六 犠牲
土曜の夜は、道路は社用よりプライベートの車が多く、流れは不規則である。渋滞の波を越えながら、茂はなんとか山添の大型二輪を視界から外すことなく、海にかかる巨大な橋を渡った人工の土地まで到達した。
山添はホテルに近い、公共の地上の駐車場へバイクを停め、駐車場から歩いて離れてホテルのほうへ向かった。茂は少し遅れて、自分のバイクを駐車場へと入れる。
エンジンを停めてバイクから降り、茂は後ろから声をかけられて驚愕して振り返った。
日焼けした童顔に微笑を浮かべて、山添が立っていた。
「こんばんは、河合さん。」
「・・・・山添さん・・・・」
「晶生ですね?」
「・・・は、はい。」
微笑に苦みが混じり、山添は少しうつむきため息をついた。
「河合さんは、ずいぶん尾行がうまくなったと思います。」
「・・・・・」
「でも、晶生は、考えていることが顔に出過ぎでした。」
「・・・・・」
「俺の家で、二時間説得されました。余計なことを考えるな、って。俺は取り合いませんでしたけど、でも、あいつの顔に書いてありました。絶対お前を、見張るから、って。」
「・・・・・」
茂は何も言えず、先輩警護員の顔を見た。
山添は、後輩の顔を、罪悪感と感謝の混じった表情で見つめ、少し近づいて右手を茂の左肩に置いた。
「ありがとうございます、河合さん。この後も、何をしようと貴方の自由ですけど、自分の安全は最優先に考えてくださいね。」
「・・・・山添さん・・・。高原さんと葛城さんは・・・・」
「言わなくていいです。わかってますよ。よく・・・わかってます。・・・それじゃ。」
くるりと背を向け、右手を上げて少し振り、そして山添は後ろの自分の大型二輪にまたがり、エンジンをかけた。
茂が何か言う暇もなく、山添を乗せたバイクは再び駐車場を出ていった。
茂は慌てて後を追おうとして、はっと気がついた。
オートバイのキーが、抜かれていた。
人工の土地に建つ瀟洒なホテルから、少し歩いたところにある歩道橋のたもとで、いつものように磯部は呼び出したタクシーを待った。
隣には高価な衣服と装飾品で身を包んだ、化粧の濃い女性が寄り添うように立っている。
「明後日は別荘で食事をしようね。もっとびっくりするプレゼントを用意してあるよ。」
「うれしい。磯部さん。」
深紅の口紅を引いた厚い唇を開き、媚びるような笑みで女性が答える。
土曜の夜とは思えない、人通りのない巨大な通りは、人工の土地の上に美しく造られた街がまだ若い歴史しかないことを物語っている。
それでも人目をはばかるように、左右に目をやった磯部の視界に、一台のタクシーが入ってきた。
二人の前で停まったタクシーの後部座席の扉が開いたが、二人が乗りこむ前に運転手が降りてきた。
「お荷物は、トランクにお入れになりますか?」
磯部が両手に持っている大量のブランド品の紙袋に目をやり、運転手が声をかける。
「ああ、頼むよ。」
運転手が紙袋を受け取ろうと近づいた次の瞬間、高い金属音とともに、運転手はその手袋をした右手を強く引き戻した。
磯部を突き飛ばすようにしてその前に割り込んだ山添が、ちょうど磯部の首の高さにかざしたスティールスティックに、細い銀色のチェーンがからみついていた。
「基本にもどって、絞殺か。」
「山添さん・・・・」
「ちょっと、自主的なアフターケアだ。」
逸希に銀のチェーンを離す時間を与えず、非常なスピードで鎖を引きバランスを崩させると、山添は左足で逸希の上腹部に強烈な一撃を加えた。
体を折った逸希の背後に回り、銀の鎖を逸希の首に巻きつけ、上に引くように締めながら引きずって数歩後退し、右手でタクシーの後部座席入口から手をまわして助手席扉のロックを解除する。
「磯部さん、早く人通りの多いところへお逃げなさい!」
