19
「ちょっと太ったんだよな。俺」
テレビのダイエット番組を見ながら、父さんがあたかも独り言のように、ぶっきらぼうに呟いた。それが独り言ではないことくらい、風呂上がりで若干のぼせた頭でも、さすがに分かる。仮にも親子だ。
「まあ、確かに、ちょっと」
俺が中学生の頃、父さんはもう少し細かった。あの頃は全くぽっちゃりしているような印象を受けることはなかったが、最近では服の上からでも悠々分かるくらいに贅肉が目立っている。
「そういえば母さんの料理の量がここ二、三年でちょっと増えたよな。あれのせいだな。あれのせい。嬉しいけどさ」
食卓に初めて焼き鮭が出てきたくらいから、この家ではおかずが一品ずつ増えている。
「健康に気を遣おうと思ってるんじゃない? ほら、父さんも歳になってきただろ」
ガハハ、と父さんはオヤジ臭く笑った。「なかなか言うようになったじゃないか、龍一」
おかずの増えた一品というのは大抵野菜で、時々魚。家計だって元から決して楽じゃなかっただろうし、父さんが出世したわけでもないのに、よくそんな芸当できるな、と昔からよく思っていた。まさか副業始めたわけでもないだろうし。
その時、シャンプーやボディソープのにおいと共に、くさいのが鼻に入っているのに気がついた。やっぱりまだにおいは消えていないようだ。時間が経っても、のぼせるまで湯船に浸かっても、体を必要以上にゴシゴシ擦っても、全く取れなかった。
今まで十七年以上一緒に過ごしてきた親でさえ、それに気付いたような様子はなかった。木本が気付いていないと確信した時とは何か違う熱くも冷たい、撹拌されていないものが体の中を泳いでいる。
部屋に戻り、スマホを見ると細木からメールが来ていた。麻生の家の行き方が丁寧に書いてある。
――犯人出てきなさい! 殺してやる!
麻生の母親の声が頭の中でよみがえり、背筋がゾクっとした。
「細木には悪いけど、使いそうにはないな」
こんなのを持っていても、またあの言葉が頭をよぎるだけだから、消そう。そう思い、『消去』を押したが、「本当に消去しますか?」の問いかけで思いとどまってしまう。
理由は自分でもよく分からない。ただ、消さない方がいい気がするのだ。
代わりに電気を消し、ベッドに飛び込む。罪のにおいと共に、日を浴びていない布団の湿ったにおいが鼻孔をうろつく。
「……自首したい」
そうすれば、罪のにおいが軽くなる気がするから。
法に裁かれてしまえば楽になるんじゃないか。バケツから水槽に水を移し変えるように、においから法に罪悪感を移し変えられるんじゃないか。
自首をすれば、警察に捕まれば、いろんな人に迷惑をかけるだろう。親はもちろん、友達や学校も。でも、そんなのはどうでもいい。俺さえ楽になれば、それでいい。でも、そうすると、木本まで道連れにしてしまうことになるだろう。あいつは絶対に捕まる気なんかないだろうし、借りだってある。裏切りたくない。
そういえば、木本は罪のにおいを感じているのだろうか、……感じてないだろうな。
じゃあ、その差は何なんだ。俺や麻生と木本の差は、……罪悪感の大きさだろう。
あいつは多分、罪の意識なんてひとつも感じていない。むしろ「罪人を裁いて何が悪い?」という考え方だろう。確かにそれはそうだし、自分に何回もそう言いつけてきたが、心からそう信じることはできなかった。
――龍一は優しいからな。
後頭部に木本の声が響いた。頭痛のように、絞めつけてくる。
「クソッ……!」
罪悪感なんて感じてしまう自分がくやしかった。「優しさって、なんだよ……。何なんだよ……っ」
麻生のように、ずっと、このにおいや罪悪感、不安感に耐えられそうな自信はなかった。遅くて数年、早くて明日には、やられてしまいそうだ。
俺は、麻生より弱い。貧弱で、脆弱だ。
「俺は、なんて弱いんだ……」
ずっと、自分よりこいつはランク下だ、と思っていた麻生より、俺は下だった。その現実を目の当たりにしてしまったことが、今になってじわじわとダメージになってきていた。
とにかく楽になりたい。その一心だった。
「……駄目元でも、木本を説得しよう」
そう決意し、目を閉じた時、俺は海の中にいた。
「――!?」
鼻や口から塩水が入り、手足をばたつかせながら、俺は溺れていた。少しずつ体が下から見えない糸で引っ張られるように沈んでいき、海底に足がついた。かと思えば水が一瞬にして全て消え、暗闇に放り出されていた。
嗚咽で肺の水を吐きだす。わけも分からぬまま、喉が締め付けられていく。尖ったものが刺さっていく。
ふと目を開けると、誰かが立っていた。あれは、木本だ。
木本だけど、今まで見たことがないような、暗い顔だ。眉を八の字に曲げ、猫背でうつむいている。
そして、木本は申し訳なさそうに言った。
「自首しよう」
すると、何故だろう、幸せでいっぱいな気分になった。肺に残っていた塩気は甘く温かく昇華し、心の闇が全て消え、今にも踊りだしそうだった。目の前で木本も踊っている。しかし、いつのまにか目の前にいるのは木本ではなくなっていた。顔の見えない、裸の女性だった。俺は襲われる。セックスが始まった。俺はさっきまでの幸せの感情をそのままに、腰を振っていた。
「幸せだ」
そう口にした瞬間、目が開いた。最初から開いていたと思っていた目が、更に開いた。そこにはいつも通りの天井があった。カーテンのすき間を縫い、外からほんのりと光が差し込んでいる。
夢、か。……何これ。意味不明すぎる。
