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中三の秋、朝食に焼き鮭が出た後の土曜日、俺は『Which?』で一躍有名になったロックバンドのオリジナルアルバムを買いにCDショップへと向かっていた。
俺の住んでいるところはあまり都会ではないので、近くにCDショップはなく、自転車で隣の中学校の校区まで行く必要があった。
欲しいものを手に入れるために乗る、この自転車の上で感じる秋の風は、美容師に頭を洗ってもらうかのように、優しくて気持ちがよかった。心臓が軽快なステップで踊っている。昨日テレビで聞いたアルバム曲のポップで分かりやすくてノリのいいメロディを口が奏でたがっており、ハンドルを握る指は下手くそなリズムを刻んでいた。
自転車を大型デパートの駐輪所に停める。にやけた顔を修正しようと顔に力を入れながらデパートに歩いて入った。自分自身でも今の顔はさぞ気持ち悪いはずだと自覚があった。少しうつむき加減でエスカレーターへ。
デパートの二階、エスカレーターのすぐ前にCDショップがあるのだが、そのエスカレーターの中腹くらいに差しかかった時のこと。エスカレーターの上、CDショップの入り口くらいだろうか。「超楽しみだし、早く聞きてえだし」という聞き覚えのある、耳に障る声が聞こえてきた。
こんなにだしだし星人に似た喋り方のやつが他にもいるんだな、と関心しながらエスカレーターを上っていると、見た目もだしだし星人によく似た隕石顔の男がいた。と思ったら紛れもなく本人だった。
「あっ」
「あっ、だし」
よく見ると豆と猿と牛蒡もいる。
「やべっ」
俺は上りのエスカレーターを走って降りていった。後ろから「あいつ絞めてやるだし」という不自然な日本語と数人の足音が聞こえ、近づいてくる。
「待てだし、超待てだし!」
俺はとりあえずデパートから出た。何も考えてはいなかったが、本能的にデパート内では他の人に迷惑がかかると感じたのだろう――後から考えれば、あそこから逃げない方が人混みも多くて安全だったのだが。
よっぽど俺の本能は優しいのだろう。わざわざ細い路地に逃げ込み、少し広い所に出たかと思ったら行き止まりにぶつかってしまった。
「おいおい」
「もう逃げられないだし。勘弁するだし」
だしだし星人は愉快な顔でぽきぽきと指を鳴らす。
こんな場面でなければそのナチュラル変顔に笑っていたことだろう。
「その喋り方こそ勘弁してくれよ」
だしだし星人と豆と猿と牛蒡が俺を囲んだ。まるで、恐ろしくルックスの悪いサーカス団だ。
「兄貴に手を出したのが運のつきだったな、雑魚」
豆は普通の喋り方だった。おそらく猿と牛蒡も普通なのだろう。
木本に一瞬でボロ雑巾にさせられたやつがよく言うよ、とは言わなかったが、「お前からも注意してやれよ。兄貴、その喋り方はどう考えてもおかしいです、って」とは言った。
「え?」
だしだし星人は驚いた。
「『だし』って標準語じゃなかと?」
だしだし星人は方言全開だった。
「お前まじかよ」と驚愕するのと同時に「なんだ、だしだし星から研修にやって来たんじゃないのか」とがっかりしてしまう。
舎弟たちの顔は申し訳なさそうだったが、見ようによって笑いをこらえてるようにも見える。今頃気づいたのかよ、とでも思っているのかもしれない。
だしだし星人はそんな舎弟たちの顔色を伺うが、全員から目を逸らされた。
「まじで……だし。早く言ってくれだ……言ってくんし」
それはどこの方言だ、とは言わなかったが「本気でそれを標準語だと思ってたのか。周りに標準語のサンプルくらい、いくらでもいるだろう」とは言った。半笑いで。それが怒りを買ったのだろう。「リンチしやあ!」とよく分からないことを叫びながら飛びかかってきた。
気が付けば俺は倒れ、蹴られていた。ありとあらゆる方向から蹴られていた。仮にもだしだし星人がまあまあ強いのは確かだった。
痛い。全身火傷のようなヒリヒリした感覚が、脳から体のあちこちに信号として送られている。腕や脚は、吹き飛んで引きちぎれそうだった。口の中は血と土で乾き、水分を補うために唾が口に引っ張られるが、あっけなく口の外に吹き出していった。
何も聞こえない。壊れかけのラジオみたいなノイズと、時折隙間から漏れ出るように彼らの声が聞こえるだけだった。目も見えない。いや、目を閉じているだけだ。怖くて開けられない。
腹に大きな衝撃がぶつかって胴体が宙に浮くたびに、胃が、幼児の脱いだ服のように、裏返って口から顔を出しそうになった。深海から釣りあげられた深海魚が頭の中に浮かぶ。えら呼吸もできず、気圧の変化にも耐えられず、グロテスクなルックスを曝している、目の飛び出た深海魚だ。
このまま死ぬんだな。
そんな気がした。もし自分が猫なら、誰も知らないどこかに隠れてじっと目を瞑るに違いない。でも、俺は猫でもなければ、簡単に身動きを取れる環境にいるわけでもないし、そもそも既に目を閉じている、そんな弱い人間だ。どうしようもない人間だ。
少しずつ痛覚が弱くなっている気がする。気が遠くなっているのだろうか。
走馬灯。
そう思った。死ぬ間際に今までの自分の人生がフラッシュバックするという、あれだ。あれが目の前に広がった。小学校の門、友達、怪我をしたこと、右へ左へ交差点を走る車のように流れていく。
初恋の女の子、木本、だしだし星人、終了。
