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 カラスが悲鳴をあげる。少し投げやりにも聞こえる。最近はゴミ置き場にも防護ネットが張ってあることが多く、カラスも空腹に飢えているのだろうか。


 木本と俺は麻生の腕を片方ずつ持ち、うつ伏せの体を引きずらせながら更に暗くなる道を進んでいた。

 胸が高鳴る。あの斜面を転がり、人間が木にぶつかりながらも更に転がる眺めは、パチンコよりもずっと愉快で楽しいはずだ。想像するだけで息が荒くなってしまう。


「あったあった」

 木本は斜面を目の前にして足を止めた。「いい景色だ」


 その斜面は、昼間とはまた違う不気味な顔をしていた。草木が微かな光を反射させ、宙に浮かぶ人魂を思わせる。

 俺たちはカバンをその場に置き、麻生の手を離してバンザイの姿勢でうつ伏せにさせた。


「麻生、これがあの世への扉だ」


 俺はそう言って笑い、胸の中で我慢していた高揚を少しだけ発散させた。


「……」


 麻生は全く体を動かさなかった。もしかしたらもう死んでるんじゃないかというくらいに。でも、辛うじて呼吸で体が上下に振動しているのが見て分かるので、何とか生きながらえているようだ。


「まさに虫の息だな」


「ああ。こいつもまさか、窃盗が死の引き金になるなんて思いもしなかっただろうな」

 ヒヒヒ、と木本は笑う。「いつ誰が死の引き金を引くかなんて、分かったもんじゃねえからな」


「かっこいい台詞だな」


「ありがとよ。俺のオリジナルだぜ」


 そう誇らしげに笑いながら、木本は麻生を見下ろす。そして、


「笑えよ」


 彼は右脚を背後に上げ、倒れている麻生を蹴りあげた。「人生の最期くらい笑おうぜ」


 木本の蹴りの勢いで麻生はうつ伏せから横向けに姿勢を変えた。汗で濡れた前髪が目にかかっており、顔は汗や泥、血や火傷でひどく汚れている。

 木本はゆっくり二歩下がった。助走をつけ、大きく振りかぶり、もう一度麻生を蹴った。


「っがッ……」


 麻生は後方に一メートルくらい吹っ飛んだ。ざざざ、と土と背中が音を立てて一メートルくらい摩擦する。

 どんな苦しい顔してるのかな、と俺は麻生の顔を覗き込んだ。


「なっ……!」


 俺は驚いた。


 笑っているのだ。

 声は出していないが、口元が緩んでいる。唇が三日月のような曲線を描き、口裂け女のようにつり上がっていた。

 取り憑かれたような不気味な笑顔だ。目が髪や火傷でほとんど見えないことが、更にその悪魔的な表情を際立たせる。


「な、なに笑ってんだよ……」


 俺の声は震え、右手は左腕を無意識にさすっていた。その腕はザラザラしている。鳥肌だ。

 麻生の顔から視線を外したい。でも、目が言うことを聞いてくれない。しばらく目を震わせながら見つめていると、その怪奇な顔から何かを思い出しているような哀愁が出ているのが見えた。その得体の知れない物体に、俺の脚は遂に震えだした。