「・・・は、はい・・・」
磯部と愛人が逃げていくのを見届けながら、山添は助手席のドアを開け後ろ向きに乗り込み、自分は運転席まで後退して逸希を助手席まで引きずりこんだ。
既に逸希は意識を失っていた。
逸希の首から鎖を外し、助手席に座らせその体をシートベルトで固定する。
そのまま全てのドアを閉じ、山添は車を静かに発車させた。
葛城は打ち合わせをしていたクライアントの自宅居間で、携帯電話のコール音に気づき、目の前のクライアントに詫びて応答した。
「はい、葛城・・・・。茂さん、どうしました?」
「すみません、一瞬足止めになって・・・・さっき追いつきましたが、高原さん葛城さんの予想どおりです、襲撃がありました。」
茂の声は息が上がり明らかに動揺している。
「状況を教えてください。茂さん、落ち着いて。」
「距離がありすぎて詳細がわかりませんでしたが、磯部さんは無事に逃げました。山添さんは刺客を・・・たぶん逸希さんだと思いますが・・・倒して、彼が乗ってきた車に一緒に乗りこんで、そのまま走り去りました。今、追っています。」
「一緒に?」
「逸希さんは、山添さんに反撃されて、意識を失ったようですが、山添さんは逸希さんをそのまま車へ引き込むようにして・・・。」
「すぐ行きます。追跡を続けてください。」
目の前のクライアントは、状況を理解し、ソファーから先に立ち上がった。
「葛城さん、打ち合わせは終わっていますから、どうぞ、そちらのほうへ行ってください。女房が、食事の用意をしていたんですが、それはまた今度ですね。」
「はい、すみません。」
クライアント宅を後にし、葛城は路上に停めてあった自分の私用の車に乗りエンジンをかけた。
人工の土地につくられた美しい街の、海沿いの公園沿いの通りまで走り、山添はタクシーを停車した。
夜が深まるとともに高くなる月が、穏やかな風に包まれた木々へ光を落としている。
隣の助手席にぐったりと体を預けている逸希の、シートベルトを外し、片手でその体を支えながらもう片方の手で助手席のシートを倒す。
逸希の体をほぼ水平に寝かしてやり、山添は逸希の呼吸を確認すると、再び運転席に前を向いて座った。
低い呻き声とともに逸希が意識を取り戻したのは、それから十五分ほど経った後のことだった。
逸希は体を起こそうとして、強いめまいと腹痛に再び横にならざるを得なかった。
「まだ起き上がらないほうがいい。」
「・・・・」
「首の血管を締めていた時間が長かったから、目が覚めてからもしばらく待ったほうがいいし、体のほうも少し強めに蹴ったから。手荒なことをしてごめんな。」
運転席の山添の横顔を睨み、逸希は抗議した。
「山添さん・・・どうして、僕に手心を加えるんですか。兄と僕は別の人間です。やらなければ、やられますよ。・・・あなたのクライアントを二度も殺そうとした人間と、こんな距離で無防備で一緒におられるというのは、信じがたいことに思えますが。」
「今は、勤務時間外だよ、俺は。山添崇という個人としてここにいるだけだ。」
「・・・・」
「そして隣にいるのは、俺の親友の弟さん。それだけだからね。」
悔しさを隠さず、逸希は天井を見る。
「僕が磯部の車を襲撃したとき、あなたは僕を排除できる状況だった。」
「ああ。」
「でもあなたはそれをしなかった。僕のミッションが、ターゲットあるいはボディガードを殺害することだと直感されたのに、僕を排除しなかった。」
「・・・そうかもしれない。」
「ご自分が盾になるかたちで、クライアントをガードした。」
「・・・・・」
「手を抜いたんですよ、あなたは。」
「お前も、そうだろう、逸希。」
「・・・・・」
「なぜ、俺に致命傷を負わせなかった?」
逸希はこちらを見ない山添の横顔を、再び睨みつける。