最後が気に入らないこと以上に、自分の人生の総括が思ったよりずっと短かったことに驚いた。そうか、俺の人生を長編小説にしようと提案したら、太宰治も芥川龍之介も、村上春樹でさえ「ふざけるな!」と一喝するに違いない。
太陽の日を見たい。
ふとそう思った。どうせ死んで真っ暗闇に放りだされるなら、最期くらいは光を感じたい。今まで「危険だから肉眼で見るな」と言われたあの光線を肉眼で見てやりたい。偶然にも今仰向けに倒れているんだから、丁度いい。
ゆっくりと目を開けると、人が飛んでいた。すぐ目の前を誰かが飛び、光を遮っていた。口から何か赤い液体を吹き出し、目を飛び出させながらトリプルアクセルのように飛んでいる。こんな時になんだよ、と思ったら、飛んでいるのはだしだし星人だった。
そうか、だしだし星人は飛べるんだな。その技術を地球人にも教えてやってくれ――。
「大丈夫か、龍一」
その声と共に、スローモーションしていた時間が元に戻り、だしだし星人が頭から地面に落ちて倒れた。まるでドリルが穴を折るようだった。
「――木本?」
振り絞るように声を出して体を起こすと、やっぱり木本がいた。
「なんだ、大丈夫じゃねえか」
どうしてここに、と思う前にすんなりと体を起こした自分に驚いた。痛みもさほど感じない。そうか、これは夢だ。夢なんだ。俺はもうあの世にいるんだ。
と思ったが、違った。俺は生きていた。
生きてて何よりだ、木本がそう呟いたのだ。それすら夢かもしれないと言われればそうなのだが、この言葉には確かな重みがあった。自分が生きているとしか思えない重みがあったのだ。
でも、痛みはあまり感じない。なんだ、まだまだいけるじゃん。なんで死ぬと思ったんだろう。
この時はまだ、しばらくしてから体中がズキズキ痛みだすことになるとは、これっぽっちも思っていなかった。
不時着した、だしだし星人に目を向けてみると、究極にびっくりしたような見開いた目をして倒れていた。指先が微かにぴくぴくと動いてもいる。
なんだ、釣り上げられた深海魚はコイツじゃないか。
お、お前は、と舎弟たちは明らかに腰が引けていた。その様子は何かの特撮ヒーローの雑魚キャラを連想させた。
木本は彼らに向かって指をぽきぽきと鳴らし、ファイティングポーズを取った。
「今度は前よりもスコア伸ばす気満々だけど、いいか?」
豆と猿と牛蒡は足を震わせて、「ひぃ」とも「きぃ」とも聞こえる弱々しい声を上げて逃げていった。親分を置いて逃げていった。
この前の逆じゃないか。と気付いたのはそんな昔話を回想している高二の夏だ。
どうやら木本もCDを買いに来ていたらしい。そこで偶然チンピラの喧嘩みたいな鈍い音と耳障りな「だしだし語」が聞こえたと思ってちょっと路地裏を覗いてみたら、だしだし星人たちとリンチされて倒れていた俺が目に入ったらしい。
その話を聞いて俺は、ぞっ、とした感覚を覚えた。音が聞こえていたのか、と。音が聞こえていて、ちょっと覗いたら人がリンチされているが見えていたはずなのに、俺が自分の人生を振り返っている間、誰も助けずに無視をし続けたのか。
木本へ不満げにそう言うと、彼は笑った。
「他人を助けるのは明らかに超少数派で、関わらないでおこうと思うのが多数派だ」
つまり他人を助けるなんて犯罪に等しいというわけか、と呟くと木本は首を縦に振った。
「じゃあ、木本はなんで俺を助けたんだ?」
そこで木本は、急に真剣な顔になった。
「友達だからだよ」
そう言ってみたもののやはり恥ずかしいのか、彼は頬を緩ませ、「なんてな」ととぼけた。「相手が雑魚だったからだよ」
「それでも、すげえよ。まるで怪物だな」
半ば冗談っぽく言ったフレーズだったが、木本は俺の意に反して目を輝かせていた。
「怪物、か。いいねえ。これから俺をそう呼んでくれ」
「その名前を気に入るのかよ」
「俺は『怪』の『物』だからな」
ヒッヒッ、と笑いながら木本は改めて俺の全身をじっと眺めていた。心配されてるのか、といざ感じると、嬉しいというより、うすら恥ずかしかった。あちこちから流れる血の勢いが強くなった気がし、ピリッとした痛みを感じる。
「結構豪快にやられたな」
今自分がどんな顔をしているのかは分からないが、おそらく酷い状態なのだろう。
「立てるか?」
「なんとか、」
俺は左手を杖にして立とうとしたが、激痛が走った。無理だった。
右手の方が大丈夫そうだ、そう思って右手を軸にすると、少し痛みはしたが立つことはできた。
「左手は使えそうにないけど」
「右手じゃなくて何よりだな」
少しぎこちなくはあるが、歩くことはできた。でも、自転車を漕げる状態ではなかったので、木本の自転車で二人乗りをして帰ることにした。
自転車の上で聞いたのだが、木本が買いに来たのは俺とは違って海外のパンクだったらしい。木本の変わった物の見方や独自の理論はそういうところからきているのかもしれない、と俺が思ったその時、
「あっ」
俺たちは同時に呟いた。「CD忘れてた」
それ以降、木本に「俺を崇めろ」と言われれば黙って手を合わせたし、「俺を怪物木本様と呼べ」と言われれば素直に怪物木本様と呼んだ。彼がいなければ自分は死んでいたんだと言い聞かせて。
それから木本が俺に金を借りることも増え、返すことは減った。言い返すことは一度もなかったし、俺は別にそれでもよかった。
生きていればそれでいいんだ――、と。