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 彼女は息子のエピソードをいくつか話してくれた。


 学校帰りで疲れていても必ず晩御飯の手伝いをしてくれたり、食器を洗ってくれたり、毎日かかさず風呂掃除をしてくれたり、洗濯物も入れてくれたり。一週間に一度は雑巾を絞り、取り憑かれたように床やテーブルを拭いていたり。主夫のように家事を手伝ってくれたという。

 そこには自分が殺した女の子や、その遺族への罪滅ぼしの念が大きく関わっているのだろう。それだけでなく、事件がきっかけで離婚し、女手一つで思春期の彼を支えてくれた母への感謝の気持ちが多少なりともこもっている、と、胸を打った。


 そんな俺は家に帰ってグダグダしていても、時間が来れば勝手に晩御飯がテーブルに用意されている。自分の弁当箱すらも洗ったことがない。風呂掃除はローテーションで母親と交互にやっているが、洗濯物なんてほとんど入れたことがない。

 なんか申し訳ないな、と自分が小さく思えてきた。


 小さい頃、煙草の火で火傷をしたことを思い出した。あの時も、自分は周囲を歩く大人たちより頭一つ分以上小さかった。高校生になり、大人になったつもりでいたが、麻生と比べると、今でも心は頭一つ分以上小さいのだろう。


「ほんと、いい子だったわ」


 そう話す彼女の目はまだ少し濡れていた。これからずっと乾かないんじゃないか、とさえ思えてしまう。

 息子のことを話す彼女は、薄ら悲しげではあったが、心から楽しそうでもあった。本当に子供のことが好きなんだな、という微笑ましさすらある。他の誰もが自分の息子を嫌ったとしても、自分だけは真摯に愛し続ける。それが母親というものなのかもしれない。


 ――麻生のことを少しでも好いている奴などひとりもいないだろう。


 いつしかの自分の言葉が、脳震とうのように頭の中に響いた。


「ごめん」


 ちょっとした眩暈の中、ほとんど無意識に呟いていた。


「え?」


「いや、」


 自分が「ごめん」と漏らしてしまったことに気付き、ごまかす言葉を探して目を泳がせた。


「それで、この部屋は綺麗なんですね」


 なんとか絞り出した言葉は悪いものではないはずだ、と自分自身に言い聞かせる。


「このテーブルもタンスも、畳だってまるで新品みたいに綺麗ですよ」


 すると、彼女はフフッと笑った。


「新品みたい、じゃなくて新品なのよ。全部。私が全部ボロボロにしちゃったから」


「え? あ……、」


「今でこそ少し落ち着いていられているけど、信次が遺体で見つかった月曜日と、翌日の火曜日くらいまではかなりご乱心だったからね」


 冗談めかすように彼女は笑うが、俺は「そうですね」とも「そんなことないですよ」とも言えず、どんな反応をしていいのか分からなかった。


 彼女は息子を失った怒りを部屋にぶつけたということだろうか。もしかしたら皿を投げたり、包丁で畳をズタズタに切り裂いたりしたのかもしれない。


「その時のニュース見た? 私出てたんだけど」


「あ、はい……」


 殺してやる、というやつだ。今その音を頭の中で再生するだけでも、ぞっとしてしまう。

 そういえば、あれ言ったのこの人だよな、と改めて自分自身に問いかけずにはいられなかった。


「そう、恥ずかしいわね。ふふっ」


 その上品な笑みを見て「人ってこうも変わるものか」と鳥肌を立たせずにはいられなかった。しかも、母親というものは子供のことになったら、まあ、その変化は凄いものなのだろう。


 俺の母さんはどうなんだろう、と、ふと思った。麻生の母や彼が殺した女の子の母親のように、俺が殺されたら犯人に牙を剥くのだろうか。とてもそうは見えないが、それはきっと麻生も同じだったのだろう。


「信次が」


 彼女がそう話を切り出した時、彼女の笑みには少し、陰りができていた。


「信次が女の子を殺してしまった時、その母親もこの前の私のように『殺してやる』って叫んでたのよ。まさか、自分も同じことを叫ぶようになるとは思わなかったわ。後で気付いたのよ。同じこと言っちゃった、って」


「……」


「母親っていうのはみんなそうなのね。二重人格というか、なんというか。女の腹黒さとか復讐心とか、そういうネバネバしたものって、子供のためにあるのかもしれないわね」


 ああ、と俺は声を漏らし、感嘆した。ドラマとか漫画とか、教室のあちこちから聞こえてくる女性のそういう言葉を聞く度に、どうしてこんなに女というのは恐ろしいのかと、今まで何度も震えあがってきた。子供を守るための一種の母性なのかもしれない。


