五 確信
合計二十人は座れそうなソファーがガラステーブルを挟んで配置され、しかしそれも小さく見えるような広い居間へ、高原は月ヶ瀬に続いて入った。明りは窓際のシェードランプだけだ。
「外見もすごいが中もすごいな」
「無駄話をしている暇があったら、用件を言って。」
月ヶ瀬がソファーに座り、高原も向かい側に座った。
「波多野さんが、升川の件同様に、俺たちに話しておられないことがある。」
「具体的に説明してくれる?」
「今回の警護案件で、崇が襲撃犯に対して明らかに手心を加えた。しかも襲撃犯も、本当は警護員を殺害するはずだったとしか思えない場面で・・・・やはり手元を狂わせている。」
「・・・で?」
「波多野さんは、崇に直ちに数日の休暇を命じた。怪我のためじゃなく、この警護案件から即、外したんだ。波多野さんは一報を受けた時点で気づかれたんだ。襲撃犯が崇の知り合いだということだけじゃなく、それが誰なのかということに。」
「・・・・」
「そして俺にもそれを言ってくださらないということは、崇だけじゃなく他の警護員たちにも影響するような人物だということだ。」
「・・・・」
「月ヶ瀬、お前は前の事件のとき、阪元探偵社の人間たちと接触した。あいつらは、うちに対するスタンスを変えつつある。そういう中でのことだったと思う。」
「それで?」
「抽象的な質問で悪いが、何か心当たりがあるんじゃないか?今回の刺客が、どういう人物なのか。」
言い終わって高原は、そのまま月ヶ瀬の、切れ長の冷たい美しさの両目を見つめ続けた。
僅かに顔を傾け、月ヶ瀬はその目に不敵な色をよぎらせ、そして感心と侮蔑が不思議に混ざり合ったような表情で目の前の同僚の顔を見返した。
「・・・・ついさっき、インターネットにアップされていたよ。」
「え?」
「動画が。」
「・・・・」
月ヶ瀬は、テーブルの上の携帯端末の画面をオンにし、インターネットの動画投稿サイトを表示させた。
山添が負傷したあの襲撃の場面が、路傍の通行人のような位置から撮影された数秒間の映像になりアップロードされていた。
素人が手元の携帯電話で撮影したものといった感じで、画像の質もそして撮影技術も拙く見えたが、しかし襲撃犯の顔が映っていないのに対し、クライアントの顔や車のナンバーが鮮明に映っていた。
何度か再生し、高原が黙り込んでいるのを見て、月ヶ瀬は静かに楽しそうに笑った。
「どう考えても、襲撃犯の仲間の撮影だよ。見事なものだね。」
「ああ。」
「こんな短時間で、すでにかなりの回数再生されてるよ。明日、うちの会社に問い合わせがあるかもね。クライアントのプライバシーのことだから、答えないんだろうけどね。」
「そうだな。」
高原はじっと再び沈黙した。
月ヶ瀬は乾きかかった髪を片方の肩に寄せ、ソファーの背にもたれる。
「阪元探偵社のスタンスは、一貫してると思うよ。大森パトロール社が、たまらなく鬱陶しい。それだけ。」
「・・・・・」
「で、避けようとしたり、逆に正面突破しようとしたり。でも根本は同じ。鬱陶しいんだ。」
「なるほど。」
「振り子は振れる。今は、攻めの対応をしてるね。リクルート活動をしたり、価値観へ揺さぶりをかけてきたり、・・・そして、過去の因縁にけりをつけようとしたり。」
「・・・・俺もお前も知っている人間なのか・・・?」
「その動画を見て、なにか思わない?」
「・・・・・」
「その刺客。野生のカモシカみたいな、きれいな身のこなし。急旋回した車に、鳥か猫みたいに正確に飛び乗る、ちょっと人間離れした運動神経。」
「・・・・・」
「肌の色は暗め。目は、チャコールグレー。笑っちゃうほど優しそうな、穏やかな目だよ。髪は僕より濃いくらいの真っ黒。」
高原は両目を大きく見開いて、月ヶ瀬の顔を凝視していた。
「わかった?」
「・・・・朝比奈さん・・・・」
「弟がいるって、知ってた?」
「ああ。崇から話を聞いたことがある。」
「あの作家の襲撃現場で顔を見たとき、知らない人間なのにどこかで見た気がして、すごく気になったんだよね。」
月ヶ瀬は思い出し笑いをした。
「それで、波多野さんに報告したのか。」
「そうだよ。」
「波多野さんはそのことを・・・崇だけに言ったのか。」
「そうかもね。確認したかったんじゃない?本当に逸希くんなのか、ってね。」
「お前に聞いた特徴を崇に話して・・・か。お前の記憶力は異常だからな。」
「褒められてうれしいけど、そろそろ用件が済んだと思うんだけど?」
「ああ、そうだな。長居して悪かった。」
高原はソファーから立ち上がった。
月ヶ瀬は接客がやっと終わったという様子で、そのままソファーに横になった。
