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その日は凄く眠かった。眠れなかった。「睡魔よ、俺を襲ってくれ」と叫びそうになったくらい眠れなかった。布団の中で財布は見つかるかどうかを考えて眠れなかったのだ。
――『10分の1』より『1』の方が魅力的だと思うが。
その木本の言葉も同時に頭の中をぐるぐると回っていた。結果、寝不足。布団に入ったのが一時で、寝付いたのは多分四時過ぎだ。それでもって六時半起き。予想以上にダメージは大きかった。
そういえばこの間、東大出身か何かの偉そうな俳優がテレビで言っていた。
「ちょっと頭のいいやつは早く起きる。早起きは三文の得っていうのは本当のことだから。でも、もっと頭のいいやつは早く寝る。なぜなら十分な睡眠時間を取れないと頭が回らないということを、身に染みて知っているからだ。つまり、寝る間を惜しんで勉強するのがちょっと頭のいいやつで、勉強する間を惜しんで寝るやつが本当に頭のいいやつってことなんだよ」
なるほど、と思った記憶がある。
十分な睡眠時間を取れないと頭が回らないなんてこと、保健の教科書に書いてあるからみんな知ってるつもりでいるが、身に染みてはいない。所詮教科書を一回パラッと読んだだけ。ページをめくればもう忘れている。実感はしていない。だから毎日毎日睡眠時間を惜しんで勉強したり遊んだりする。そして次の日になって頭が働いていないことにすら頭が悪いから気付かない。頭がいい人は頭の働きが多少鈍くなっていたとしても、そのことに気付くことができる。故にその日からは「やることはとっとと済ませてさっさと寝よう」という思考に辿りつけるのだろう。
その人は高一から毎日、授業の予習復習や受験勉強をたった二時間ずつやっていたらしい。高三の夏には全部やることは済ましてずっと遊んでいたのだとか。しかも東大出身者にはこんな人が五万といるらしい。
大抵の人は高三になってから、あるいは高二の終わりぐらいから受験勉強始めて、一日十時間とか苦しみながら勉強しているらしい。確かにたった一年間で「今までやっていたけど忘れた」部分を思い出した上に応用力を鍛えるよりは、三年かけて授業内容を忘れないように脳を目覚めさせた状態を保ち、ちょっとずつ予習復習する方が効率は格段にいいのかもしれない。
そういえば、高校入学の時に校長か誰かが「既に受験は始まっている」とか言っていた気がする。
そうか、頭のいい人はそれを真に受けて受験を始めているんだな。
かくいう俺は受験勉強などおろか、予習復習なんてほとんどやったこともない普通な人間だ。むしろ今の授業にすらついていくのがやっとの状態。
はっきり言って、睡眠時間を増やしたくらい授業についていけるような脳になれるのか、甚だ疑問だ。俺は「そんなの元々のスキルが高いからできる芸当じゃないか」と否定して実践しようとも思っていない。
でも、気づいてしまった。
やる前から否定しているところが俺のバカなところなんだな、と。
何はともあれ、その日の一時間目のチャイムと俺のあくびが同時に発生した。まるで打ち合わせをしていたようなタイミングに驚いてしまう。
一時間目は担任の授業。ドアを開けた時の顔で財布の届け出が出たかどうかが分かる。
眠い目を擦りながら、担任が出現するであろう扉に目を向けた。
でもピントが合わない。視力が中途半端に悪いせいもあるが、それとはまた別の要素でも視界がぼやける。
眠い。目を擦る。
なんで昨日あんなに考え込んでしまったんだ。
ドアはまだ開かない。
眠い。あくびする。
考え込んだところで何の意味もないのに。
ドアが開く気配はない。
眠い。頭がぼーっとする。頭が垂れる。
早く来いよあのジジイ。
ドアは一向に開こうとしない。
眠い。目がいつも以上に乾いている。
殺すぞジジイ。
やはりなかなか開いてくれない。
眠い。もうすぐ落ちそうだ。
いつもは来るな来るな言われてるのにも関わらずさっさと来るくせに、なんで早く来いって時は全然来ないんだよ。
すると、ドアの擦りガラスに人影が映り、ついに開いた。
