28
小六の夏。麻生信次は裏山で友達数人とじゃんけんをしていた。今から鬼ごっこをするので、その鬼を決めているところだったのだ。
「じゃん、けん、ほい!」
この日は本当に暑かった。町中にいると、アスファルトの悪魔的な熱で、すぐにでも倒れてしまいそうなほどだった。だが、この裏山では影が多くて自然も多く、涼しかった。Tシャツにしみ込んだ汗が、柔らかい風になびかれてひんやりするのは、気持ちのいい風物詩だ。
麻生は額の汗を右手でぬぐい、それをTシャツの裾に擦りつけた。
彼は、足にはそこそこ自信があり、鬼ごっこで鬼になることは、あまりなかった。
この仲間内では一位。
同率の一位だ。
細木と、同率の一位。
細木が鬼でない限りは敵無しなのだが、この日は細木が鬼になった。
「やばい」とみんなが蜘蛛の子を散らして必死で逃げていく中、麻生は「30、29、」とカウントする細木の前でストレッチをしていた。久しぶりに彼と本気で走りあえると思い、楽しみで仕方がなかったのだ。
「10、9、」
細木もカウントしながら麻生と向かい合い、にやにやと笑いながらアキレス腱を伸ばしていた。
「4、3、」
麻生はゆっくりと足を交互に前を出してゆっくりと走り始めた。
「2、1、」
細木は速く走りたくてうずうずしていた。その顔には、このたった三十秒の直後のために生まれてきた、とでも言いたげな喜びにあふれていた。
「ゼロ!」
細木はスタートダッシュを切り、麻生はギアをトップスピードに切り替えた。
二人は、空気を裂く風となった。木々の間を駆け抜ける突風だ。長所や短所の違う、一対の風。距離が縮んだと思ったらまた離れ、離れたと思ったらまた縮み。一定の距離を保ち続ける。
毛先から汗が弾けるたびに、彼らは最高潮の快感に震えあがった。輝く目には、もう、二人にしか見えない世界しか映っていない。
だから、麻生は気付くのに遅れた。すぐ前の木の影から、ひとりの女の子が飛び出したことに。
全てがスローモーションに見えた。
周囲の音が、全て低く聞こえ出す。
踏み出す足が、ねっとりと重たい。
少女が振り返り、髪が宙に浮く。
そこから飛沫を上げる汗の一粒一粒が、はっきりと、くっきりと、うねるのが見えた。
息が止まる。
何故だろう。動きが遅いのに、方向転換がうまくできないのは。
少女の目が大きく、開く。
くりぬいたような大きな目に、自分の姿が、はっきりと、くっきりと、映るのが見えた。
少女と同じ顔をした自分がいる。
自分が、自分に、吸いこまれていく。
外側から、景色が、消えていく。
ふと、少女の胸に、白い花のブローチが、見えた。
菊、に、見えた。
死者を弔う、繊細な花、に――。
「――痛ってぇ……」
気がつくと、彼は地に伏せていた。
頬に火を当てられたような痛みが走る。どうやら頬を地面でこすったらしい。
それに気付くと、思い出したように、あちこちから次々と、だ。
膝、肘、腕、掌。
冷たい炎を浴びせられているようだった。
立とうと思えば立てた。だが、動きたくなかった。どちらにせよ、細木にタッチされて自分が鬼になるのは、分かっていたから。
次に燃えたのは、耳だった。
赤ん坊のような、つんざく泣き声が、響き始めたのだ。
そんな高音の中で、はっきりとひとつの低い声が聞こえた。「タッチ」という、控えめな声だ。背中に細木の手が触れた。
彼が走って逃げていく音も、それなりに低く、よく聞こえた。
それが遠くなっていくと共に、少女の鳴き声が耳に障るようになってきた。
「あーんあー!」
女の子の泣き声が、アドレナリンの分泌した麻生に何を与えるのかは、想像し易いだろう。おだてることでも、謝ることでもない。不快感と自分勝手な憤りだ。
「黙れ!」
赤い顔で叫ぶ。焼けるような熱い掌に小石を食いこませ、体を持ちあげた。
膝の砂を振り払うのも忘れ、彼は倒れる少女の元に立った。
口をH字に曲げた、真っ赤で、どこか真っ青な顔。泣きやむ様子は、まるでない。
「あーん!」
麻生の身勝手な怒りも、とどまる様子は、まるでなかった。
「黙れ!」
文字通り『見下す』姿勢で、彼は声を荒らげる。
「うるさい、うるさい! ぶつかってきたお前が悪いんだ!」
数歩、退いた。ほとんど何も考えずに。
言うまでもなく、その数歩は助走のための歩数だ。
地を蹴り、脚を振り上げる。
「死ね!」
その脚に、目標が当たる直前、一瞬、麻生は我を取り戻した。
皮肉なものだ。もう、全てが手遅れなのだから。
岩を蹴ったかと思った。それほどの重みが彼の脚から脳へ走る。
それが本当に岩だったら、その後の自分はどれほど救われただろうか。
彼が、人生の中で何度そう願ったか。それは、誰にも、数えることも、察することも、できない。
とにかく、彼は蝕まれることになる。この時の不思議な感覚に。
岩を蹴ってしまったと思ったのに、その岩は、あまりにも軽々しく宙に舞ったのだ。
女の子の喉が張り裂ける音がした。助けを求める、最期の声。人殺しにしか聞くことがない、残酷な音色。
そして、森が再び、静寂を取り戻した。
感情は後から徐々に湧き出て来るものだ、とは、誰の言葉だろうか。家族の死を告げられてもその場では涙は出ず、葬儀場で初めてそれが溢れだしてくる。
