10
放課後、眠気は覚めたが怒りはまだ募っていた。
「よ、帰ろうぜ」
木本のかける声も空気を読んでいるのか、いつもより大人しい気がする。
彼は休み時間に俺からさんざん愚痴を聞かされていたので、担任が私情をはさんでいたことは知っていた。
「ああ」俺は二つ返事で机の上のカバンを肩にかけた。
頭の中にはまだ怒りが渦巻いている。
「ま、気にすんなよ。あいつも人間なんだし。なんなら仕返してやりゃいい」
「そう、だな」
俺だってそれくらいのことは分かっている。でも、何かすっきりしない。本当に「人間だから」という理由で暴力が許されていいのか。しかも教育のための体罰じゃない。ただの腹いせの暴力だ。
気にしないようにすればするほど気になってしまう。気にしようとすればするで余計に気になってしまう。どうして人間はこんなに複雑な作りになっているのか、なんて関係ないことさえ考えてしまう。それで気が紛れるならばまだいいが、紛れないのだからタチが悪い。
木本と俺は一緒に下校していたのだが、あまり話さなかった。俺は考え込んでしまって蟻地獄から出られないでいるし、木本も俺を救うためのロープを持っておらず、ただ見つめることしかできずにいたのかもしれない。
駅前のコンビニの横を通りかかった時だった。
木本の足音がピタリと止まった。
俺はその途切れた音に遅れて反応し、足を止めて振り返った。
木本は俺ではなく、コンビニの方を向いていた。そしてニヤリと笑った。
「あれ、麻生じゃねえか」
コンビニのレジで麻生が会計をしていた。それ自体は別に何でもない。
しかし、俺たちと麻生の距離はたったの十メートルほど。視力がよくないと言えど、麻生の右手にある物が何であるかくらいは俺にも分かった。
「あの財布……、担任のじゃないか?」
黒と白のストライプの長財布。彼の手には確かにそれがあった。授業中に何度も見かけたことのあるあの財布だ。
「かもな」
「……」
あまりに予想外の犯人に、開いた口が塞がらなかった。
「どうする? 龍一」
木本は更にニヤリと笑う。「ボコるか?」
「え?」
俺は彼の顔を反射的に見上げた。
「前言ったろ。俺たちは多数決の原理を中心に成り立っている民主主義国家を生きていることを誇りに思い、少数意見の存在を認めた上で握り潰さなければならない、って。教師の財布盗んで近くのコンビニでショッピングなんて、どう考えても少数派だろ?」
俺はじっと麻生を見た。レジの店員から弁当か何かだろうか、商品を受け取り、財布をズボンの後ろポケットにしまった。
「龍一いらついてるんだろ? いいサンドバッグがあるじゃねえか」
サンドバッグ。そう言われると麻生が動くサンドバッグに見えてきた。サンドバッグを見かけると殴りたくなる。それが人間ってものだ。
「……ああ、そうだな」
頭の中が木本に説得されて曲がっていくのが自分自身にも分かった。でも、決して気持ちの悪い感覚ではない。
「窃盗は立派な犯罪だから、俺たちにはそれを裁く義務があるんだ」
木本と俺は麻生に見つからないよう、コンビニの隣の建物の陰に隠れた。麻生がコンビニを出て歩きだし、隠れている俺たちの横を通り過ぎたのを確認し、陰から出る。そして二十メートルほど距離を取って尾行を始めた。
後ろからだったが、麻生が鼻か口を押さえたのを見ることはできた。
「あいつどんだけやりたがってるんだよ」
俺の記憶が正しければ麻生の中学はこの近く。つまり家もこの辺りだ。駅の方向に向かっているが、おそらく電車やバスは使わないで駅をスルーするのだろう。
すると、やはり彼は駅構内には目もくれず、真っすぐ歩いていった。
予想通りだな、と木本は小声を発する。
予想したのは俺だけどな、と俺は小声で指摘する。
しばらく麻生を尾行していると、右に川、左に田んぼがある、のどかな狭い道に出た。右の川の向こうは無造作に背の高い草が生えている。田んぼの向こうには農家だろうか、いくつか家があり、その後ろには山がある。
つまり、人気がない。周囲を見渡しても、木本と俺、麻生の三人しかいない。学校の下校時間にこんなことが果たして有り得るのかと甚だ疑問だったが、もしかしたら麻生は人が多いところが苦手そうだから、あえて誰も通らないような道を通っているかもしれない、という結論に至った。
木本と俺は足音を立てないようにしながらも歩数を増やし、少しずつ、少しずつ距離を詰めていく。
だが、足音だってゼロにできるわけではない。なのにどうして気付かないのか、と思ったが、あと五メートルくらいのところで彼の耳にイヤホンがはめてあるのが見えた。
更に近づいていく。すると、木本が前方に中途半端な走り幅跳びみたいに大きくジャンプし、着地の代わりに走り出した。さすがに麻生も気付いたのか、振り返った。だが、もう遅い。木本は麻生のズボンから財布を抜き取った。
「これな~んだ?」
木本はストライプの財布を天に掲げた。
麻生は無言のまま慌てて両手でズボンのポケットを触り、木本の持っている物が自分の物と理解し、イヤホンを外し、胸ポケットに入れた。
「それ、担任のだよな、どうして君が持ってるのかな」俺は木本の方を向いている麻生の後ろから肩を叩く。
「……」
麻生は言い訳のひとつもしようとせず、沈黙を続けた。
「この期に及んでだんまりかよ」
「……」
「その沈黙はイエスってことでいいのかな?」
俺はにやけながらもう一度麻生の肩を叩く。「窃盗は罪だから、裁かないとな。このことを担任に話したら麻生、お前きっと半殺しになるまで殴られるよ。『社会の厳しさ教えてやるよ』とか言われて。その上退学で、お母さん泣くよ?」
「……」
やはり麻生は何も言わない。
こいつのせいであいつに殴られたのかと思うと、舌打ちを隠せなかった。
その耳に障るはずの音に、木本が笑う。
「でもな、麻生。俺たちだって鬼じゃない。担任は鬼だけどな。だから、十万円、あるいはクレジットカードをくれたら、このことは黙っておいてやる。だから今から家に帰って用意するんだな。高校で今まで勉強してきた費用を全て無駄にするのと、その程度の金を天秤にかけたら、きっと大きく傾くだろうよ。それがどっちに傾くかぐらいは、分かるよな?」
木本は前傾姿勢で顔を麻生の顔のすぐ近くまで持ってきて、睨んだ。
「……」
「今日の夜八時に学校の裏山の、そうだな、墓石のところで待ち合わせだ。花が置いてあるかどうかを確認したいからさ。お前ん家の近くにしてやったんだ。感謝しな。時間もたっぷり用意してやった。さっき買った弁当をしっかり噛んで食ってから来いよ。最後の晩餐になるかもしれねえし。分かってるとは思うが、逃げたりでもしたら担任に全部チクるぞ。分かったか?」
「……」
木本は姿勢を元に戻し、俺の方を見る。
「行くぜ、龍一」
「おう」
俺たちは財布を麻生に返し、駅の方へ戻っていく。
十秒ほど歩いてから振り返ってみると、麻生は何事もなかったかのようにイヤホンを装着して歩いていた。