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「それにしても、思ったより早く見つかったな」


 木本は足元の小さな石ころを蹴った。


「ああ」


 その日の帰り、俺たちは駅のホームで電車を待っていた。

 駅の周りを走る車や風の音、人混みから発する不協和音で、駅は十分にうるさかった。


「俺たちは目撃されてないだろうが、麻生は目撃されてたか。カスだな、あいつ」


 木本の蹴った石はホームを乱雑にコロコロと転がり、線路へと落ちた。


「もう一回警察来るかもな」


「え?」


 この前来た時は何の収穫もなく帰っていった様子で、もう一度来たところで収穫なんてないだろうに。「なんで?」


「行方不明から殺人に切り替わったんだ。きっともう一回来る。犯人しか知り得ないことを隠して来るだろうし、もしかしたら個人的に話しかけられるかもしれない。気を抜くなよ」


「……そうだな」


 不安ではあるが、警察と自分たち二人の正々堂々とした勝負だと思うと、少し楽しくなってきた。「絶対に、逃げ切る」


 その強い意志を持った宣言は、電車が近付いているのを知らせる駅メロによってかき消され、きっと木本の耳までは届かなかっただろう。




 家に帰ると、母さんがダイニングテーブルに肘をかけ、左に首をひねってテレビを見ていた。前髪を上げ、眉毛が薄く、すっぴんだった。メイクを落とした後だろうか。

 最近メイク濃くなったな、と思う。俺が中学の頃、すなわち多少素行の荒れていた時期はもっと薄かったはずだ。美意識がなくなったというより、家事に追われてそんな暇はなかった、と俺は理解した。高校生になった頃から、別に時間が増えたというわけではないはずなのに、メイクをする時間が増え、今となってはその光景に巡り合ってもお互い恥じらいすらも感じないほどだった。

 そのせいか、性格も変わった気がする。昔はもっとおっとりしていたイメージだったが、最近は楽しそうにテキパキと動いているのをよく見かける。何かあったのだろうか。


「ただいま」


「おかえり」


 テレビに映っていたのは昔やっていたドラマの再放送だった。学校から帰ってきた時に一瞬見かける以外は一回も見たことがないので、俺は刑事ドラマであることしか内容は分からない。だが、とにかく母さんはこれが好きらしいのだ。


 警察署内で数人の刑事が人の写真や黒い文字が書かれたホワイトボードの前で話し合っている。そういえば木本から聞いたことがある。


「本物の警察はホワイトボードなんか使わないし、写真を貼るなんて論外らしい。『高い所から窓を覗いてみたら捜査情報が見えました』なんてふうに外に漏れたりでもしたら、たまったもんじゃないからな」


 結局『リアル』より『リアリティ』の方が求められるということだろうか。

 それにしても不吉だな、と溜息が漏れる。もしかしたら今もこのシーンのように鈴木や田中たち刑事が、麻生を殺した犯人を絞り込んで推理しているのかもしれない。自分は容疑者リストに入っているのだろうか。

 なんとなく気が気でない感じがするので、途中からではあるが母の正面の椅子に座り、カバンを足元に置いた。


「珍しいわね」


「暇だから」


 その事件は殺人の加害者遺族の心理を中心としたものだった。この家族の長男が人を殺して刑務所にいるが、彼の高校生の妹はそのせいで「犯罪者の妹も死ね」などと言われていじめに遭い、不登校に。母親は仕事場で孤立させられて追い出され、俳優をしている父親は芸能界から干されていた。


 残酷なものだな、と心に小さな濁りが生まれた。罪を犯したのはたったひとりで、何も悪いことをしていない家族までが犯罪者扱いになるなんて。


 絶対に捕まるわけにはいかないな。


 それなりに楽しめはしたが、次回からも見てみようという気には到底なれなかった。


 そしてニュース番組に入った。ビル街を映した天カメの映像とストリングスの爽やかなメインテーマから始まり、男女のアナウンサーにフェードインし、二人が「こんばんは」と声を合わせた。背景は黄色と白が基調で、微かに映る赤い置物がアーティスティックなアクセントとなっている。


〈では、まずはこのニュースから。昨日遺体となって発見された高校生の母親がインタビューに答えてくれました〉


「……!」


 内臓全てが五センチほど浮くのを感じた。


「これ結構話題になってるわね。龍一の高校でしょ?」


「あ、ああ……」


 大丈夫だと思っているとはいえ、いきなり出てくると、さすがに不安感が襲ってくるものだ。吐き気がした。

 VTRに入り、事件の概要、現在まだ何も分かっていないということがアナウンスされた。


 ほっと心の中で息をつく。


 警察官やら鑑識が現場で作業している空撮がテレビ画面に映し出された。


「そういえば授業中ヘリの音が聞こえたな」


 かなりうるさくて、教壇の教師の声がよく聞こえなかったのを覚えている。

 それからいくつか情報が出てきたが、たいした情報はなかった。だが、しばらくテレビ画面を見ていると、ひとりの女性の首から下を、向かい合う顔の位置から見下ろしている映像が映った。麻生の母親らしい。