「だから、これから女の子の黒い部分を見てしまっても大目に見てあげてね、斉藤くん」


「あ、はい……」


「もっとも、本当に黒い部分は絶対に男に見せないだろうけどね」


「ハハハハハ……」


 見てしまったら最期、死ぬしかないよ、とまで彼女は言わなかったが、そう聞こえた気がした。

 目の前にいる夫人がテレビで「殺してやる」と叫んだのがまた脳裏に響く。これはその『本当に黒い部分』ではないのか。『絶対に見せない』のならこれ以上残酷で恐ろしい部分があるということになってしまうと思い、臓器という臓器が端から端まで余すことなく震えあがる。逆に、あの声がその『本当に黒い部分』なのなら、俺は死ぬしかないのか、とこれまた全身が震えあがる。


 変な恐怖が鼻から全身へと駆け抜ける。アメリカに行こうとどこ●もドアを開けたら、グランドキャニオンの切り立った崖の淵に出てしまったような。そして何故か、それは俺の膀胱を刺激した。


「あの、トイレ借りてもいいですか?」


「どうぞ。そこを出てすぐ右にあるわ」


 案内された所に入ってみると、すごく綺麗なトイレだった。トイレ独特のアンモニア臭はほとんどなく、便器も光沢があった。

 まさかこれも壊したんじゃ……、と肝が冷えると同時に、尿意が膀胱をノックした。


 においといえば、罪のにおいが少し弱くなっている気がする。自分が殺した男の母親に、同情の気持ちを覚えて苦しんだからだろうか。

 ベルトを外してズボンを下げ、便器に座った。普段は立ってするが、他人の家で尿が便器に跳ね返って飛び散るのは少々気が引ける。


 便器に座り、ポケットからスマホを取り出す。木本からメッセージが二件届いていた。


〈六千円という格安。もしかして相手は熟女か?〉


〈いや、男か? 男なのか? お前はそっちなのか? AVもそっちを見てたのか!〉


 既読スルー。


 入ってくる時は気付かなかったが、顔を上げるとドアにたくさんの写真が貼ってあった。

 麻生だ。小学校の運動会の写真から初めて二本足で立った時の写真まで、様々な麻生がいた。シチュエーションや歳はバラバラだったが、ひとつだけ写真に共通しているものがあった。

 笑顔だ。全ての写真で麻生は笑顔を浮かべている。


 この笑顔を失くしたのは俺ではない。でも、改めて、申し訳なさや罪悪感が噴き出してきた。


 俺がこの世から消したものは、紛れもない、ひとつの人生だったんだな。


 そう思うと同時に、麻生はこれを見て何を思っていたのだろう、と気になった。写真は結構色あせている物が多い。


 母親は所々写っているが、父親がどこにも写っていない。このことを考えると、離婚の際に写真を一部剥がしたのだろう。でも、どうして全部を剥がしたわけではないのだろうか。麻生の両親が離婚した時、彼は思春期真っ只中で、こういう写真は普通嫌がるんじゃないだろうか。どうせ剥がすなら全部剥がしてくれと頼んでもいいはずだけど……。


「あっ」


 その時、ひとつの考えが浮かんだ。


 ここでも、戦っていたのかもしれない。このように笑顔を浮かべて成長していくはずの、かけがえのない小さな命の火を、自分は吹き消してしまったのだ、と、心臓に叩きこんで。


 ――ありがとう。


 麻生の最期の言葉と安らかな顔が、俺のまぶたの裏に映った。




 和室に戻ると、麻生の母が両手に何か小さなものを持ち、じっと見ていた。それに集中しているのか物思いにふけているのか、戻ってきた俺に気付いている様子はない。


「……」


 俺が無言で座布団に戻ると、彼女は風船が割れたように、はっ、と顔を上げた。


「あっ、ごめんなさいね」


 彼女が持っていたのは、何かの小さな白い紙だった。一度くしゃくしゃにしたような乱雑な折り目がたくさんついている。裏から見ても、はっきりとした黒い字で印刷されているのが透けて見える。さすがに裏からでは何が書いてあるのか見えないけど、それが何なのかは容易に分かった。


「……レシートですか?」


「ええ。あの子が最期にした買い物のレシートよ」


 あっ、と思わず声を上げてしまった。「どうしたの?」


「あっ、いや」


 とぼけたかったけど、今更「なんでもないです」なんてとぼけるわけにはいかない。


「もしかして駅前のコンビニの……」


 すると、彼女の目が不整脈のように見開いた。手に収められたレシートが音を上げる。


「……そうよ。でも、どうして?」


 もう、話すしかないだろう。


「実はあの日、彼が下校中にコンビニで何かを買うのを見たんですよ」


 嘘ではないはずだ。


「そうなの」


 彼女はほっと息をつき、肩を下した。

 何をほっとしたのかは俺には分からなかったが、もしかすると、それは子を持つ母親特有の感情なのかもしれない。


「信次、お弁当を買ったのよ。あの日、私は仕事で遅くまで帰れなかったから。何か作ってあげていれば、って最近になって、よく思うのよ。だってそうじゃない? あの子の最後の晩餐はただのコンビニ弁当なのよ?」