「僕は、それほど経験値は高くありません。あそこまで予想外の動きをする相手に、最適の対応などできなかった。それだけです」
初めて山添は逸希の顔を見下ろした。
「・・・念のためだけど、お前のところの会社・・・・何回失敗したら死をもって償う、とかいうルールはないよね?」
逸希は驚いて山添の顔を見た。
そして、しばらくして、答えた。
「ありません。そんなルールでは組織は立ちゆきませんから。失敗すれば、成功報酬がもらえなくなるだけです。」
「そうだよね。・・・前に、殺人専門らしいエージェントが、ルール違反をしたとき自殺しそうな感じだったことがあって。ちょっと心配になっただけだよ。」
「・・・アサーシンであれば、しくじったら逮捕される前に自殺することはよくあります。」
「・・・・」
「僕はまだアサーシン・・・殺人専門エージェントではありませんから。」
「そうなんだね。」
小さくため息をつき、逸希は山添に質問した。
「・・・・前のとき、すでに僕の素性をご存じだったんですか?」
「全然。うちは探偵社じゃないからね。ただ、お前を間近でみたとき、似てるなと思っただけだよ。」
「兄に、似てますか?僕は」
「和人より細面だし背も高いけど、全体に雰囲気がそっくりだ。特に目が。それから肌と髪の色も同じだ。そしてなにより・・・その身のこなしが。」
「母には、兄と似ていないところばかりむしろ聞かされました。自分で思ったこともありませんでした。」
山添は微笑んだ。
「・・・初対面の月ケ瀬がびっくりしたくらい、似てるんだよ。」
「・・・・」
「君は大森パトロール社の警護員と対峙するのは磯部さんの案件が初めてじゃない。前にホテルスタッフに化けて偉い作家の先生を襲撃したとき、うちの月ケ瀬警護員に妨害されただろう?」
「はい。」
「予定外かつ予想外のことだったようだけどね。そのとき月ケ瀬が、君の顔を見て朝比奈警護員に似てると思って、上司に報告していたんだ。だからどうということはないけど、そういう背景があったってこと。」
「・・・月ケ瀬さんは、尊敬しています。升川殺害の場面で、精神的にも物理的にもうちのエージェントが、助けられました。しかしまさかあれで、大森パトロール社のかたに僕のことがわかるとは思いませんでした。ずっと、接触を避けてきましたし、あのときはほんの一瞬でしたし・・・。」
「・・・君は、和人の葬儀に出なかったんだよね?それもそのため?」
「はい。兄は、兄の仕事の関係者と僕が接点を持つことを、一切ゆるしてくれていませんでしたから。」
「それをちゃんと守っていたのか。」
「母も事情を知っているとはいえさすがにあきれていました。僕が、霊安室で兄に対面しただけで帰ってしまったから。」
「俺たちが葬儀に出ていなかったら、君は出られたかもしれないんだね。」
「いえ・・・」
「ごめんね。」
「兄と過ごした時間の長さでは、山添さんたちのほうがはるかに長いです。・・・・山添さんたちのほうが、僕なんかよりはるかに”身内”です。」
「・・・・・今回、どうして、封印を解いた?」
「・・・・」
「和人の仕事の関係・・・大森パトロール社と直接接触するような仕事が、どうして解禁になった?」
「僕は、兄が亡くなって初めて阪元探偵社に入ることを許されましたが、確かに、朝比奈和人の弟という制約は、ずっとありました。公私ともに、といっていいです。しかし今、社長も会社も、過去のしがらみをだんだん切り捨てていこうとしています。リスクはあってもあえてタブーを冒しても前進するほうを優先する。前の、一回目の升川襲撃計画も、そういうことだったと思っています。」
「なるほど。」
「それだけメンバーを信頼していなければできないことです。」
「そうだね。なるほどね。・・・ただし、それとは別に、過去は過去として、縛られないとしても、捨てるというのはどうかな。」