〈どうして……どうして……〉


 声は加工されておらず、彼女が泣きながらインタビューに答えているのが、容易に判断できた。


〈息子は……何も悪いことなんてしてないのに……どうして……〉


 胸の奥に水がたまり、重くなるのを感じた。


「可哀想よね」


 母さんは独り言のように呟いた。

 本当に可哀想だ。息子が泥棒をはたらいたことも知らないんだから。

 気の毒だとは感じたが、無理やり冷酷なことを思うようにした。


 おたくの息子さんは悪いことしたから罰せられたんですよー。


 俺は椅子を引いて立ち上がり、麻生の母親に背を向けて部屋に戻ろうとした。


〈……ゥ……殺してやる……〉


 その言葉に、俺の目は、一度目を離したテレビに、引き戻されていた。


〈……やる、殺してやる……殺してやる殺してやる殺してやる、殺してやる! 殺してやる! 犯人出てきなさい! 私が殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 出てきなさい!〉


 その瞬間、何かが起きた。白が黒に、黒が白に。これまで背を向けてきた罪悪感というものが、針の雨となって、一気に頭から内臓へ降りかかってくるような。

 彼女の怨念のこもった叫びが、呪いのように襲ってくる。


〈殺してやる!〉


 俺は、その場に立ち尽くしていた。胃が、空気の抜けたサッカーボールのようにしぼみ、食道へと胃酸が逆流して、嗚咽する。目は小刻みに泳ぎ、かけ違えたボタンのように、落ち着かない。足も震える。立っているのが、やっと、だ。

 顔に火傷を負った麻生の、不気味な笑みが、浮かんだ。そして、魔女に取り憑かれたような大きく裂けた口が、開いた。


 ――人の命を背負う、覚悟はできているか?


 麻生の笑みは、俺の震えを楽しむようだった。


 ――俺にだって、お前らにだって、担任にだって、そこら辺にいる人だって、野良ネコだって、ゴキブリだって、家族がいる。自分がいなくなったら悲しむ人がいる。その人たちの悲しみ、怒り、全てを背負う覚悟はできているか?


 悲しみ、怒り。

 それが、どす黒い大気汚染のように広がる。口から、鼻から、耳から、目から、爪の間から、体に侵食していく。細胞が壊死し、感覚がなくなる。炭みたいに粉々になり、体から離れて足元を覆っていく。刻一刻と浸食部が、指の先端、手首、肘へと広がり、心臓へと近づいていく。

 やめろ……やめろ!

 抵抗しようとしても神経がはたらいてくれない。どうしようもない大きな怪物が影を踏んで動きを封じているかのように。手首が、肘が、なくなっていく。痛みもないまま、なくなっていく。目は既に侵されたはずなのに、それは見えてしまう。目の閉じ方も忘れ、乾燥によってひりひりと痛むのを我慢しながら、消えていく自分をじっと見るしかない。見たくないものを、じっと見るしかない。

 助けて、助けて。

 叫ぼうと思っても口はない。少しずつ、心臓へ、地獄からの触手が、這いながら近づいていく。

 崖の上にある秘宝を巡って、大量のトレジャハンターが息を荒くし、目を光らせて壁を登っていくように。

 天国から地獄につるされた一本の蜘蛛の糸に悪人たちがしがみつくように。

 原爆を浴びて皮膚が焼けただれた人間が、水筒を首からぶら下げている少年の足首を掴むように。

 人を殺したことを、犯罪者に罰を与えただけだ、と、現実逃避している自分を、暗い闇に引きずり込むように。

 暗黒の触手は、心臓へと。

 やめろ、やめろ、やめてくれ、やめてください! やめてください!

 祈りは届かない。欲望と怨念に支配された、血生臭い五本の指が、心臓を掴んだ。ドクッ、ドクッ、と波打つ音が、それぞれの腕の中を流れ、不気味な笑い声が、あちこちから鳴る。数億円を手にし、これを何に使おうかと、よだれを垂らしながら想像をめぐらしている、貧乏なギャンブラーのようにも、長年連れ添った大嫌いな夫への復讐を果たし、指を限界まで広げる痛みを悦びに変換して、天に向かって高らかに叫び、恍惚に満ち溢れているようにも、聞こえる。

