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その後の土曜日と日曜日は、この前麻生を殺したことがまるで夢であったかのような日々を過ごした。
ラインで木本やその他の友達とくだらないコミュニケーションを取ったり、パソコンを立ち上げてネットサーフィンしたり、動画を見たり。テレビを見て笑ったり、暇すぎてバスケのシュートのイメトレをしたり、ツイッターに「暇なう」と呟いていたり。安全なはずのエロ画像サイト(モザイクあり)を訪れたり。以前木本に教えられた大手で画質もよくてモザイクもない動画サイト(あの後、木本にメールでサイト名を教えてもらった)に行こうかとも思ったが「リアルを経験した後か、明日地球が破滅するかっていう時まではとっときな」という言葉が何か悔しかったので、それまでは意地でも見てやるかと思い、モザイクありの静止画だけに留めておいた。
その安全策が功を奏したのか、変な広告に出会うことも変なソフトをダウンロードすることもなく、平和に過ごすことができた。
睡眠時間もいたって普通で、わざわざ睡魔を呼ぶ必要もなかった。
全く不安感がなかったと言えば嘘になるが、その不安感は学校に着いた後にスマホを見てみたら充電が50%だった時くらいのささやかな不安だったので、あまり気にはならなかった。
改めて命の軽さに驚いてしまう。
「知ってるか? 人間の値段は五千円くらいだ」
その翌日の月曜日の放課後、木本はこんなことを言い出した。おそらく彼もこの休みの間に俺と同じように命の軽さに驚いていたのだろう。あるいは最初から知っていたか、だ。
「五千円? そんなに安いんだ」
「素材としての値段はそんなもんだ。一か月のお小遣いで人間は買えるんだよ」
それに臓器としての値段や思い出を含めればプライスレスな感じになるのだろうが、俺や木本は麻生との思い出もないし、臓器を提供してもらおうという気もない。
つまり、
「俺たちは裏山で五千円札一枚を落としたにすぎないんだよ」
その日も俺はぐっすり眠り、東から太陽が昇って無事に火曜日がやって来た。
ベッドから起き上がり、腕を回して肩甲骨をほぐす。次にベッドから降りてカーテンを開け、日を浴びながら軽くストレッチする。これは中学の頃からの日課だ。ちゃんと眠れていれば、眠気はこれで大体取れる。
制服に着替え、部屋を出て洗面台で顔と歯を洗い、ダイニングルームに入った。
魚が焼けるにおいがした。でも、母さんは魚が嫌いで滅多に食卓に出ることなんてないので、俺は自分の鼻を疑った。うん、気のせいだ。
キッチンの方を向くと母がエプロンをぶら下げて目玉焼きを作っていた。においの原因はこれだ、これに違いない、と俺は決めつけることにした。
ダイニングテーブルの方を向くと、父さんが肘を置いてワイシャツ姿でテレビを見ている。
正面に座る。
「おはよう」
一応挨拶はする。そんなに喋りたくないとはいえ、これが最低限の礼儀というものだろう。もしかしたらストレッチと同じように、昔からの習慣だから簡単に取れないというだけかもしれない。
「思春期だから親と話したくないって思ってしまうのが、川に流されてるみたいで俺は悔しい」
いつの頃だったか、そんなことを木本が言っていた。
「仕方ないよ。自然の摂理だから。人間は自然に勝てないんだよ」
「それにしても人間って愚かだよな。地面にアスファルト敷きつめて草が生えなくしたくらいでいい気になってるんだから。こんなこと言ったら被災者に悪いかもしれないが、想定外の津波はそんな人間への、特に日本人への神から罰だよ。そもそも『想定外』を想定できないほどのバカが原発なんて危険なもの扱ってるのが駄目なんだよ。軍事アナリストが言ってたぜ。想定外の出来事が起こることを想定して計画を立てられないやつに、計画を立てる権利なんてない。そんなやつが軍隊を仕切ってたら即刻全滅だ、ってな」