「・・・・・・」
「和人のこと、忘れてしまうの?」
「・・・・・」
山添は前を見て、黙った。
逸希も沈黙したが、数秒後、いや、一分間近くも経った後、重そうに、口を開いた。
「・・・山添さん・・・・」
「なに?」
「・・・・兄のこと・・・・教えてください。」
山添は少しだけ微笑み、そして車を再び発車させた。
動く車の中で、山添は口火を切った。
「俺が高校に入ったとき、和人は三年だったんだよ。その頃は、もう、別々に暮らしていたんだね?」
「はい。物心ついてすぐに、でしたので、一緒に暮らした記憶はほとんどありません。」
「俺は和人と家が近くて、・・・同じ道場に通うようになって、ほとんど毎日一緒だった。歳の違いを気にしない、ざっくばらんな奴ですぐに仲良くなったんだ。正直、割と一見気難しくて、口数も少ないから、とっつきにくいと思う人間も多かったよ。でも俺は、割とそういうタイプの人間からも、警戒されにくいタイプみたいで・・・和人のほうから、確か最初、話かけてきたんだ。道場で。君、同じ高校だよね、って。」
「そうなんですね。」
「柔道から空手に転向して、道場に友達もいなかったから、嬉しかったよ。最初は無口だけど、打ち解けてくると、結構色々しゃべる奴なんだよね。長々と議論になったりもした。腕も立つけど弁も立つ奴だった。」
「兄は子供のころから空手をやっていましたが、武道だけじゃなく、頭も良くて。会う度に、兄にはかなわないなと思いました。」
「和人には自由に会えた?」
「はい。でも途中で母と海外へ行ったので、その後は一年に一回くらいでした。あとは手紙とメールです。」
「俺が和人を本当に好きになったのは、俺が高校三年のとき、父が暴行事件の巻き添えになって死んだときだった。和人は、なにも聞かずに、ただずっと傍にいてくれた。黙って。」
「・・・・・」
「大森パトロール社は警護員十人態勢で始まったけど、当時、経験があったのは和人ともう一人だけだった。そして、和人は当初からその実力はすごかった。静かに、風みたいに警護するって言われてた。」
「想像できます。・・・僕は、最初は、兄と同じボディガードに・・・警護員になろうと思っていました。」
「・・・・」
「でも、兄はいつも言っていました。ボディガードはお前には向いていない。ボディガードにできることは少ない。お前はいつか満足できなくなる、と。」
「・・・・」
「僕は、不思議でなりませんでした。淡々と仕事をしている兄が、ではなぜ、ずっとそんな仕事をしているのか。」
山添は、運転しながらちらりと逸希の様子をうかがった。
「お前がなぜ阪元探偵社を目指したのかは聞かないけど、・・・なぜ殺人専門のエージェントを目指した?」
「兄の敵討ちをしたいと思っていたのは事実です。しかしあえて、それを僕は担当させてはもらえなかった。それは正しい判断だったと思います。」
山添は車を停め、再びため息をつき、そして隣の逸希のほうを見た。
逸希は体を起こそうとしていた。山添がそれを助け、シートの背もたれをもとに戻してやる。
「大丈夫そうだな。」
「・・・・」
「運転、気をつけろよ。」
「・・・・」
山添が運転席のドアを開け、車から去った。
逸希は今までそこに山添がいたことが信じられない思いで、空の運転席をしばらく見つめた。
そして、助手席の扉を開け、両足を地面についたが、すぐに立ち上がろうとはせず、うつむいて地面に視線を落とす。
腰のホルダーから、銀の細いナイフを取り出し、顔が映るほどに磨き抜かれたそれを目の前にかざしてみる。
「山添さん・・・・僕がどうして殺人専門エージェントを・・・アサーシンを目指しているか。きっと、分からないでしょうね・・・・」
