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 昨晩、布団の中で汗を掻きながら、苦しみから逃げだそうと、もがいていた。体中に貼りついたヒルを剥がすように、体のあちこちを爪でひっかいた。痛かった。でも心の方が痛かった。

 そんな中だった。


 ――人の命を背負う、覚悟はできているか?


 その言葉と共にひとつの疑問が脳裏をよぎり、体に張り付いているヒルが全て浄化された。


 麻生は、それを知っていたのか? 被害者遺族の怒りや悲しみを知っていたのか?


 麻生が死ぬ間際に言っていたことを思い出した。


 ――しみじみと、運命を感じるよ。

 ――ありがとう。


 それらについて気になり始めると、さっきまでとは別の意味で眠られなくなった。不思議と体が熱くなっていく。


「調べよう」




 授業が始まる前、俺より後ろに席がある細木の方を見てみた。麻生のことを調べるなら、中学が同じの彼に訊くしかない。彼の周りの男子生徒は「殺してやるぅ!」などとバカにしたように笑っているが、細木は俺のように苦笑いを浮かべているだけだった。もしかすると、細木も俺と同じように麻生の母親の怒りが見えたのかもしれない。もしくは何かしら事情を知っているのか。


 でも、話しかけるタイミングが見当たらなかった。席も遠いし、移動教室があったところで名前も中途半端に遠いので、席が近くにはなることはない。割と仲はいいからタイミングくらいその内見つかるだろうと高をくくり、今は行動しなかった。今は目の前に木本がいるというのもある。

 どうせならひとりで調べたい。昨日の晩はそうは思わなかったが、今は思う。木本の反応があまりに予想外だったから。いや、予想通り過ぎたからかもしれない。




 チャンスが現れたのは昼休みだった。いつものごとく木本と弁当を食べ、その後「喜怒哀楽の『喜』と『楽』はかぶってる」とか適当なことをしゃべっていたのだが、途中で尿意が現れた。「トイレ行って来るわ」とひとりで教室を出て尿を排出し、教室に戻ろうとトイレから出る時に、食堂で昼を済ませた細木と出くわしたのだった。


「お、よっ」


 正直なところこの時、細木から麻生のことを聞きだそうとしていたことすら忘れていた。故に、彼の顔を間近で見た瞬間、後ろに仰け反ってこけそうになった。


「お、おお」


 そんな間抜けで意味の分からないことをしている俺に、細木も困惑気味だった。


「どうした?」


「……ははは」


 自分の動きを客観的に見ているのを想像すると、こっ恥ずかしくて顔が熱くなった。


「なんか用?」


「あー、そうそう。えーっと……」


 友達とはいえ、いざ本人を目の前にして普段聞かないようなことを聞くのは、告白するような緊張感があった。心臓が気持ち悪く高鳴っている。


「えーっ……」


「小便していいか?」


「あ、どうぞどうぞ」


 今日変だぞお前、と訝しみながら細木は俺の横を通り過ぎて便器の前に立ち、チャックを開けた。

 俺はゆっくり彼の後ろに立つ。すると、不思議と緊張感が抜けていった。

 顔を合わせない方が言い出しやすいんだな。


 一応左右を見てみる。誰もいない、な。大便の方も、誰もいない。


「確か、麻生と中学の同級生だったよな」


「……ああ」


 便器に生温い液体がぶつかって飛び跳ねる音が聞こえた。「そうだけど、何か?」


「いや、」


 そういえば、どうして麻生のことを調べようと思ったかの理由を考えてなかった。まさか「死ぬ間際に変なこと言ってたから」とは言えない。

 今更になって麻生のことがちょっと気になって、と苦し紛れな言い訳を口にした。すると細木は「え?」と自分の股間を見つめながら戸惑うように言った。


「斉藤って……ホモ?」


「違う。断じて違う。AVはちゃんと男性用を見てる」


「見てんのかよ」

 彼は小便の勢いを強めて笑った。「俺はまだエロ本止まりだ」


「うん、その方がいいと思う。ネットの動画はウイルス送り込まれたりするから」


 最近喋った言葉の中で一番気持ちがこもっていると思う。


「ネットは危険だよな。危険だから俺はまだ手を出してないよ。たまに道に落ちてるのを拾い集めてコレクションするくらいしかしてない」


 変態かよ、と思ったが、誰も細木とエロとの触れあい方についてなんか語りたくないので、口パクするだけに留めておいた。


「そんなことよりさ、麻生のことを詳しく聞きたいんだけど」


「俺、あいつの体のことなんて知らねえぞ」


「そうじゃなくて」


 少し、声を荒らげてしまう。

 細木の特徴は、時々面倒臭いことだ。よくサッカー部のキャプテンに任命されたものだな、とつくづく思う。それは俺だけではなく色々な人が思っている。賄賂を使ったんじゃないか、という噂まで立ったことがあるくらいだ。