木本の話はいつも規模が膨らむ。風船みたいにどんどん膨らみ、いつ割れるかと聞き手をハラハラさせる。まだかまだかと思わせ、時間の流れに抵抗して時計の針を遅くしてくれる。最終的には精神を狂わせるような大爆発で、今まで感じたことのない驚きと歓びを与えてくれる。ある意味、麻薬のような中毒性を持つ、そんな木本の話が俺は好きだった。
「はい、ご飯よ」
母さんは父さんと俺の前に次々と朝食を持ってきた。白米、みそ汁、目玉焼き。至って普通だった。
平和だなあ、と思いながら箸を持とうとした時、「今日はこれも」と母さんが両手に焼き鮭の乗った皿を二つ持ってきた。
「……珍しいな」
父さんは目を丸くして母さんの顔を見た。「何かいいことでもあったのか?」
別に、と母さんは語尾を上げて楽しそうに返事した。「ちょっとは健康に気を遣ってあげようと思っただけよ」
「そうか、いつぶりだろう。朝食に焼き魚なんて」
「中三の秋だよ」
父さんの疑問に即答すると、「お、そうだったか」と彼は驚いた。
「よく覚えてるわね」
「珍しいことだったから」
俺はそう素っ気なく答えたが、覚えていて当然だった。だしだし星人たちと喧嘩したのがその日だからだ。自分はだしだし星人にボコボコにやられたが、木本が全員を瞬殺してくれて、二人で夕日に向かって雄叫びしたあの日だ。しかも、その週末の土曜日、CDを買いに出かけていたら、だしだし軍団に遭遇してしまい、リンチされたという苦い思い出さえある。あれは本気で死ぬかと思った。
なので、俺は「珍しく焼き鮭が出たから災難が起こったんだ」と、くだらない上に元から存在しない責任を母さんに転嫁した覚えがある。あれは、今思うとすごく恥ずかしい。中学生の頭の中とは本当に恐ろしいものだ。
テレビを見ながら朝食を食べる。政治の話に始まり、芸能人のスキャンダル、昨日の野球の結果、その他スポーツの話題。次々と情報が流しそうめんのように流れていく。でも俺はそのそうめんを箸で掴もうとはしなかった。特にニュースになど興味はないからだ。高校では「今の総理大臣が誰かということ」よりも「あいつがあの子のことが好きらしい」ということの方がよっぽど重要なのだ。
父さんは「久しぶりの鮭はいいなあ」と温かい息を吐いている。母さんの顔にはそれを見て「そんな生臭い物の何がおいしいのよ」という心の声が表れていた。自分で作ったくせに。
俺も「鮭って白身魚なんだよな」と思いながらその赤い身を頬張る。元々は白いが、食べ物の色素によって赤く染められているそうだ。確かフラミンゴもそうだった気がする。
でも、そんなことはどうでもよくなるくらい、おいしかった。ほくほくの身に、ほどよい塩気が絡まって、口の中で溶けていく。ご飯がよく進むというものだ。
そういえばあの時もこの鮭はおいしかった。言葉や表情には出さなかったが、かなりおいしかった記憶がある。感情を抑えて無表情を作るのに必死だったかもしれない。
まさか今日も変な災難が起こりはしないだろうな。そう思うと、口の中のものを隣のマンションまで吐き飛ばしそうになった。
すると、テレビのニュースが最も固くなる時間に入った。
〈では、最新のニュースです〉
淡白な声で坦々と話す、笑顔のない女子アナが原稿に目を通しながら喋り始める。
〈昨夜、○○県○○市で行方不明になっていた高校二年生の少年が、遺体となって発見されました〉
俺の手が止まった。体がこう着し、思わず手から箸が零れそうになる。
「おいおい、これ龍一の学校の裏山じゃないか」父さんは箸をテレビに向かって刺した。
画面には、木本と俺が麻生を殺した、あの裏山の入り口が映っていた。夜に撮ったであろうその映像は、この前見た景色をそのまま映していたが、不思議と不気味な感じはしなかった。
「……」
ついに、見つかったか。家に警察が押し掛けてきたらどうしよう。逃げるか? いや、無駄だし時間の問題だ。もしかしたらもう家の前まで来ているかもしれない。それとも、学校で待ち伏せでもしてるのか?
