13
家に帰り、風呂に入った。どうして風呂っていうのはこんなに考え事にふけこみたくなるのか。
よく見ると、浴槽には汚れが浮かんでいる。見渡す限り、たくさん白いものが浮いている。
濡れた前髪から落ちてくる雫がぬるいお湯を幾度も波立たせている。揺れる水面が脚を震えさせる。
麻生のボロボロの顔、魔女のような不気味な笑み、最期の安らかな顔、そして死体。ひとりの人間が一日で見せた様々な表情が頭の中をぐるぐると回り廻っている。そのサイクルの中、ランダムな周期でうっすらとコンビニで弁当を買っている普段の姿も現れていた。
「あいつが財布泥棒か……」
冷静になり、改めて考えてみると違和感があった。クラスでは一言も話さず、悪びれるような素振りも一切なかったあいつがそんなことをするとは。
「信じられないな」
でもそれをやったという確かな証拠だってあるわけだし、信じるしかないよな。
重大な罪を犯す人間はみんな、重大な罪を犯すようには見えないような人らしいし、麻生のことを何も知らないような俺が言えることでもない。あいつの心にだって闇はあるだろうし、そもそも闇がなければ普段あんなに大人しいわけもない。
それにしても、本当に死んだんだよな、あいつ。
目の前で人が死んだなんて経験初めてだ。多分、ほとんどの人がそんなものないんだろうけど。
気分が悪い。今はそんなに罪悪感はないが、その内現れてくるかもしれない。
麻生の十二面相はまだ変わらず頭の中で回っている。今にも湯気に浮かんできそうな勢いだ。
正直、人を殺したという実感がない。人ひとりの命というのはこんなにも軽いのか、と思うくらい。命がこんなに軽いんなら怪我くらいで終わるいじめはどう考えてもなくなるはずはない。
そう思った時、脳裏に初めて聞いた麻生の話す声がよぎった。
――人の命を背負う、覚悟はできているか?
――俺にだって、お前らにだって、担任にだって、そこら辺にいる人だって、野良ネコだって、ゴキブリだって、家族がいる。自分がいなくなったら悲しむ人がいる。その人たちの悲しみ、怒り、全てを背負う覚悟はできているか?
……一体何のことなのか。
昨日に引き続き、俺は眠れなかった。
ファミレスのトイレで誰もいないのを確認してわざわざ「睡魔よ、俺を襲ってくれ」と言ったのに、襲って来なかった。そうか、睡魔はまた足が遅くなったんだな。もしくは怪我でもしたのかもしれない。昼飯の時には言っておかないと。
昼飯、昼飯、昼飯。睡魔、睡魔、睡魔。
大事なことだから繰り返しておこう。
昼飯、昼飯、昼飯。睡魔、睡魔、睡魔。
そんなことを真面目に考えてしまうくらい、俺は眠かった。
その朝、教室に入るといつもどおり木本が話しかけてきた。
「よ、元気か?」
「そう見える?」
「見えねえな。目の下のクマが全てを語ってるよ」
「じゃあ初めから訊かないでくれ」
彼は至っていつも通りで、昨日クラスメイトを一人殺したとは思えないくらい普通だった。
そして周りも周りだった。誰もすぐ近くに昨日殺人を犯した人間が二人もいるなんて思ってもいなさそうだ。
目を擦りながら話をしている時、ふと麻生の席が視界に入った。やはり誰も座っていない。彼はいつも俺より早く登校してきて自分の席で本を読んでるのだが、今日はその姿が見えない。でも、教室のどこからも「今日麻生来てないぞ」という声は聞こえない。すでにその話は済んだのか、それともまだ俺しか気付いてすらいないのか。
もう一度見てみる。やっぱりいない。
「昨日はエロサイト見たか?」木本は昨日の記憶がないのかというくらいのテンションだった。
「見てない。そんな気分じゃなかった」
「じゃあどんな気分だったんだ」
「……」
すぐに答えられなかった。眠気で頭が回ってないのか、それとも……。
それからはあまり覚えていない。木本が「俺は見たぜ。大手で」と満面の笑みで言ったことしか思い出せない。
それからチャイムが鳴り、古典の女教師が教室に入ってきた。少し暗い顔をしながら点呼を取っていた。
「麻生君は、いないわね」という声がやけに曇っていた。「珍しい」
