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 少年法により、麻生に処罰は与えられなかったらしい。そのせいなのか、処罰が与えられたところで結局そうなってしまったのかは分からないが、彼は『人殺し』と呼ばれ、いじめられていたそうだ。細木たちも彼から離れていったらしい。更に中学生になると名字が『麻生』に変わった。きっと息子の事件で夫婦間に亀裂が入ったか、元から入っていた亀裂を大きくしたかだろうと噂されていたらしい。そして、麻生の口が開くことは一切なくなったそうだ。


「そんなことがあったのか」


 細木から一通り話を聞き、俺は足元を見降ろした。蟻が一匹、群れを成さず、きょろきょろと回っていた。自分一人ではどこへ帰るべきなのかも分からないのだろうか。

 細木は両手の指を交互につなぎ合わせ、股の間で握りしめており、その手はプルプルと震えていた。


「あいつに何もしてやれなかった自分が悔しいよ……っ」


 細木も苦しんでたんだな、とその悔しがる様子を見て、申し訳ない気持ちになった。


「ごめん。改めて悲しいこと思い出させてしまって」


「いや、謝らないでくれ。俺が悪いんだ。それに、お前に話せて少し楽になった」


 細木がそうやって謙遜する中、ひとつの疑問が生じていた。

 どうしていじめに遭っていない高校でも麻生は一言も喋らないのだろう。いじめられて一言も喋らないやつなら今までも何人か見たことがあるけど、いじめられてもいないのに口を開かないやつは麻生が初めてで、不可解だった。


 でも、その質問を細木に訊く勇気は、今の俺にはなかった。


「その後な、」

 細木は地面を向いたまま、全てを話すことが義務であるかのように、苦しそうな声を出した。「麻生が殺した女の子の母親がテレビに出て、叫んだんだ。『法で裁けないなら私が殺してやる!』って」


 ――殺してやる。


 麻生の母親の叫びがフラッシュバックする。


「同じだ」


「ああ、そうだ、同じなんだ。女の子の時は見ていて何も思わなかったし、むしろ、ムキになってそんな危険なこと言ってるのが、バカバカしいと思ったくらいだった。けど、それと同じ光景を昨日見た時、ゾッとしたよ。あまりに似ていて。それと同時に、罪悪感がこみ上げてきたんだ。あの時女の子を殺したのは麻生と、俺だったんだと」