「本当に笑いやがって」

 木本はひとつ笑い、舌打ちをした。「ついに頭おかしくなったか。いや、最初からおかしいのか?」


 木本は俺とは違い、それをただの奇妙なものとしてしか見てはいなかったが、俺の血は意味の分からない物が目の前にあることへの怒りで、突然沸騰した。


「な、なに笑ってんだよ!」


 思わず麻生の顔面を蹴っていた。足先に取りついた悪霊を追い払うように、何度も、何度も。「うわぁあああああ!」


「おい、どうしたんだよ龍一」


 木本の声で俺は我に戻った。

 息が乱れ、視界の端がぼやける。


「お前までおかしくなったのか」


「いや、なんでも……」


 再び麻生の顔を見ると、彼の今の表情は幻だったかのように、無表情に戻っていた。

 全身に溜まっていた汗が急速に蒸発して冷えていく。


 何なんだよ、コイツ……。


 さっきの笑顔が脳裏にフラッシュバックした。尻から首に向かってムカデが素早く這うような感覚に襲われ、ゾッとする。

 木本は仰向けになっている麻生を、足でフライパンをひっくり返すようにうつ伏せにさせ、彼の髪を拳で掴み、引っ張った。

 麻生は痛そうな素振りすら見せない。


「胸くそ悪い笑い方しやがって。いいか、」

 木本は彼を崖の方に引っ張り、顔を崖にはみだたせた。「サスペンスでよく出てくるような崖だろ。怖いか? 今から落ちるんだぜ? 財布泥棒の罪としては丁度いいくらいだと思うが、どうだ? 麻生。最後に何か言い残したことはないか?」


 麻生は顎を浮かせたまま、目線だけを崖の底に下げる。

 しかし、彼は息を乱すだけで何も言わない。恐怖で顔を震えさせることもなかった。まるでさっき取りついていた悪魔が感情まで吸い取ってしまったかのように。


「そうか。最後までお前は喋らないのか。立派だよ。尊敬する」木本は腰を下ろしてゆっくりと低い声を出した。


 さっきのは幻だ、そうに違いない。


「驚かせやがって」


「よし、龍一。落とすぞ」


 木本は麻生の髪を引っ張り、崖線に並行するように麻生を横たえさせた。そして、両腕を持った。俺は足首を持つ。俺の顔はさっき一瞬感じた恐怖を忘れ、恍惚に満ちあふれているはずだ。


「いくぞ。せーっの」


 俺たちは同時に力を入れて麻生の体を浮かせ、山側の足に重心を乗せた。

 その時、


「覚悟はできているか?」


 カラスが鳴きやみ、鳥は飛ぶのをやめ、山が静まり返る。どこかで鳴いている虫の声も途切れた。


「……え?」


 木本と俺は予想外の出来事に呆気を取られ、手の力が抜けた。

 麻生の体は地面にドスッと落ち、彼の顔は右を向いた。

 その声は授業の時に聞くか細い声ではなく、太みのある凛々しい声だった。


「お前、はっきり喋れるんじぇねえか……」


 木本は目を見開き、感動、驚愕、動揺、困惑、なんとも言えない感情に襲われている様子だった。


「……できてるか?」


 麻生は続けて何かを言った。

 でも木本と俺はあまりもの出来事に頭の言葉が聞こえなかった。

 それに気付いたのか、麻生はもう一度同じことを口にした。


「人の命を背負う、覚悟はできているか?」


 笑ってこそいないが、その横顔はさっきの取り憑かれたような不気味なものに戻っている。


「なんだ、中二病かよ!」木本は倒れている麻生の背中に右足を乗せ、嘲笑しながら力を入れた。

 ギシギシという擦り潰れるような音だけが静かな森に響く。


「しみじみと、運命を感じるよ」


「は? 何言ってんのお前? 本当に頭がおかしくなったんだな」


 笑っている木本。


 対照的に、何故か俺にはその言葉が重石のように感じられた。


「気味が悪い、龍一。さっさと落とそうぜ」


 木本は麻生の腕を掴む。


「ああ、そうだな……」


 肩甲骨と肩甲骨の間に冷たい水がツーっと伝うのを感じながら麻生の脚を手にした。


「俺にだって、」

 麻生は静かに淡々と続ける。「俺にだって、お前らにだって、担任にだって、そこら辺にいる人だって、野良ネコだって、ゴキブリだって、家族がいる。自分がいなくなったら悲しむ人がいる。その人たちの悲しみ、怒り、全てを背負う覚悟はできているか?」