月の光を反射し、ナイフが青く光る。
「でも確かなことは、いつかこの手であなたを殺すことになっても、それは必要なことだと僕が納得しなければならないということ。もしもそれが必要になって、そして僕にそれができないときは、僕が阪元探偵社にいられなくなるってことだから・・・・。和人の弟なのに、僕を受け入れてくれた阪元探偵社に・・・。」
うつむき、逸希はしばらく目を閉じていた。
そして、目の前に、人の気配を感じて顔をあげた逸希の表情に、驚愕が広がった。
「・・・・・!」
「ちょっと、言い忘れたことがあって。」
にっこりして、山添は逸希の顔を見下ろした。
逸希はすぐにうつむいた。
「・・・・・」
「そんな顔、するなよ。いつかそのナイフで、俺を一撃で殺さないといけない日が、来るかもしれないのに。」
「・・・・・」
ようやくタクシーに追いついた茂は、数十メートルの距離を保って携帯電話に連絡を入れながら、目の前の光景に胸が凍るような思いでいた。
山添が、助手席から地面に足を出して座っている逸希の、光るナイフの前に体を曝したまま、跪いたからだった。
なぜか、茂の耳に、いつか山添が言っていた言葉が蘇った。・・・・「・・・そういえば河合さんは、三村さんが苦手みたいですね。・・・・色々と、あるんだろうとは思いますが・・・・でも、もしもなにか・・・たとえば意地を張ったりして正直になれない部分があるなら、話ができるうちに、ちゃんと言葉で伝えておくべきですよ。」
嫌な予感が、した。
「・・・・泣いているんじゃない?」
「そんなわけありません。」
山添は上体をかがめ、両手を伸ばし、逸希の両頬へ包むように触れる。
「俺は、和人が死んだとき、その日の夜一人で一分くらい泣いて、それで終わったと思ったんだ。その後何年も、そう思っていたんだ。でも、俺の友達が、そうじゃないって気づいてくれた。俺が、泣くことを忘れていたことに、気づいてくれたんだ。」
大粒の涙が逸希の目から零れ、山添の両手親指に拭われ、また零れては拭われた。
「逸希。和人を本当に愛していたんだよね。考え方が、ぜんぜん合わないのに。それと、人を愛することとは、関係のないことなんだと思う。関係はないけれど、つらくはあるね。」
逸希は肩を震わせた。
「あなたは、兄と同じです。遠くにいるのに、ぜったい近づけないのに、どんなに遠くからでも、僕を縛る。」
「でも、逸希、知っている?どんなに和人が、お前を愛していたか。お前を、絶対にボディガードにしたくなかったんだよ。遠ざけ続けたんだよ。お前に、生きていてほしかったからだよ。間違った愛し方だったかもしれないけれど、間違いなく愛していたんだよ。」
山添の両手が逸希の頭をそっと引き寄せ、逸希の額が山添の胸につく。
山添は、決意したように、言った。
「逸希。一度だけ、聞くよ。阪元探偵社を去る気はないか?」
「・・・・・」
「うちの上司に、許可は得た。お前にその気があるなら、大森パトロール社は、しばらくの試用期間をパスすればお前を雇用する。」
「・・・・・」
逸希は長い間黙っていた。
そして、小さな、しかしはっきりとした声で、答えた。
「それはできません。僕は、阪元探偵社の、エージェントです。今も、これからも。」
数秒の間を置いて、山添が答えた。
「・・・わかった。お前が、行きたい道をこれからも行けることを、祈っている。」
「もう二度と、手加減はしないでください。僕はまた、貴方のクライアントも、もとのクライアントも、狙います。いくら守っても、狙います。そして必要ならいつでもあなたを殺す。」
「人の胸で泣きながら言う言葉じゃないと思うし、当たり前すぎることをいちいち言わなくてもいい。俺はもちろんぜんぜん構わないしね。明日、地球が終わるかもしれないんだから。そして・・・クライアントを守るために必要なら、いつでもお前を殺すから。」