この人は恐らく知っているのだろう。麻生が家にも帰っていないことを。もしかしたら既に捜索届が出ているかもしれない。少なくともこの様子からして死体は見つかっていないようだ。
安堵で温かい息が漏れた。
そう言えばいないね、という女子の声がどこかから微かに聞こえた。
「よ、エロサーファー龍」
昼休み、弁当の蓋を開けたその瞬間に木本が俺の前に座り、俺の机に弁当を置き、『プロ●ルファー●』さながらのイントネーションで言ってきた。
「その呼び方、金輪際やめてくれ。昨日エロサイト覗いた安心安全の木本」
「いいじゃねえか、別に」
木本はいつものように自分の弁当箱を開けた。その中にタコさんウインナーが入っているのが目に入り、俺は笑ってしまった。「それ……」
「なんだ、俺の弁当の中にちっちゃい漫才師でもいるのか」
「いや、元ヤンがこんな可愛いの食ってるかと思うと」
「知らねえのかよ。ヤンキーの心はピュアなんだぞ」
確かにな、と思いつつもやはりおかしいものはおかしい。「昔の俺の友達はみんなディズニーかトーマスが好きだったよ」なんて言い出すので、俺は噴き出してしまった。
声には出さなかったが、口を開けて笑った。その口の形を脳が勘違いしたのか、急にあくびが出てきた。
「眠そうだな」
「間違いなく眠いよ」
「気にすんな、まだ見つかってもないんだし、多分証拠もない」
木本は声のボリュームを絞りながら箸箱を開けた。
彼も俺と同じく教師たちの様子からそう推察したのだろう。
昼休み時点でまだ生徒には情報公開されていない。こうしている間にどこかのコンビニから出てきてくれるとでも期待してるのだろうか。
「まあ、今は気楽に親が作ってくれた飯でも食おうぜ。俺の弁当もお前の弁当も、犯罪者に食わせるために作られたものじゃなくて、かわいい息子のために作られたものだろ?」
それもそうだ、と何故か納得してしまう。冷静に考えたらただの屁理屈な気もするが、木本には人を妙に納得させてしまう特殊能力でもあるのだろうか。それとも俺の眠気が脳の回転を止めているだけなのだろうか。
木本は手を合わせた。
彼は昔から不良のくせに「いただきます」という挨拶は絶対に欠かさない。というのも木本曰く、
「俺らは普段当たり前に食事してるから気付きにくいが、俺たちが食べてるものは死体なんだよ、死体。大事なことだからもう一度言うぜ。死体。動物、植物、魚、そういうのを殺すことで俺たちは初めて生きることができる。つまり生き物を血まみれにして大量虐殺する覚悟のない者に生きる権利なんて最初からねえんだよ。俺にはその覚悟がある。覚悟があるんだったら自然と口から出るよ。『命をいただきます』って感謝の言葉が」
俺は中学の修学旅行でそれを聞き、バーベキューを前に食欲をなくしたことがある。自分に生き物を殺して生きる権利があるかと訊かれれば、恐らくノー。あれから木本の前以外で「いただきます」なんて言葉、使ったことがないのだから。
木本は一礼する。「いただきます」
俺も手を合わせる。「睡魔よ、俺を襲ってくれ」
俺はそのまま食事に箸を付けたのだが、木本はそれどころじゃなかったらしい。授業中に突然全裸になる小学生の後ろの席の女の子みたいな苦い目をしていた。
「相当眠たそうだな……」
「ああ、気にしないでくれ。こっちの話」
「いやいや、気になるよ」
「知ってるか? 睡魔ってのろまなんだぜ」
木本の眉にいっそう皺が寄る。「保健室、連れて行こうか?」
「大丈夫、まだ俺の頭はおかしくなってないから」
「なってるから言ってるんだが」
「事情を説明したら長くなるから無視してくれ」
木本はまだ納得がいっていなかったようが、開き直ったのかそれともただただ面倒になったのか、ひとつ首を傾げて弁当を喉にかきこみ始めた。
「あ」
俺は唾で濡れたご飯粒をひとつ吐きだした。
「汚いな。どうした?」
「いや、なんでも……」
そういえば、「今日何で麻生休んでるんだろ?」「さぼってるんじゃねえの?」みたいな会話をまだ聞いていない。
それに気付き、麻生信次は俺の作りだしたフィクションの登場人物なんじゃないかとさえ考えてしまった。
結局、この日は俺たち二人を除いて、麻生が行方不明だという情報が知れ渡ることはなかった。