「授業始めるぞ」
テンションがいつにも増して低かった。
そうか。帰って来なかったんだな、財布。
クラス中がそんな空気になったのを肌が捕えた。
やっぱり、と思いながらも少しだけ悲しくなった。こんなことを思っている人はどれくらいいるのだろう。
――龍一は優しいからな。
木本の言葉が脳裏をよぎり、溜息が漏れる。
でも、ひとつ分かることがある。睡魔は勢いを止めることを知らないということだ。
更に担任のくだらなくも絶妙なテンポの話が子守唄のように眠気を誘う。
ペンを握る右手の握力がなくなり、ペンが机の上にストンと落ちた。
その音に一瞬ビクッとするが、それだけで退散してくれる睡魔ではない。
昨日の晩「睡魔よ、俺を襲ってくれ」と叫びそうになったことを思い出した。
そうか、睡魔はのろまなんだな。よし、今日からは晩御飯の「いただきます」の代わりに「睡魔よ、俺を襲ってくれ」と叫ぶことにしよう。
そんなくだらないことを考えている自分を客観的に見てみると、本当に頭が回ってないんだな、と虚しさが口からあふれてきた。「はぁ」
でも、まだ客観視できるだけの頭はあるらしい。
意識が少しずつ遠くなっていくのを感じる。でも本当に寝てしまったらあの担任に殴られる。「体罰が禁止されてるのは中学までだ。高校からは社会に順応するための準備として多少殴るくらいなら、俺はありだと思ってる。日本社会では埃みたいに暴力が転がってるからな。暴力と不倫は文化だよ」が口癖のあいつに殴られる。たいして強い殴り方ではないが、かなりムカつく殴り方ではある。どうしてあんなにムカつくかというのはこの学校の七不思議のひとつになっているくらいだ。
その時、思い出した。とんでもない性癖を持ってそうな女医がテレビで言ってたのを。
「あくびの原因は未だによく分かっていませんが、頭に酸素を送るためにあくびをするとう説が今のところ有力です」
そうだ。あくびしよう。全力であくびしよう。
そして俺は声を出さないように口を開け、息を吸い込む。そしてあくび状態になり、目が勝手に閉じる。一応口は手で覆っているのだが、
「斉藤! 堂々とあくびしてんじゃねえよ!」
担任はキレた。
あくびは途中では止められない。俺は口を開けたまま担任がガニ股でズシズシと近づいてくるのを半目で眺めるしかできなかった。
「そんなに俺の話がつまらないのか!」
あ、はい。
なんて言えるはずもなく、俺はあくびを終わらせ、口を閉じて黙った。
すると、
「痛てっ」
ゴンッ、と鳴るほどの拳骨を食らった。頭のつむじ辺りがじんじんひりひりと声を上げ、腰まで痺れ出す。
これまでも何度か殴られたことはあったが、間違いなくいつもの数倍の痛みだ。普段が蚊だとすれば、今回は象だろう。
どうしてこんなに痛いのか。それは至極簡単、財布の怒りが込められているからに違いない。
「これで目が覚めただろ。黙って授業に集中するんだな」
担任は黒板へと帰っていった。その後ろ姿は怒り狂った象のようにも見える。
っていうか、なんで俺は殴られたんだ?
徐々に目が覚めてきて我に返り、腹が立ってきた。
俺は眠らないためにあくびしたのに。そもそもあくびの何が悪いんだ。ただの生理現象じゃないか。呼吸もあくびも同じ土俵に立っているはずだろ。
それに、教師はムカついたからってキレていいのか。
役所の公務員はいくら勝手なクレーム言われてムカついても笑顔を忘れないことを心がけて接客しているというのに、ここの公務員はあくび程度でムカついて殴ってくる。
役所の公務員は客にキレたりなんかしたらクビになりかねないのに、ここの公務員はどうしてそうならないんだ。
それに、いつもは軽く殴るだけなのに、今日は明らかに強かった。そもそも普段は「ゴンッ」なんて音鳴ったりしない。せいぜい「コンッ」だ。財布を盗まれたなんて私情の腹いせで公務中に生徒を殴るなんてことが許されるのか。社会ってのはそんなに残酷なところなのか。それは子供だってグレるはずだよ。その上、「最近の若い者は駄目だ」なんて言ってるのか。
狂ってる。こんなのどう考えてもおかしい。
やり場のない怒りが、刻々と俺の心を締め付けていた。