短い時間だったけど眠れたのは確かだ。体のだるさも昨日の朝ほどない。昨日家から出た時に「睡魔よ、俺を襲ってくれ。眠らせてくれ」と祈ったおかげか。何にせよ、眠れたのならそれでいい気がした。
「睡魔よ、俺を襲ってくれ」
朝、カーテンを開けながら、白く輝く眩しい太陽に向かって言った。まるで、何かの決意表明のように。
においはまだある。日光が浄化してくれないかと、しばらくそこに立っていたが、少しも消えはしなかった。
学校に着き、教室に入ると、女子が「昨日めっちゃいい夢見たんだけどぉ」などと輪になって笑っているのが見えた。
「夢診断したぁ?」
その言葉に思わず、俺は彼女たちの方を見てしまった。
「まだぁー」
でも、彼女たちは誰ひとりこっちなんて見てはいない。
「あ、ミサンガ切れそうじゃん!」
「そうなんだよねー」彼女は仲間たちに切れそうな右手首の赤いミサンガを見せびらかすように右腕を伸ばして、ミサンガに触った。
いいなー、と心のこもっていない。歓声が上がる。「何頼もっかなー」
「一億円拾えますように、とか?」
働け、と目を逸らす。平和なものだ。殺人鬼がクラスに二人もいるというのに。前までは財布泥棒もいた。
それにしても、夢診断、か。
自分の席に座り、ポケットからスマホを取り出す。頭はぼーっとしたまま、手が動いていた。検索窓には「夢 診断」と浮かび上がっている。
今朝の変な夢の内容をひとつひとつ調べていく。
どうやら海で溺れるのは「精神的な苦しみを感じている」ということらしい。
その通りだ。
闇は「混乱、不安、死」。
最後の「死」が気になりはするが、確かに混乱や不安は感じている。
そして、幸せは「満足」ということらしいが、現実に自分が望んでいることが具体的に表れた場合は「単に自分が望んでいる欲求」らしい。
木本が「自首しよう」と言ったのはそういうことだろう。
でも、最後に斉藤はセックスをしていた。これは完全に「欲求不満」ということだろう。
大当たりだ。
「ハハハ」
思わず声に出して笑ってしまった。
夢診断の話をしていた輪になっている女子たちを含め、クラスのあちこちから冷ややかな視線が浴びせられる。
やべっ。
とりあえず小さくお辞儀をし、それでもその真冬のような空気感に耐えられず、早足で教室を出ていった。
とりあえずトイレに行くと、誰もいなかった。不思議と清々しい空気だ。
「はあ」
もう一度スマホを取り出し、夢診断を見た。
その中で「セックスする夢は決して欲求不満を意味するわけではない(思春期は例外)」とあった。
思春期は例外。
つまり、思春期の俺は完全な欲求不満なのだろう。
「ハハハ」
反射的に辺りを見回す。誰もいないのを改めて確認して、胸を撫で下ろした。
欲求不満だからエロサイトサーフィンなんかして詐欺られてしまうんだろうな。そう思うとなんだか泣きそうになってきた。
たいして尿意はなかったが、「一応トイレに来てしまったのだから」ということで便器の前に立ってチャックを下ろす。
すると、意外に尿は出てきた。
これと一緒ににおいも出ていってくれたらいいのにな。
そう思った時、気づいた。
そういえば今日は昨日より少しにおいが薄い。一晩経ったからだろうか。それとも自首しようと決めたからだろうか。
その後、ケロッとしている木本と会ったのだが、自首しようなんて話、到底教室ではできないので、昨日細木と話したのと同様、昼休みに中庭に誘うことにした。
白人風警察官コンビの鈴木と田中がクラスに姿を現したのは、その後だった。
「行方不明の捜査から殺人の捜査に変わったので、改めて来させていただきました」
木本の言ったことは的中した。麻生の死体が発見された直後の一昨日でも昨日でもなく今日現れたのは、きっとこの前来た時に、この学校では何も聞き出せないと分かっていたからだろう。でも、上から言われて、仕方なしにもう一度来たと言ったところだろうか。
「何か思い出したことはありますか?」
鈴木の問いに誰も反応しなかったのを見て、彼らは「だろうね」と言わんばかりの浅い溜息を吐いた。
昼休みになり、いつも通り木本が弁当と俺の前で「いただきます」と祈り、「昨日は一本しかタバコ吸わなかったぜ」と自慢げに箸を突きたててきた。
それは何より、と適当にかわしたが、俺はかなり緊張していた。「箸を人に向けるな」と指摘するのを忘れたくらいには緊張していた。
弁当なんて食べる気にはなれない。いくらか口に入れたものの、全く味がない。それどころか、あのにおいが胃の中に溜まっていくような気がして吐き気さえした。
「どうした、龍一?」
木本は一言、心配の言葉を言わずにはいられなかったのだろう。「体調悪いのか?」
いや別に、と答えたが本当に体調が悪い気がした。
でも、これはある意味話を切り出すチャンスかもしれない。
弁当から木本に視線を上げる。木本は動物じみた瞳で俺の目を覗き込んでいた。
そして、あの夢を思い出す。木本が裸の女性に変わった夢。そのせいだろう。木本がまるで娼婦であるかのように見えてしまう。気分が悪かった。
背中がびっしょりと濡れている。この時期はいつもそうなのに、いつもより粘り 気が強い気がする。
唾を飲む。喉は濡れない。動悸が急かしてくる。
「――話が、あるんだけど」
緊張感もあったが、まるで娼婦に人生相談をするような、妙な恥ずかしさもあった。
とにかく、ここが正念場だ。
やるしかないんだ、と拳を握る。手汗で箸が滑り、床に落ちる。