今すぐ木本と連絡を取りたい。待て、もしかしたら、そのやり取りも何らかの方法で監視されるかもしれない。どうしよう、どうしよう。
〈警察は現在、聞き込みなどで犯人特定を急いでいます〉
その言葉が俺の胸を優しく撫で下ろした。
思わず息が漏れる。
さすがに昨日の今日で犯人が特定されるわけがないよな。
「龍一、学校で何か聞いてるか?」
父さんは興味津津な瞳で俺を見てきた。
「ああ、クラスメイトが行方不明だってのは聞いた」
警察が来た、とは面倒なので言わなかった。
「おお! 間違いないな! その子と仲は良かったのか?」
不謹慎な、と眉間に皺を寄せながら「別に」と答えた。まあ、殺した自分に他人のことを不謹慎なんて言う権利はないだろう。
じゃあ何か続報があったら教えてくれよ、と父さんは手を伸ばして俺の肩をポンポンと叩いた。クラスで聞ける話は全部テレビでも聞けると思うよ、と言おうと思ったが、それすらも面倒だった。
手元を見てみると鮭が一口分だけ皿に乗っていた。
本当に変な災難起こりやがって……。
それを箸でつまみ、ぱくりと口に入れた。
学校に行くと、案の定その話題で持ちきりだった。
「おいおい、ニュース見たか」
「あれ麻生だろ」
「多分そうだよな。埋められてたんだってな」
「ああ、ウケるな」
その通り、あれは麻生だ。
ニュースでは、麻生らしき少年が裏山に入ったのを、偶然目撃した証言によって遺体が発見されたことや、遺体が埋められていることなどは言っていたが、麻生の名前や顔はもちろん、ボコボコになっていたことは報道されなかった。それはまだ捜査上の機密というやつだろう。刑事ドラマではよくそれを口走り逮捕されるというケースをよく見るので、それだけは避けなくてはならない。
俺は決意の拳を強く握る。
「よっ」
そんな緊張した俺の肩に、木本は後ろから手を置いた。
俺は一瞬ビクッとし、それを見て木本は笑った。「何ビビってんだよ」
「ごめんごめん」
「麻生見つかったな!」
木本は笑顔だった。
「あ、ああ……」
思わず、そんなテンションでそんなこと言ったら怪しまれるんじゃないか、と辺りを見回してしまうが、みんな、そんな高いテンションで同じようなことを言っていた。
「そうだな……」
「まあ、心配すんなよ」
今度は小声だった。「証拠なんてねえんだよ。聞き込みつったってあの時誰もいなかっただろ。何も聞き出せやしねえよ」
そうだな、と俺は零れるように呟いた。
木本の言うようにあの時、俺は誰の影も見なかった。これは運がいい。
「高二にして完全犯罪成功。いい武勇伝じゃねえか。一生誇れるな」
木本は嬉しそうだった。俺もつられて笑ってしまう。「やっぱりシンプル・イズ・ベストだぜ。妙な細工をするから証拠は残るんだ」
その俺の言葉を聞き、木本は頷いた。「スコップも持って帰ったし、俺たちを特定するものなんて何もない」
何故かあったあのスコップは一旦山の麓に隠し、翌日にスポーツ用品店で買った袋に入れて木本が持って帰っていたのだ。麻生の帰り血も多少ズボンに付いていたが、ズボンの色は黒だし、これまた夜の公園の水道で洗えばほとんど目立たず、親にもバレなかった。その後、学校で一日無事に過ごして週末に入り、ズボンを洗濯。麻生のシャツなんかに俺たちの指紋が付いたかもしれないが、俺たちは別に前科者じゃないからすぐに辿りつけるわけでもないし、そもそも学校の制服に他の人の指紋がつくことなんか珍しくともなんともないから、大した証拠にはならないはずだ。他の人が触るはずのないところなど触った覚えもないから、おそらく大丈夫だろう。
優越感。それしかなかった。
チャイムが鳴り、汗で顔を濡らした担任がやって来た。
「もう知っているかもしれませんが、麻生くんが遺体となって見つかりました」
クラスにどよめきが走ることすらなかった。その話題は既に終わったのだ。誰も友達がいないようなクラスメイトがひとり亡くなってたとしても、それは流行好きの学生間では数十分しか持たない。既に過去の話だ。
担任は流行に乗り遅れた人間のようでひどく惨めに見えた。
やっぱり、命って五千円くらいなんだな。そこそこの服より安いじゃんか。
もしかすると、来年には「麻生信次」というクラスメイトがいたことすら、忘れられてしまっているのかもしれない。