 でも細木はそれなりに空気を読める人間だ。俺の怒った声色を聞いて、「冗談だよ」と微笑んだ。「あいつ何かとミステリアスだから、それについて聞きたいんだろ」


 小便の音がやみ、チャックが閉まる音がトイレ内を反響した。


「ああ。中学時代がどんな感じだったか、とか」


「中学も、あんな感じだよ。ほとんど喋らなくて友達もいなかった。小学生の時は普通だったんだけどな」


「え?」


 小学生の時は普通だったというのも驚いたが、小学生の頃から知り合いだという話も初耳だった。


「普通に喋っていたし、笑顔も見せていた。友達だって少なくなかった。かくいう俺もあいつと友達だったよ。でもちょっとした事件があってな」


 細木は水を流すスイッチを押し、振り返って俺と向かい合った。

 彼の眼力は強かった。ほとんど茶色のないその瞳は、俺のボキャブラリーでは言い表わせない威圧感があった。


「……事件?」


「ああ。『ちょっとした』というよりは『大きな』事件って言った方がいいかもしれない。いや、言うべきだろうな」


 それからしばらく、水が流れる音だけが俺たちの間に流れていた。鷹とトンビが見つめ合うような時間。逃げることも忘れ、じっと、その目から逃げだせないでいる。


「聞きたいか?」


「……ああ」


「そうか」


 細木は水道の前に立ち、蛇口をひねった。


「ここじゃなんだ。中庭にでも行って話そうか」




 中庭にはいくつかベンチが設置されており、その内のひとつが空いていたので、俺と細木はそこに座った。


「小六の時だ。俺とか麻生とか数人で鬼ごっこをしていたんだ」

 彼の声は柔らく、子供に昔話を聞かせているような温かみすらあった。もう、鷹じゃない。「場所は裏山だった」


 中庭にはたくさんの高校生が楽しそうに喋っていたり、走り回っていたり。騒がしかったが、不思議と不快感はなく、むしろBGMとして心地よかった。


「裏山?」


「ああ。皮肉にもあいつが埋められていたあの裏山だよ。あの時は俺が鬼で、麻生を追いかけてたんだ。俺も結構足は速い方だったけど、あいつも同じくらい速かったんだよ」


「あいつって、麻生?」


「ああ。そうだ」……ダジャレじゃないぞ、と細木は付け加える。


 ごめん、言われるまで気付かなかった、と俺は答える。

 そんなことより、あの麻生がサッカー部の細木と同じ位の速さで走っているのが、俺には想像できなかった。


「なかなか距離は埋まらなかった。でも、そんな時に麻生がこけたんだ。幼稚園児の女の子にぶつかって。ほら、あそこ人多いだろ。幼稚園児だって珍しくない。今思えばあんなところで全速疾走なんてするべきじゃなかったよ」


 昔、歩き煙草で火傷した時のことを発作的に思い出した。麻生のぶつかった女の子と自分を重ね合わせて、苦虫を噛み潰したような味が口の中に染みわたった。


 痛かっただろうな。


 細木は空に浮かぶ雲を見上げながら話していた。その雲たちは背景の青に映えていて、綺麗な白色をしており、上空の風に流されて随分と速く泳いでいた。


「二人とも倒れてその場にうずくまっていたんだ。女の子に至っては数メートル吹っ飛ばされて泣いていた。あの時に鬼ごっこなんて忘れて、大丈夫か? って駆け寄っていればよかったのに」


「……タッチして逃げた」


「正解」


 最低だ、と思ったが、もし自分が細木の立場だったら、と考えたら到底そんな言葉が出そうにはなかった。


「俺はむしろ好都合だなんて思って逃げたんだ。知らないガキが大丈夫かどうかなんて、気にもかけなかった」


 目の前を坊主頭の男子生徒が走って通り過ぎっていく。その数秒後にもうひとり追いかけてきて走り去っていった。


「とにかく、逃げた。笑顔で、だ。疲れて足を止めた頃には二人の姿は見えなくなっていた。それからはしばらく歩いていたけど、後ろからドタバタと足音が聞こえたから振り返ったんだ。麻生がこっちに走ってきてた。楽しそうに。鬼ごっこを完全に楽しんでるようだったな。もちろん俺は逃げたよ。しばらくは追いかけっこだ。むしろ、複数人でやっている鬼ごっこということも忘れて、二人きりの世界に入っていたよ。正直さっきの幼稚園児なんて完全に忘れていた。そんな時だ。幼稚園児らしい女の子の声が聞こえたんだ。誰かを探してるようだったな」


「……」


「特にそれを気にはしなかったけど、次の日、学校に行ったら緊急の朝礼があって。めんどくさいなとか話しながら運動場に行って並んでたんだ。そうしたら教頭が朝礼台に上ってきて、くそまじめな顔で言ったんだよ。昨日高校の裏山で幼稚園児が殺された、と」


「え?」


「俺はまさかって思ったよ。あの子じゃないかって。もしかしたら麻生とぶつかった衝撃で死んじゃったんじゃないかって。でも、教頭がこんなことを言ったんだ。死因は誰かにおなかを蹴られて臓器が破裂したからだ、って」


「ん? 蹴られた?」


「ああ、そうだ。俺も同じように思った。少なくとも俺は蹴っていない。ということは死んだのはあの子じゃなくて別の子だったんだと」


 展開が読めなかった。一回結末が見えかかったが、それは結末ではなかった。いや、そもそもこれは麻生の話のはずで……。


「まさか……」


「教頭は『昨日裏山に行ったという児童はこの後先生に報告するように』と言った」


 俺の勘づいた声さえも届いていないかのように、彼は悲しい顔で話を続けた。


「だから俺たちは素直に職員室に行ったんだ。少なくとも俺は潔白を晴らすために、な。その時の麻生の顔は真っ青だったよ。俺たちは特に理由は訊かなかったけど。それで先生の前に行って、僕たちは昨日裏山に行きました、って言おうとした時だ。麻生の口が開いて、今にも泣き崩れそうな声でこう言ったんだ」


 俺は息を飲んだ。周囲のガヤも聞こえず、時間が止まっているかのような、張りつめた空気だった。


「僕が、その子を蹴って、殺しました」


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