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 小六の夏。麻生信次は裏山で友達数人とじゃんけんをしていた。今から鬼ごっこをするので、その鬼を決めているところだったのだ。


「じゃん、けん、ほい!」


 この日は本当に暑かった。町中にいると、アスファルトの悪魔的な熱で、すぐにでも倒れてしまいそうなほどだった。だが、この裏山では影が多くて自然も多く、涼しかった。Tシャツにしみ込んだ汗が、柔らかい風になびかれてひんやりするのは、気持ちのいい風物詩だ。


 麻生は額の汗を右手でぬぐい、それをTシャツの裾に擦りつけた。

 彼は、足にはそこそこ自信があり、鬼ごっこで鬼になることは、あまりなかった。


 この仲間内では一位。

 同率の一位だ。

 細木と、同率の一位。


 細木が鬼でない限りは敵無しなのだが、この日は細木が鬼になった。

「やばい」とみんなが蜘蛛の子を散らして必死で逃げていく中、麻生は「30、29、」とカウントする細木の前でストレッチをしていた。久しぶりに彼と本気で走りあえると思い、楽しみで仕方がなかったのだ。


「10、9、」


 細木もカウントしながら麻生と向かい合い、にやにやと笑いながらアキレス腱を伸ばしていた。


「4、3、」


 麻生はゆっくりと足を交互に前を出してゆっくりと走り始めた。


「2、1、」


 細木は速く走りたくてうずうずしていた。その顔には、このたった三十秒の直後のために生まれてきた、とでも言いたげな喜びにあふれていた。


「ゼロ!」


 細木はスタートダッシュを切り、麻生はギアをトップスピードに切り替えた。


 二人は、空気を裂く風となった。木々の間を駆け抜ける突風だ。長所や短所の違う、一対の風。距離が縮んだと思ったらまた離れ、離れたと思ったらまた縮み。一定の距離を保ち続ける。

 毛先から汗が弾けるたびに、彼らは最高潮の快感に震えあがった。輝く目には、もう、二人にしか見えない世界しか映っていない。


 だから、麻生は気付くのに遅れた。すぐ前の木の影から、ひとりの女の子が飛び出したことに。


 全てがスローモーションに見えた。


 周囲の音が、全て低く聞こえ出す。


 踏み出す足が、ねっとりと重たい。


 少女が振り返り、髪が宙に浮く。


 そこから飛沫を上げる汗の一粒一粒が、はっきりと、くっきりと、うねるのが見えた。


 息が止まる。


 何故だろう。動きが遅いのに、方向転換がうまくできないのは。


 少女の目が大きく、開く。


 くりぬいたような大きな目に、自分の姿が、はっきりと、くっきりと、映るのが見えた。


 少女と同じ顔をした自分がいる。


 自分が、自分に、吸いこまれていく。


 外側から、景色が、消えていく。


 ふと、少女の胸に、白い花のブローチが、見えた。


 菊、に、見えた。


 死者を弔う、繊細な花、に――。




「――痛ってぇ……」


 気がつくと、彼は地に伏せていた。


 頬に火を当てられたような痛みが走る。どうやら頬を地面でこすったらしい。

 それに気付くと、思い出したように、あちこちから次々と、だ。

 膝、肘、腕、掌。

 冷たい炎を浴びせられているようだった。


 立とうと思えば立てた。だが、動きたくなかった。どちらにせよ、細木にタッチされて自分が鬼になるのは、分かっていたから。


 次に燃えたのは、耳だった。

 赤ん坊のような、つんざく泣き声が、響き始めたのだ。

 そんな高音の中で、はっきりとひとつの低い声が聞こえた。「タッチ」という、控えめな声だ。背中に細木の手が触れた。

 彼が走って逃げていく音も、それなりに低く、よく聞こえた。

 それが遠くなっていくと共に、少女の鳴き声が耳に障るようになってきた。


「あーんあー!」


 女の子の泣き声が、アドレナリンの分泌した麻生に何を与えるのかは、想像し易いだろう。おだてることでも、謝ることでもない。不快感と自分勝手な憤りだ。


「黙れ!」


 赤い顔で叫ぶ。焼けるような熱い掌に小石を食いこませ、体を持ちあげた。

 膝の砂を振り払うのも忘れ、彼は倒れる少女の元に立った。

 口をH字に曲げた、真っ赤で、どこか真っ青な顔。泣きやむ様子は、まるでない。


「あーん!」


 麻生の身勝手な怒りも、とどまる様子は、まるでなかった。


「黙れ!」


 文字通り『見下す』姿勢で、彼は声を荒らげる。


「うるさい、うるさい! ぶつかってきたお前が悪いんだ!」


 数歩、退いた。ほとんど何も考えずに。


 言うまでもなく、その数歩は助走のための歩数だ。

 地を蹴り、脚を振り上げる。


「死ね!」


 その脚に、目標が当たる直前、一瞬、麻生は我を取り戻した。

 皮肉なものだ。もう、全てが手遅れなのだから。


 岩を蹴ったかと思った。それほどの重みが彼の脚から脳へ走る。

 それが本当に岩だったら、その後の自分はどれほど救われただろうか。


 彼が、人生の中で何度そう願ったか。それは、誰にも、数えることも、察することも、できない。

 とにかく、彼は蝕まれることになる。この時の不思議な感覚に。

 岩を蹴ってしまったと思ったのに、その岩は、あまりにも軽々しく宙に舞ったのだ。


 女の子の喉が張り裂ける音がした。助けを求める、最期の声。人殺しにしか聞くことがない、残酷な音色。


 そして、森が再び、静寂を取り戻した。

 感情は後から徐々に湧き出て来るものだ、とは、誰の言葉だろうか。家族の死を告げられてもその場では涙は出ず、葬儀場で初めてそれが溢れだしてくる。

 だから、彼は、一瞬の『我』を無視することができたのだろう。


「それでいい」


 麻生は、細木を追いかけて走っていった。

 風になった楽しさを隠しきれない、笑みを浮かべて。




 罪意識が滲んできたのはその夜からだ。でも、それまで人を殺したことのない彼は、少女の最後の声が、最期の声だったなんて、考えもしなかった。故に、『反省』の二文字で済んでしまっていた。ごめんなさい、で済む話だ。