だから、彼は、一瞬の『我』を無視することができたのだろう。
「それでいい」
麻生は、細木を追いかけて走っていった。
風になった楽しさを隠しきれない、笑みを浮かべて。
罪意識が滲んできたのはその夜からだ。でも、それまで人を殺したことのない彼は、少女の最後の声が、最期の声だったなんて、考えもしなかった。故に、『反省』の二文字で済んでしまっていた。ごめんなさい、で済む話だ。
だが、それが済まない話だと、翌日の朝礼で知った。
感情は後から徐々に湧き出て来るものだ、とは、誰の言葉だろうか。その瞬間は「まじかよ」しか、感じなかった。
だが、その後、朝礼で何が話されていたのか、彼は全く思い出せないでいた。朝礼が終わり、細木が「正直に先生に話に行こう」と彼の肩を叩いた時には、息苦しくなっていた。
息苦しい、が頂点だったら、高校生の彼は普通の高校生活を楽しんでいたかもしれないが、肺を犯す重たい感情は、敗北宣言を聞く耳なんて持たない。苦しいのその先へ、感情は広がっていく。肺を超え、胃へ、腸へ、脳へ。
重たいものを蹴ったのに、それが軽々吹き飛んでしまう、あの、矛盾した感覚。
何度も、それが蘇った。鮮明に。痛いほど、鮮烈に。
そして、あの声。命が途切れる声。
彼が快楽殺人者なら、それにエクスタシーを感じたことだろう。だが、彼の人間性は、心の鬼ですら、快感にすら思わなかったほど、その真逆を行く。
死ね。
自分が発したあの言葉。あの瞬間、少女はまだ生きていた。
あの子は、死ぬ前に、精神的に殺されたのだ。
誰の手で?
僕の手で。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
先生の前で泣き崩れた後のことは、何も覚えていない。あの子に冷たい言葉をぶつけたように、自分に冷たい言葉を与え続けたことしか。
ぶつかった時に、鬼ごっこなんてやめていれば。
あの子を心配していれば。
蹴ったりなんかしなければ。
あんなこと、言わなければ――。
少年法により、彼は罪に問われなかった。刑務所に叩きこんでほしい、と思っていたのに。その方が少しでも救われそうだから。
そんな彼が、「法で裁けないなら私が殺してやる!」と女の子の母が泣き崩れながら叫んだのを聞いてしまった時、何を思ったのか、何を感じたのか、誰に察することができようか。
尖ったものを目に入れては、その度、それを目に突きたてた。
固いものを目に入れては、その度、それを頭に叩きつける絵を想像した。
でも、実際に行うことはしなかった。怖かったのもあるが、それ以上に、固い決意があった。
死なない、という決意。
自分の処罰は、刑務所という鉄壁に守られることのない終身刑。
それを、最後までやり通さなければならない。全てを背負って生き続けなければならない。
そんな決意だ。
それを決意した時、彼はとある童話を思い出していた。地獄に落ちた人間が沸騰したお湯で釜ゆでにされる、という童話だ。
その人間は、もう既に死んでいる。故に、死ねない。苦しみから解放されることなく、永久に苦しみ続けるほかないのだ。
その人間は、自分だ。自分は今、地獄の釜に入っているのだ。
視覚ではあの光景を。聴覚ではあの音を。触角ではあの感覚を。残りの二つである、嗅覚と味覚。それが唯一の救いだと、気付いた瞬間、あれが襲ってきた。
罪のにおい。
いいにおいも嗅げず、食べ物の味も打ち消されてしまうあれを感じてしまった瞬間、もう、自分は人間じゃなくなった、とさえ思った。生きる屍、というのがふさわしいかもしれない。拾いきれない罪を拾い続ける巡礼者。彼の罪は、掬っても掬っても指の間からこぼれおちてしまう砂のようだった。
彼は、学校に毎日通い続けた。人殺しと罵られようが、通い続けた。耳を閉ざすことはせず、全ての罵倒を受け止め、ひとりで苦しんだ。
どちらかというと、勉強は苦手だった。だから、ひたすらそこに精神を注ぎ込んだ。それで罪が償いきれるとは思わなかったが、それしかできなかった。
高校生になると、自分の過去を知っている人はいなくなった。でも、彼は人間に戻ろうとしなかった。だから、友達など作らず、それまで通り、死んだように生き続けたのだ。
朝早く家を出て、あの子が亡くなった裏山にも、時々行った。最初にあそこに行ったのは小学校の卒業式前日の朝だった。
本当は、彼女の本物のお墓に行きたかった。でも、場所が分からないし、そもそも、あの子にとって、自分の墓に殺した人間なんか来てほしくないだろう。
だから、彼女が亡くなったあの場所に、自分でお墓を作った。その辺りから大きな石を持ってきて、水筒のお茶で洗い、手で泥を拭って小さなお墓を作った。その翌日には近くの花屋で買った白い菊をお供えした。どうして白い菊を選んだのかは、自分でもすぐには分からなかったが、しばらくして思い出した。少女の胸に、白い菊のブローチが見えたからだ、と。
作業を終えると、両手が泥まみれになっていた。それを更に水筒で洗い流すと、水筒のお茶が全てなくなってしまった。
「……」
水筒のお茶だけでは、心に塗られた泥は洗い流せない。
そう、思った。