「あなたのほうこそ、当然すぎることをおっしゃらないでください。それに、人を抱きしめながら言う言葉でもないです。」
「そうだな。」
逸希の額を自分の胸からそっと離し、山添が逸希の真っ赤になった両目を見ながら、言葉を継ぐ。
「逸希、さっきの言葉に、嘘はないな?」
「・・・・」
「なら、甘えずに、本当に、お前の信じる道を行くんだ。わかったな?」
「・・・・・」
逸希の右手が、山添の両手につかまれた。
銀色の華奢な刃物は、二人の手に柄を握られたまま山添の上腹部へ深々と刺し込まれ、すぐに引き抜かれて大量の返り血をその持ち主とともに浴びた。
「山添さん!」
朝比奈和人に、山添は心で短く語りかけていた。
・・・・これで、いいよな?和人・・・・・。
驚愕する逸希に止める時間をまったく与えず、次に山添は両手で逸希の右手ごとつかんだナイフを自分の首元へと切りつけた。
二度目の血飛沫は逸希の唇と頬にかかった。
山添は両目を閉じて、ゆっくりと全身から脱力するように崩れ落ちた。
逸希が山添の体を抱きとめたのと、ナイフが地面に落ちたのとは、ほぼ同時だった。
自分の腕の中で急速に体温を失っていく山添の、状況へ対応する前に、逸希の耳にバイクが急旋回して停止する激しい音が飛び込んできた。
英一は日付が変わったばかりの時刻にも関わらず、明々と照明のついている大森パトロール社の事務所の入口に立ち、数回立て続けにインターフォンを押した。
しばらくして返答があり、入口が開いて高原が来客を迎え入れた。
その表情は、英一が一瞬言葉を失うに十分なものだった。
数秒後、なんとか英一は口を開いた。
「山添さんは・・・・」
「病院です。怜から到着の連絡がありました。今、波多野さんが向かっています。」
「あなたは・・・行かないんですか・・・?高原さん」
高原はかぶりを振った。
「俺には、その資格は・・・・ありません。」
高原の両目は既に英一の顔に焦点があっていなかった。
英一は高原の腕を引っ張るようにしてカウンターの内側まで回り、近くの事務机の椅子に高原を座らせた。
うつむく高原の顔を、両手で頬を包むようにして英一は自分のほうへ向かせた。
「高原さん。あなたは、同僚として普通にしてあげられることの、何倍ものことをした。考えられることは全て、いえそれどころかそれ以上のことを考え、会社のルール違反すれすれのことまでして、山添さんを守ろうとした。」
「・・・・・」
「高原さん、自分を・・・・」
「・・・・・」
「自分を・・・責めるな・・・・」
「・・・三村さん・・・・」
「責めるな!」
顔面蒼白のままの高原を、長い間英一は凄まじい形相で睨みつけた。
そして立ち上がり、給湯室から大きな布きれを持って戻ったかと思うと、いきなり高原の頭からそれを被せた。
水をたっぷり含んだフェイスタオルが、高原の髪から顔までをびしょびしょにした。
「本当は頭から洗面器かなにかで水をぶっかけたいところですが」
高原は髪と顔から滴を落としながら、呆然として英一の顔を見ている。
「しかしそれでは事務所の床が大変なことになりますから」
英一は言葉を続ける。
「・・・高原さん、あなたがだめになったら、大森パトロール社が、だめになるんですよ?念のために、申し上げておきますが。」
「・・・・・」
「あなたの大切な山添さんも、葛城さんも、河合も、・・・もちろん、月ヶ瀬さんも。」
「・・・・・」
「皆、あなたのことが、頼りなんです。」
「・・・・・・」
「あなたに足りないのは、彼らにしてやれる何か、じゃない。自分への異常な厳しさを、やめることですよ。」
「・・・・・・」
「まあ、言っても無駄だろうとは、思いますけどね。」