「うるせえ! 黙れ!」


 木本は腕から手を離し、左手で麻生の前髪を空へ引っ張り、右手で頬を殴った。

 彼の口からもう一度血が噴き出た。だが、それを見て興奮する者は誰ひとりといなかった。


「なんか変なものに取り憑かれたのか? お前はイタコだったのか? 意味不明なこと言ってんじゃねえよ」


 木本の目は充血し、今にももう一発殴りそうだ。

 麻生は黙り、木本は怒りを地面に伝えて逃がした。

 木本が麻生の力のない腕を力強く掴んだのを見て、俺も足首を握っている力を強めた。

 この角度からじゃ俺には麻生の顔が見えない。彼がどんな顔をしているのか、正直なところ気になる。でも、それを心の奥に押し込み、息を飲む。


「せーのっ」


 ばっ、と俺たちは麻生を崖の方へ放り投げた。宙で麻生はゆっくりと回転し、着地の直前に俺たちの方を向いた。

 その顔は安らかだった。今は夜のはずなのに、輝いて見えた。さっきまで殴られ、蹴られ、焼かれていたとは思えない、菩薩のような笑顔だった。そして、口が微かに動いた。


 ありがとう。


 その音は着地の衝撃音でほとんど打ち消されていたが、俺の耳の中ではっきりとこだましていた。まるで、たった一人の体育館の中で投げたバスケットボールがゴールに入り、床に落ちてバウンドするように、何度もこだました。