 その言葉の群れは、少しずつ、大きくなりながら、震えていた。噴き上がる感情をなんとか抑えているのが、痛いほどに伝わる。


「あまりにも、かわいそうじゃない……っ」


 テーブルの上で手が震え、頬に涙が一滴、ツーっと、落ちた。「本当に、思うのよ。冷静になった今でも、ずっと思っているのよ。犯人を、私の手で殺したいって」


「……」


 鈍く錆び、熱を帯びた槍が、胸に刺さる。実は僕が殺してしまいました、と告白してしまい気持ちに駆られる。


「私が今分かっているのは、犯人はひとりじゃないってことくらい。あの犯行はひとりではできそうにないらしいのよ」


 独り言のように彼女はくしゃくしゃのレシートに向かって語り始めた。


「警察だって、大したこと分かってないんじゃないかしら。信次が遺体で見つかった時点で、家に帰ってからの目撃情報が全くなかったんだもの。特に恨みを買うこともなかったみたいだし。ほんと、分からないことだらけよ。どうして一度ご飯を食べてからもう一度家を出たのかも分からない。しかも手ぶらだったみたいだし、家からなくなった物も何もないのよ。財布も、部屋に置いてあって」


 ん? と、俺の眉がピクッと動いたのを、彼女は見ていなかったに違いない。




 部屋は麻生が行方不明になった時のままにしているらしい。

 彼女は息子の部屋に入ってみるかと提案してくれたけど、断った。殺人犯に被害者の部屋に入る権利なんかない、と思ったのだ。


 家を出ると既に日が少し傾いて、曇り空の隙間から、夕空が茜色に輝いていた。


 ありがとうございました、と玄関から手を振る夫人に頭を下げてから、俺はゆっくりと駅の方へ歩きだした。


 その道中で、麻生の部屋に入るべきだったと、後悔した。確かに、俺が彼を殺した張本人なのだから、入りづらいというのはもっともだけど、これから罪と戦おうとしている者としては、先輩である彼の吸っていた空気を感じるべきだったかもしれない、と。


 そして、もう一つ理由がある。麻生の母親によると、麻生の部屋はそのままに保持してあり、その部屋に財布があるのなら、それを一目見ておくべきだった、ということ。

 彼女は「財布が二つあった」とも「見覚えのない財布があった」とも言わなかった。つまり麻生本人の財布だけがあったのだろう。その安っぽい単純な推理が当たっているのかどうかくらいは、確認しておくべきだった。


「……」


 俺たちが麻生を襲った時に持っていた――担任から盗んだ――財布はどこに行ったのか。裏山で会った時は手ぶらだったはず。証拠隠滅を図ってどこかに捨てたのか? でも、罪とずっと戦ってきた、頑固なほどに真っすぐな麻生が、そんなことするだろうか。


 それに気付くと、もうひとつ、疑問点が生まれた。

 麻生は俺の仮説通り、本当に小さな罪を重ねていたのだろうか。


 彼の母親の話を聞く限り、麻生は罪のにおいを薄くするために罪を犯すような人間には思えなかった。あの財布泥棒が最初で最後の犯罪と考える方が自然だろう。でも、それでも、母親の話す麻生信次という男は、ただの一度でも罪を犯すようには思えなかった。たとえ、落ちていた財布をネコババするだけという、ちっぽけな犯罪だとしても。


 ――重大な罪を犯す人間はみんな、重大な罪を犯すようには見えない。


 財布をねこばばする程度の小さな犯罪だとしても、それは言えるのかもしれない。でも、納得のいかない自分がいる。


 本当に麻生は財布泥棒なんて犯したのだろうか。


「あっ」


 俺はうつむき気味に歩いていたが、細木の頼みを思い出して思わず顔を上げていた。


 ――訊いてくれよ、お願いだから。あの白い菊五本を置いたのは麻生じゃないかって。


 完全に忘れてた。


 まあ、いいか。「麻生の家には行ったたけど、花のことは聞き忘れた。聞きたければお前が行け」とでもモデルガンを向けて脅せばいい。


 いや、もし麻生があの花を置いた張本人なのだとしたら、麻生の母親はさすがに、女の子が亡くなった場所に花をお供えしていたという話くらいしていたはずだ。ということは、あれは麻生ではないのか。


 その時、気付いた。


「……」


 左手に、花屋があった。


「来る時は気付かなかったな……」


 細木の言葉を思い出さずにうつむいたまま歩いていたら、おそらく見つけることなどできなかったであろう、小さな花屋だ。


 まるで、神様か何かが迷っている俺の前に光の道を一本作ったかのような、そんな、運命的なものを感じた。


 訪れるべき、だよな。


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