英一は自分も隣の事務机の椅子に座り、足を組んだ。
「三村さん・・・・」
「で、山添さんの容体は、どうなんですか」
「・・・・首の傷は逸れています。・・・腹部の傷から大量に出血しており、これから手術です・・・」
「命が助かる可能性は十分あるということですよね。」
「はい。」
「祈りましょう。今はそれしかないでしょう。」
「・・・・はい」
「それから」
英一は、事務室奥の宿直室を指差した。
「高原さん、今から仮眠をとってください。その間、私が電話番をしてますから。」
「え?」
「さっさと行って寝てください!」
「・・・・わかりました」
大人しく、高原は奥の和室へと去った。
日付が変わり数時間経った、まもなく深夜ではなく未明といえる時刻になりつつある事務所へ、帰還したエージェントは、明りのついている事務室へそっと足を踏み入れた。
「庄田さん・・・・只今戻りました。遅くなり、申し訳ありません。」
事務机に座り端末を見ていた庄田は、顔を上げて長身の部下がこちらへ歩いてくるのを見つめる。
「途中の連絡はもう少しこまめに入れてください。我々阪元探偵社のエージェントは、危険を冒すけれど、事故防止策は完全を目指すのもまた当然のことです。」
「申し訳ありません。」
逸希は上司の座る机の数メートル手前まで来て、立ち止まった。
庄田の、切れ長の涼しげな両目が、逸希のチャコールグレーの優しい穏やかな両目をまっすぐに見上げる。
「怪我は?」
「軽傷です。」
「念のためこの後協力病院へ行きなさい。後遺症などがあっては今後のチームの仕事に迷惑がかかります。」
「了解しました。」
しばらく、沈黙があった。
「・・・逸希」
「はい」
「大森パトロール社に、誘われたのではありませんか?」
「・・・・はい。」
「でも、断った。それで、次のことを、山添はした。そうですね?」
「はい。」
「今回のことは、チームとして対応します。あなたは、誰にも、なにも言わなくていい。」
「はい。」
「ただし、ひとつだけ、聞いておく。」
「・・・・・」
庄田は手元に目を落とした。
「あなたが実際に誰かを殺すまでは、大森パトロール社は、あなたのことを、待ちつづけるでしょう。あなたさえその気になれば、彼らはあなたを受け入れるでしょう。ただしそれは、あなたが人を、殺す日までのことです。」
「・・・・・」
「今なら、行先を変えることができます。」
「庄田さん」
「うちの方針はよく知っているはずです。離脱は、まったくの自由です。」
「庄田さん・・・・!」
逸希は一歩踏み出した。
黙って庄田は逸希の顔をもう一度見上げた。
「・・・僕は、貴方のもとで、働きたい。庄田さん・・・貴方の部下として。」
「・・・・」
「いえ、もしも僕を貴方のチームに置いてもらえなくなる日が来るとしても・・・・阪元探偵社のエージェントとして、働きたい。」
「そうですか。」
「兄を愛していました。尊敬していました。でも、考え方は、違う。それだけの、ことです。」
「わかりました。」
庄田は端末の電源を落とした。
「では、もう行ってよろしい。」
「あの、庄田さん」
「なんですか?」
「あの、本当に・・・すみませんでした・・・・」
庄田は少しだけうつむき、小さなため息をついた。
「部下が上司を労う必要はありません。」
「・・・はい」
「私の指示したことを、きちんと遂行することを、いつも考えてください。」
「はい。」
「・・・それから」
最後に庄田が、言った。
「・・・・今、エージェントからメールがありました。山添の手術は成功して、まもなく意識が戻る見通しとのことです。」
「・・・よかった・・・・・」
「紹介した病院には、うちのエージェントが医師として勤めていますから。情報は確実です。」
少し庄田は微笑んだように見えた。