 だが、それが済まない話だと、翌日の朝礼で知った。


 感情は後から徐々に湧き出て来るものだ、とは、誰の言葉だろうか。その瞬間は「まじかよ」しか、感じなかった。

 だが、その後、朝礼で何が話されていたのか、彼は全く思い出せないでいた。朝礼が終わり、細木が「正直に先生に話に行こう」と彼の肩を叩いた時には、息苦しくなっていた。

 息苦しい、が頂点だったら、高校生の彼は普通の高校生活を楽しんでいたかもしれないが、肺を犯す重たい感情は、敗北宣言を聞く耳なんて持たない。苦しいのその先へ、感情は広がっていく。肺を超え、胃へ、腸へ、脳へ。


 重たいものを蹴ったのに、それが軽々吹き飛んでしまう、あの、矛盾した感覚。

 何度も、それが蘇った。鮮明に。痛いほど、鮮烈に。

 そして、あの声。命が途切れる声。


 彼が快楽殺人者なら、それにエクスタシーを感じたことだろう。だが、彼の人間性は、心の鬼ですら、快感にすら思わなかったほど、その真逆を行く。


 死ね。

 自分が発したあの言葉。あの瞬間、少女はまだ生きていた。

 あの子は、死ぬ前に、精神的に殺されたのだ。


 誰の手で?

 僕の手で。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 先生の前で泣き崩れた後のことは、何も覚えていない。あの子に冷たい言葉をぶつけたように、自分に冷たい言葉を与え続けたことしか。


 ぶつかった時に、鬼ごっこなんてやめていれば。

 あの子を心配していれば。

 蹴ったりなんかしなければ。

 あんなこと、言わなければ――。




 少年法により、彼は罪に問われなかった。刑務所に叩きこんでほしい、と思っていたのに。その方が少しでも救われそうだから。


 そんな彼が、「法で裁けないなら私が殺してやる!」と女の子の母が泣き崩れながら叫んだのを聞いてしまった時、何を思ったのか、何を感じたのか、誰に察することができようか。


 尖ったものを目に入れては、その度、それを目に突きたてた。

 固いものを目に入れては、その度、それを頭に叩きつける絵を想像した。


 でも、実際に行うことはしなかった。怖かったのもあるが、それ以上に、固い決意があった。

 死なない、という決意。


 自分の処罰は、刑務所という鉄壁に守られることのない終身刑。

 それを、最後までやり通さなければならない。全てを背負って生き続けなければならない。

 そんな決意だ。


 それを決意した時、彼はとある童話を思い出していた。地獄に落ちた人間が沸騰したお湯で釜ゆでにされる、という童話だ。

 その人間は、もう既に死んでいる。故に、死ねない。苦しみから解放されることなく、永久に苦しみ続けるほかないのだ。


 その人間は、自分だ。自分は今、地獄の釜に入っているのだ。




 視覚ではあの光景を。聴覚ではあの音を。触角ではあの感覚を。残りの二つである、嗅覚と味覚。それが唯一の救いだと、気付いた瞬間、あれが襲ってきた。


 罪のにおい。


 いいにおいも嗅げず、食べ物の味も打ち消されてしまうあれを感じてしまった瞬間、もう、自分は人間じゃなくなった、とさえ思った。生きる屍、というのがふさわしいかもしれない。拾いきれない罪を拾い続ける巡礼者。彼の罪は、掬っても掬っても指の間からこぼれおちてしまう砂のようだった。




 彼は、学校に毎日通い続けた。人殺しと罵られようが、通い続けた。耳を閉ざすことはせず、全ての罵倒を受け止め、ひとりで苦しんだ。


 どちらかというと、勉強は苦手だった。だから、ひたすらそこに精神を注ぎ込んだ。それで罪が償いきれるとは思わなかったが、それしかできなかった。

 高校生になると、自分の過去を知っている人はいなくなった。でも、彼は人間に戻ろうとしなかった。だから、友達など作らず、それまで通り、死んだように生き続けたのだ。


 朝早く家を出て、あの子が亡くなった裏山にも、時々行った。最初にあそこに行ったのは小学校の卒業式前日の朝だった。

 本当は、彼女の本物のお墓に行きたかった。でも、場所が分からないし、そもそも、あの子にとって、自分の墓に殺した人間なんか来てほしくないだろう。


 だから、彼女が亡くなったあの場所に、自分でお墓を作った。その辺りから大きな石を持ってきて、水筒のお茶で洗い、手で泥を拭って小さなお墓を作った。その翌日には近くの花屋で買った白い菊をお供えした。どうして白い菊を選んだのかは、自分でもすぐには分からなかったが、しばらくして思い出した。少女の胸に、白い菊のブローチが見えたからだ、と。


 作業を終えると、両手が泥まみれになっていた。それを更に水筒で洗い流すと、水筒のお茶が全てなくなってしまった。


「……」


 水筒のお茶だけでは、心に塗られた泥は洗い流せない。

 そう、思った。


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