 俺は膝から落ちる。まばたきすらも忘れ、麻生がラグビーボールのように転がり落ちていくのを、目で追いかけるしかできなかった。


「ヒャハハハハ!」


 木本は水が並々入った壺が割れたように笑っていた。俺も同じように笑うはずだった。なのに、ひとつも笑えなかった。


 ありがとう。


 その小さくも密度の大きい声が風呂の中のように反響する。エコーをかけながら何度も耳に届いてしまう。反響した音が更に反響して耳に覆いかぶさる。


 木本の目に映るのはおそらく細長いパチンコ玉のようなものだろう。それが自分の思うように落ちて行くのを、博打に勝ったように彼は笑いながら眺めている。

 だが、俺の目に映るのは得体の知れない物体。物理的な距離は遠ざかっていくが、まるで悪夢のように心に刺さる深さは増している。


 木にぶつかり、腕が浮き、土や草と擦れ、音を立てて速度を上げながら落ちていくそれを見る俺たち二人の感情の相違は、何故かあまりに大きかった。




 暗くて斜面の下は見えないが、音がしなくなったのでもう下まで落ちたのだろう。


「龍一、行くぞ」


「あ、ああ……」


 木本はボストンバッグを持ち、斜面を滑り降りるわけではなく斜面に沿って右に歩いていった。さすがにこの暗闇の中ここを滑り降りるのは危険だと判断したのだろう。

 俺も立ち上がり、彼についていった。


 この前ここに来た時、少し遠回りにはなるが、斜面の上から下へ行く道を俺たちは見つけていたのだ。

 滑り下りれば十数秒の距離を五分かけて歩いた。木本は興奮気味に、俺は放心気味に。


「お、いたいた」


 麻生は先日俺が転がり落ちて衝突した木の根元にいた。おそらく麻生も衝突したのだろう。


「生きてるか? 麻生」


 木本はぐったりして全く動かない麻生を踏みつけた。それでも彼は死体のように動かない。いや、「死体のように」ではなく、それは紛れもなく、


「死んでるな」


「え?」


 木本はしゃがみ、ボロボロになっている麻生の顔に右手を当てた。


「……ああ、間違いなく死んでるよ」


 そう言って木本は冷笑した。「この程度で死んでるぜ、コイツ」


「死んで……」


 俺には分からなかった。どうして木本が笑えているのか。

 目の前で命がひとつなくなったんだ。しかも自分たちの手によって。


「そんな、本当に死ぬなんて……」


 俺がそう呟いた時、木本はこっちを見た。

 木本は不思議そうに目を大きく開いている。そして、笑みを零した。「ハハッ」


「何?」


「いや、なんでもない」


「?」


 すると、木本は立ち上がり、辺りをきょろきょろと見回し始めた。

 五秒ほどそうしていると何かを見つけたのか「あったあった」と楽しそうに呟き、麻生の死体を超えて歩いていった。


「……」


 俺は状況を全く読めていない。そんなことはお構いなしに木本は闇のなかへ消えていく。

 つまり俺は死体と二人きりになった。

 その顔を改めて見てみる。

 安らかな顔だった。もう思い残すことは何もない、と言って老衰したおじいさんのような表情。口角はうっすら上がり、瞑っている目もどこか気持ちよさそうだった。死んでいることはおろか、血や火傷で汚れていることすら忘れてしまうほど綺麗な顔だった。


「……」


 顔に触れてみる。まだ少し温かいが、決して生きている人間の温度じゃない。


「おい、龍一」


 木本は闇の中から現れた。しかし、肩に大きなスコップを二つ担いで。


「それ、何?」


「スコップだよ」


「いや、そういうことじゃなくて」


「知ってるか? 日本の東側では大きいのがスコップで小さいのがシャベルだが、西では逆なんだ。小さいのがスコップで大きいのがシャベル」


「そういうことでもなくてさ、」


「どうしてこんなものがあるかってか?」


「ああ」


「向こうに落ちてた」


 そんなバカな、と思ったが、偶然でもない限りこんなものが落ちてるはずもない。

 だが、いまいち信じられなかい。


「そんなラッキーある?」


「ラッキーじゃないぜ。これは国民の義務を果たした俺らへの、神様からのささやかなご褒美だよ」

 そう笑いながら木本は俺にスコップを一本渡す。「どうでもいいとは思うが、JIS規格では金属部分に足をかけるための平らな部分があるのがシャベル、撫で肩になってるのがスコップらしい」


「『飛んで火にいる夏の虫』の意味も知らないのにそんなのは知ってるんだな」


「学力と知識は正比例しないんだよ」


 俺はそれを受け取り、眺めた。撫で肩だった。「じゃあこれはスコップか」


「ああ」


「そんなことより、」

 こめかみに再び、さっきとはまた違う嫌な汗が流れた。「これ、どうするんだ?」


「そんなの決まってるだろ」


 もちろんそんなこと俺にだって分かっている。でも、聞かずにはいられなかった。


「埋めるんだよ、この泥棒を」


 やっぱり、と反射的に呟き、俺はまた眠っている麻生の顔を見る。本当に安らかな顔だ。どうせ死ぬならこんな顔で死にたいと思ってしまうほどに。

 スコップを握る手に力が入らない。それどころかしゃがんだまま立ち上がることもできなかった。


「怖いか? 龍一」


 木本のワントーン低い声に、俺は一瞬震えた。


「でも考えてみろ。いくらこんなところに来るやつがいくら捻くれてるって言っても、現に俺たちはここにいる。ここに放置してたらそう遠くないうちに見つかっちまうし、聞き込みとか科学捜査でもしたら、俺たちがやったって証拠だって出るかもしれない。発見を遅らせて更に証拠が見つかる確率を減らすために、俺たちはこれを埋めるべきなんだよ」


 これ、という言葉に引っ掛かってしまい、血液の温度が上がる。


 あれ。どうして俺は怒っているんだ。


「このちょっとした作業ひとつで俺たちの未来が消える確率を大幅に減らせるんだ。どちらが利口かぐらい、訊くまでもないよな」


「……」


「俺たちは犯罪者を裁いただけだ。何も罪悪感に苛まれることはないだろ」


 そうだ。麻生は財布泥棒なんだ。

 こいつのせいで俺は殴られたんだ。

 これは、犯罪者なんだ。


「ああ、そうだな」


 俺の手に、足に、腰に、思い出したように力が入ってきた。「埋めよう」


 俺たちはこうするしかない。俺たちは何も悪くない。選択肢なんて最初からひとつしかないんだ。


 スコップを、地面に突き刺す。一心に土を掻き上げていく。



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