高原がドアを開け、出て行こうとしたとき、最後に月ヶ瀬が横になったままで言った。
「・・・あいつらは、逸希くんをもう山添には当ててこないと思うよ。だから大事なことは、一にも二にも・・・・このまま山添が大人しく今回のことを忘れることだね。」
「そうだな。」
高原は月ヶ瀬のほうを振り向いて、言った。
「ありがとう。月ヶ瀬。」
月ヶ瀬は目を閉じ、黙っていた。
社長室からうんざりした顔で出てきた上司を、酒井がにやにやしながら自席から見ていた。
近くまで来た吉田は、酒井を一瞥して少し不機嫌そうな顔で言った。
「お前の代わりに私が社長の愚痴のターゲットになった。」
「そのようですな。」
「庄田とのつきあいはお前のほうが長い。次からはちゃんとお前が社長の話を聞いてあげて。」
「まあ努力します。・・・・恭子さんがそこまで露骨に嫌な顔をしはるんも、珍しいですな。」
酒井はその精悍な顔に興味深そうな笑みを満たした。
吉田は鼈甲色のメガネの奥の静かな瞳に、困ったような微笑をよぎらせた。
夜の事務室には、「本体部門」の社員も含め、もう誰も残っていない。
「二時間くらい入ってはりましたな。もう皆帰ってしまいましたよ。」
「それはそうでしょう。私ももう帰る。」
「そのほうがええです。はよせんと、今度は社長に食事に誘われかねません。」
吉田は大きくため息をついた。
「三田は、ボディガードがいないタイミングでの襲撃でも、選考材料にしてもらえることになった。・・・というより、次の襲撃がボディガードがいないことがほぼ確実になった、という順番かしらね。」
「なるほど。」
「そのことが、社長は残念で仕方がない。」
「そうでしょうな。」
「三田が山添を、殺せると思ったのかしらね、本気で・・・・社長は。」
酒井は目を微かに細め、笑った。
「・・・どうでしょうね。」
「どう思う?」
吉田は酒井の隣の空いている席に座り、足を組む。
「俺には社長の考えてることなんかわかりませんが・・・・・しかし少なくとも、社長はドSですからね。お客様のご指示やから仕方がないとはいえ、不満でしょうな。」
「社長は庄田がお客様にそう仕向けたに違いないっておっしゃっていた。ターゲットがまたボディガードを雇う気になる前に、人目のないところでやってしまうほうが良いですよって。」
「俺もそう思います。」
「そう?」
「社長と違って、庄田さんは実利主義ですからね。仕事の成功が第一です。会社のポリシーとか拘りとかは、どうでもいいでしょう。あの人にとっては。」
「そうかもね。」
「三田逸希が名実ともに大森パトロール社の呪縛から自由になること。社長が目指してはるこういうことも大事ですが、仕事は仕事、ということでしょう。」
「つまりたとえ三回とも失敗しようと、社長は三田に・・・逸希に、何度でも試練を与えたかったということね。」
「はい。」
「いつもの通りスパルタ式なのは庄田かと思ったけど、今回は社長だったのか・・・。それでは担当チームのリーダーとしてはいいかげんにしてくれって感じになるか。」
「そうですな。」
吉田は立ち上がり、応接コーナーのソファーに座って背もたれに体を預けた。
酒井は自席で足を組み、頬杖をついて吉田を見つめる。
吉田が顔を上げ、天井を見ながら言った。
「三田逸希は、アサーシン候補だ。」
「はい。」
「今回の仕事は、その資質があるかどうか判断する、重要な案件のひとつだ。」
「はい。」
「庄田は、たとえ回り道になっても、つつがなく選考をパスさせてやりたいのかしらね。」
「・・・どうでしょうね。あの人がそんなに親切かどうか俺は知りませんけどね。・・・・」
月ヶ瀬の家から出て車へ戻り、高原は運転席に座りエンジンをかけた。
助手席から声がかかる。
「わかったみたいですね?」
高原は、隣に座って前を見たまま短く微笑した黒髪の美青年のほうを一瞥し、自分も微笑んだ
「はい。お待たせしてしまってすみません・・・三村さん。」
車が静かに夜の道路を滑り出す。
「・・・困った人物ですか?」
「升川が殺した警護員の、弟でした。」
「え・・・・・」
さすがに驚いた英一が高原のほうを見る。
高原は運転しながらため息をついた。
「朝比奈和人警護員には、弟がいます。名前は、逸希・・・朝比奈逸希。月ヶ瀬が例の作家への襲撃を妨害したとき遭遇した刺客も、そうだったようです。」
「山添さんは面識は?」
「あります。ずいぶん前だと思いますけどね。でも初めて見た月ヶ瀬も、あっと思って波多野さんへ報告したくらい、兄である和人さんによく似ている。動画も見ましたが、たしかに・・・。」
「動画?」