 やめてくれ、もう、やめてくれ……。

 頂点に登りつめた触手が心臓を鷲掴みにし、引っ張る。少しずつ力を強くしながら引っ張る。許してくれ、謝るから、許してください……。心臓と体をつなぐ太い血管が真っすぐに引き伸ばされ、ミシミシと、プチプチと、音を立てる。痛みも何も感じない。なのに、それだけは見える。

 やめてください、やめてください……。

 魔女狩りを楽しむような大衆の穢らわしい笑い声が、響く。血管にひびが入ってき、それが、雷のように広がっていく。

 助けて……。

 プツッ、プツッ、と血管が切れ、うなだれたそれから、赤黒い液体が噴き上がる。そして、心臓が引きちぎられ、鮮血が視界を覆い尽くす。


「どうしたの?」


 その母の声に、俺はやっと我に返った。さっきまで見ていた悪幻が一瞬にして消え失せ、既にスタジオに帰っていたテレビ画面といつものダイニングが目の前にあった。


「いや……、なんでもない……」


 目がひどく乾いている。

 心臓に手を当て、何度も瞼を押しつけて潰すようにまばたきをしながら、足元のカバンを拾った。

 放心状態で歩き出す。まるで夢遊病患者のように、のろのろと。

 そして自分の部屋に入り、ベッドに落ちるように横たわった。

 ドクッ、ドクッと、心臓が恐怖で暴れているのが聞こえる。異常なスピードで血液が全身を流れ、体が熱くなる。

 何なんだよ、これ……。


 ――殺してやる!


 麻生の母の狂気的な叫びが頭から離れなかった。

 全ての臓器がオーバーヒートしてだるくなっている気がする。重い。ダンベルがおなかの中に入っているかのように重い。接着剤でベッドに体が張り付けられているような感覚すらある。


 ――人の命を背負う、覚悟はできているか?


 あの時はその意味が分からなかった。でも、今なら痛いほど分かる。

 俺には覚悟などできていなかった。


 ――俺たちは犯罪者を裁いただけだ。何も罪悪感に苛まれることはないだろ。


 麻生を殺した日に木本が発した言葉が頭を流れ、目が見開いた。


 ――俺たちは裏山で五千円札一枚を落としたにすぎないんだよ。


 ――高二にして完全犯罪成功。いい武勇伝じゃねえか。一生誇れるな。


 木本の台詞が次々と浮かんでいく。そして、ついに俺自身の声が聞こえた。


「人ひとりの命というのはこんなにも軽いのか」


 ――殺してやる!


 麻生の母親の怒鳴り声が再び弾けた。


「ごめんなさい……」


 その言葉が自然と口から漏れ出ていた。

 だが、もう遅い。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 人ひとりの命って、こんなに重かったのか……。




 食事もまともに喉を通らなかった。夜もまともに眠れなかった。まるで詐欺広告の時のよう、いや、それ以上だ。


『あなたの心から罪悪感が検出されました。罪悪感を追い出すには麻生の母親に殺されてください』


 無機質な声が自分の中から聞こえる。


「殺してやる!」という彼女の声が聞こえた時に見たのは幻だったが、体が何かに侵されているのは本当なのかもしれない。まだ気分が悪い。


 麻生の母親に「自分が殺しました」と自首しようか。

 でも、死ぬ勇気もない。

 死んだらこの気分の悪さから解放されて楽になるかもしれない。でも、それ以上に死ぬのは怖い。


 どうすればいいんだよ、俺は……。


 警察に自首するか。だが、あのドラマのように何もしていない家族にまで危害が加わるかもしれない。そもそも木本がそんなことを許してくれるとは思えない。でも、木本も麻生の母親の叫びを聞いて俺と同じように心を痛めてくれているかもしれない――。




「麻生の母さんの『殺してやる!』って叫び聞いたか? チョーウケるよな」


 それは翌日、木本が俺に対して発した第一声だった。


「殺してやるぅ! 殺してやるぅ! 殺してやるぅ! やばい、あれは笑いこけたよ、ハハハ」


 クラス中に「殺してやるぅ! 殺してやるぅ!」という笑い声が満ち溢れていた。まるで、流行語大賞を取ったドラマの台詞のようだった。

 でも、俺には、それがひどく幼稚に思えた。


 俺だけなのか? あの言葉の意味に気付いたのは。


「龍一、あれ笑ったよな」


「……あ、ああ」


 目の前に広がるあまりにも軽々しい景色に、目を疑わずにはいられなかったが、その感情を表に出すことは出来なかった。


 ――国民の三大義務とは何でしょう? 正解は『勤労・納税・少数派の撲滅』でした~!

 麻生を殺した時の木本の言葉が、獣になって正面から襲いかかってくるようだった。


「……笑ったよ。面白かった」


 血流が激しくなり、体温が上がる。心の奥がぶるぶると揺さぶられる。

 俺の心の中に、初めての感情が生まれた。


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