連中は西嶋が何を話していたかは聞こえてなかったらしいが、西嶋の友達は「聞こえなかった」では済まされないのだろう、彼らも黙秘を続けていて、「プライベートな問題だから」と証言したらしい。


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