 ひとつ、大きな風が吹いた。どこからか女子生徒の「きゃー」という、楽しそうにも恥ずかしそうにも聞こえる悲鳴が聞こえた。


「麻生は苦しんでた。ずっと苦しんでた。その苦しみによって、口を開けられなくなったのかもしれない」


 なるほど、そうかもしれない。

 俺の小さな頷きは、多分、細木は見えていないだろう。


「なのに、共犯の俺は、今までどおりの暮らしを続けていたんだ。麻生だけ輪から外して。最低じゃないか。俺は、なんて最低な人間なんだ。そう思わないか?」


 細木は久しぶりに俺と目を合わせた。

 その瞳は燃えるようで、冷たい。有無を言わせない、濁った輝きがあった。

 なんと答えるべきか、分からなかった。


「……分からない」


 それは、ありにままであり、嘘に塗り固められてもいた。


「だよな。ごめん、変なこと訊いて」


 分かった。今日、教室でみんなが「殺してやるぅ」とはしゃぐ中、細木だけが、俺と同じように複雑な表情をしていた理由が。


 細木も、ある意味では俺と同じだったんだ。


「裏山に墓石あるだろ? あの場所だ。あの墓石は、ひとりの純粋な女の子があそこで亡くなったっていう印。今となっては、それを知っている人も少ないけどな」


 そうなんだ、と納得の吐息が漏れた。「あれは本当にお墓だったのか」


「ちゃんとしたお墓は別にあるだろうけど。その事件以来、一、二年裏山に入らなかったから、いつ誰があれを置いたのかは俺も知らない」


 墓石を置いたのは女の子の親なのか友達なのか、それとも麻生なのか。そんなわけないか、と思いつつも、十分にありえるような気がした。


「俺が知ってるのはこれくらいだ。もっと詳しいことが聞きたかったか?」


 申し訳なさそうな弱々しい顔だった。そんな表情を見ると、こっちまで申し訳なく感じてしまう。


「そんなことないよ。もう十分だ」


「いいのか? でもあいつが今、って言ったら変だろうけど、ずっと口を開けない理由は分かってないだろ」


「罪に苦しんでたからじゃないのか」


「それは俺の推察だ。第一、苦しんでいるからって口を開けなくなる理由にはならないだろ」


「……確かに」その通りだった。言われてみれば因果関係が少しおかしい気がする。

 そういうふうに考えていると、いきなり細木が言った。


「麻生の家教えてやるよ。知らないだろ?」


「え?」


 それは思いもよらない提案だった。


「いや、いいよ……」


 あの発狂している母親を訪ねる勇気など、息子を殺した犯人にはなかった。


「それに、どうして。麻生の家って」


「あいつの親なら、俺よりも詳しく知っているかもしれない。それに、麻生について知りたいって言えば、少しは喜んでくれるかもしれないだろ」


「でも」


「でも、じゃない。行け。俺は部活で忙しいし、共犯なのに全部麻生に責任を押し付けてしまった俺なんか、あいつの親と顔を合わす権利なんてないんだ」


 それを言うなら、本人を殺した俺はもっとないぞ、と喉まで出かかった。なんとか押さえこむ。


「後でメールしてやるよ。あいつの家の行き方」


「いいよ」


「行け。これはお前にしかできない」


 細木は、そんな、都合のいいことを言って、ベンチから立ち上がった。そして俺の正面に立ち、俺の肩をぎゅっと掴んだ。


「お前の行動が、ひとりの心を救うかもしれないんだ。俺が、お前に、麻生のことを話して、心が楽になったように」


 それは綺麗事にしか聞こえず、到底行く気にはなれなかったが、そう言われてしまうと「あ、ああ。分かった」と返事するほかなかった。


「よし、じゃあ、後でメールするから」


 そう言い残して、細木は逃げていった。

 多分、細木は、自分がまた、人に責任を押し付けて逃げているのだと、気付いていないのだろう。


「罪なもんだな」


 しばらくは動く気になれなかった。体に力が入らなかった。どうしてなのかは自分にもよく分からない。もしかしたら、ひとりになって自分を向き合えということなのかもしれない。


「人の命を背負う、覚悟はできているか?」


 麻生の言葉を口の中で呟いてみた。


「あいつも、人の命を背負ってたんだな」


 足元を見下ろす。さっきまでいた一匹の蟻は、もういなかった。覚悟を決めてどこかに歩きだしたのか、それとも、俺か細木に、無意識の内に踏み潰されてしまったか。


 その時だった。ツンとしたにおいを、感じた。今まで感じたことのない、におい。いや、最近どこかでこのにおいを感じた気がするが、思い出せない。鼻を目の前の空気、ベンチ、自分の腕などに近づけて鼻を嗅ぐが、確かにそれは俺の体からにおっていた。


「なんだこれ」


 体臭がこんな急に出てくるわけない。じゃあこれは何なんだ。

 その時、誰かが言っていた言葉を思い出した。


 ――自分の体臭が分からないのは、そのにおいに、鼻が麻痺してしまうから。同じように、何度か罪を犯せば、このにおいと脳までの距離は久遠になるかもしれない。人は、においを感じなくするために罪を犯すのか、におわなくなったから、罪の意識がなくなるのか。


「罪の、におい……?」




 チャイムが鳴ると、体に力が入るようになり、俺は教室に帰っていった。

 廊下では、たくさんの知らない人間とすれ違ったのだが、俺は、緊張しながら彼らの鼻元ばかりを見てしまっていた。俺から出る罪のにおいに鼻を押さえたり不快な顔をしたりしている人はいないか、と。ゲーセンのゾンビゲームで次々と湧き出てくるゾンビに銃口を向けるように、右に左に、眼球を動かす。


 鼻を押さえるのは男がひとりだけだった。あいつはただただエロいことを考えているだけだと一蹴したが、不快な顔をしている人はたくさんいた。マスクを付けているものもいる。その度に自分の腕を鼻に当ててにおいを嗅いでしまう。確かににおいはある。でも、きっとこれは幻のにおいで、自分にしか分からないはずだ、と分かってはいるのだが、やはり不安になってしまう。

 マスクなんて、日本人は普通に付ける。不快な顔をしている人は、きっと別のことで不快を感じているに違いない。世の中不満や不安なんて、人の数よりたくさん転がっている。そうだ、そうに違いない。誰も俺のにおいを感じることなんてできないに違いない。

 自分に言い聞かせるように、そう、何度も念じた。それでも、周りの鼻元や会話が気になってしまう。


 教室に入り、自分の席に座り、頭を抱えた。


 このにおいはいったい何なんだ。『罪のにおい』ってなんだよ。

 これが『罪のにおい』だという証拠はひとつもない。だが、これが、それなのだという、確信のようなものはあった。


 麻生もこのにおいを感じていたのか?

 その時、後頭部にゴンッ、と固いものが当たった。


「痛てっ」


「おい、ずっと待ってたんだぞ俺は。どこ行ってたんだよ」


 木本だった。

 そういえば、木本と飯を食った後にひとりでトイレ行って、それっきりだったな。


「ごめん。忘れてた」


「おいおい、命の恩人を忘れるのかよ。俺はお前をひと時も忘れたことないぞ」


「気持ち悪いからやめてくれ」


「もう一回殴るぞ」


「ごめん」


 正面に立っている木本は、至っていつも通りで、臭そうな素振りは全く見せなかった。木本の鼻は結構敏感だし、思ったことは考える間もなく言ってしまうような油まみれの口をしているので、においを感じていたら口にしないはずがない。

 安堵の溜息を吐く。肩が軽い。久しぶりに呼吸をしたような気さえもする。

 しかし、その安心も束の間だった。


 授業が始まり、教室が静かになると、俺はまた、そのにおいが気になり始めた。それどころか、さっきまでより強くなっている気がする。いや、確実に強くなっている。机の上に、()()()が置いてあるかのような。


 今は授業中だし、その授業も、財布を盗まれて以降、明らかに機嫌が悪くなっている担任の授業だから、異常な緊張感が漂っており、誰も口を開けられはしない。


 もしかしたら、みんな、俺のにおいに気付いてるんじゃないのか? でも、それを注意することができずに、尚更苛立ってるんじゃないのか?


 そんなわけはないと分かってはいるが、その考えは頭から振り払えきれない。頭を振りたくても、この空気の中ではできないし、そもそも意味もないだろう。

 気がつくと、自分より前にいる人たちを見回していた。誰も露骨に鼻を押さえたりはしていない。でも、斜め前の女子、他数人の女子がタオルで顔の下半分を覆っている。


 もしかして、届いているのか……?


 いや、待て。女子がタオルで口元を押さえているのは、いつものことじゃないか。何を神経質になってるんだ俺は。


 そんなわけはない、そんなわけはないんだ。

 いくら自分に言い聞かせても、その不安感は、ひとつも拭い去られてはくれない。


 麻生の席が視界に入った。誰も座ってなければ、追悼の花すらも置いてない、ただの空白。いっそのこと、このにおいは、あいつのせいだ、と、指を差してやりたい。――ああ、駄目だ、細木の話の後にそんなことを考えてしまうなんて、今の俺は正常じゃない。


 その時だった。ふたつのバラバラだったピースが繋がり、背筋に落雷を感じたのは。


 麻生には、鼻や口を押さえる癖があった。あれは、もしかして、このにおいのせいなのか? あいつも、同じものを感じていたのか? ――ってことは、このにおいは小学六年生が高校二年生になっても消えない、ということだ。それどころか、半永久的に消えないかもしれない。


 こんなのを一生感じ続けろっていうのか。それが罪を犯した代償というものなのか。麻生は、ずっと、これに耐えていたのか……。

 そう考えるだけでゾッとした。たった五年が、果てしなく長く感じる。小学生の六年と、中学生の三年は、あっという間だったのに。

 授業はまだ終わらないのか、と時計を見るが、まだ、残り二十分もあった。


 まじかよ……。

 そんな時、またあの言葉が頭をよぎった。


 ――人は、においを感じなくするために罪を犯すのか、におわなくなったから、罪の意識がなくなるのか。


 ……もしかして、麻生は前者だったんじゃないのか。


 彼は、においを少しでも薄くするために、小さな犯罪をいくつか行っていたんじゃないだろうか。そのひとつが、財布泥棒。でも、それが俺たちに見つかり、自分を客観的に見ることになってしまった。細木の話では、麻生は女の子を蹴り殺したことを泣きながら告白したらしい。つまり、あいつは決して悪いやつではないはずだ。だから、犯罪を犯罪で塗りつぶす自分の姿を汚いと、醜いと思い、(みそぎ)として、金を持って来ずに裏山に来たんじゃないか。そこには元ヤンの木本や俺がいる。当然怪我のひとつやふたつは負うだろう、と。それこそが、今、自分にできる精一杯の禊なんじゃないか、と。


 だが、その仕打ちは予想以上に過酷で、死を覚悟したんじゃないだろうか。それで俺たちに「命を背負う覚悟はできているか」と言い放ち、自分の苦しみをお前たちも感じるかもしれないから覚悟しろよ、と伝えたんじゃないだろうか。

 崖に身を投げられ、死を悟った時、罪悪感や罪のにおいから解放されて楽になれると思ったんじゃないだろうか。そして、そうしてくれた俺たちに、「ありがとう」と言ったんじゃないだろうか――。


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