「恐らくはあいつらの仕業でしょうが、今回の襲撃の場面が撮影されてインターネットにアップされていました。依頼主の希望でしょう。ターゲットをさらすという。」
「なるほど。」
車は大通りをスピードを増して走っていく。左右の街灯と並木が背後へ飛び去っていく。
英一が口を開いた。
「月ヶ瀬さんは、なにか意見を言っておられましたか?」
「・・・大事なことは、崇が・・・山添が大人しく今回のことを忘れることだけだ、と。多分あいつらはもう逸希を山添と対峙させることはしないだろうから、と言っていました。」
「そうですか。」
高原は英一の声が暗いことに気がついた。その理由はわかった。
「三村さんは、どう思われますか?」
「月ヶ瀬さんと同じですよ。山添さんが自分のしたことに、何らの責任感も感じずに今回のことを忘れてしまってくださったら・・・・どんなによいかと、思いますよ。」
「・・・・はい。」
「でも、それは無理でしょうね。月ヶ瀬さんも、そう思われたんでしょう。」
「そうでしょうね。」
「だからこそ、わざわざそのことをあなたに言った。」
「はい。」
「何か対策を考えないと、非常に危険だ、ということですね。同感です。」
金曜夜らしい賑わいの夕暮れ時の街を、茂が大森パトロール社へ向かって歩いていると、携帯電話が鳴った。
発信者は葛城だった。
「はい、河合・・・・葛城さんですか?」
「茂さん、今日事務所には来られますか?」
「あ、ちょうど今向かっているところです。」
「よかったです。ちょっと相談があります。晶生と一緒に待ってます。」
「はい。」
事務所に着くと、葛城は茂の腕を引っ張って応接室へ連れて行った。事務室には誰もおらず、波多野部長も帰宅した後だった。
応接室で高原がソファーに座って背もたれに体を預けていた。
「河合、突然で済まないんだけど、ちょっと頼まれてくれないかな。」
「はい。」
茂がソファーに座ると、葛城が三つのグラスにピッチャーから麦茶を注いだ。
高原がテーブルの上の携帯端末に、スケジュール表を表示させた。
「明日の土曜の夜。スケジュールの記載が”スポーツジム”ってなっているだろう?」
「これ、もとクライアントの磯部さんの・・・我々が警護計画の提案に使った予定表ですね?」
「そうそう。ちょっと失敬した。」
「高原さん・・・・・」
「で、スポーツジムという記載は、私用があり誰も邪魔するなっていう意味なんだってさ。」
「た、高原さん・・・・」
葛城が苦笑して茂を見る。
「すみません茂さん、晶生が諜報活動を始めると私も止められません。」
「はあ・・・・」
「崇の、ことです。」
「山添さんの・・?」
美しい切れ長の両目を瞬き、伏し目がちに葛城は頷いた。
「今日まで休暇中ですけどね。結局磯部さんから追加の警護依頼はありませんでしたし・・・・」
「そして、たとえそれがあったとしても、波多野さんは崇には担当させなかっただろう。」
「怪我をしておられるから?」
「いや、そのせいじゃなく。」
「・・・・・」
「河合、お前は精神的にはもう一人前の、大人の警護員だから」
「は」
「波多野さんは茂さんには話すべきじゃないと思われたようですが、我々から、全部お話します。」
「・・・・」
高原と葛城は、山添と朝比奈逸希のことを手短に説明した。
茂は驚いていたが、しかし冷静に話を聞いていた。
「今日、もしかして高原さんは、山添さんのところに・・・?」
「ああ。昼間行ってきた。二時間ねばったんだけど、あいつの答えは聞けずじまいだった。・・・・・俺たちがお前に頼みたいこと、もうわかるよな?」
「スケジュール表から見ると・・・危険そうなのは土曜の夜のほかに、月曜の夜も、ですね。どちらも高原さんと葛城さんは、別の警護案件が入っておられるのですね?」
「はい。晶生は少し遠方です。私は土曜の夜は事前の面談がありますが、なるべく早めに終わらせて、後半は合流できると思います。」
「尾行は、事務所のオートバイを使っても大丈夫でしょうか。私用のやつのほうがいいでしょうか。」
「私用ので頼む。ガソリン代は後で補てんするよ。」
「そ、それは大丈夫ですが・・・。山添さんはいつも大型バイクで移動されるので、追いつけなくなったらすみません・・・。」
「まあそのときはそのときだ。それから、なにかあったときは、怜の携帯に連絡して、指示どおりにしてくれ。自分だけの判断で対処はするな。」
「はい。」
高原は立ち上がった。葛城も続いた。
「河合・・・・。恩に着るよ。」
「ほんとにすみません、茂さん。」
茂は慌てて自分も立ち上がる。
「いえ、俺がなにか役に立てるとしたら、嬉しいです。頑張って、見失わないようにします。」
「頼む。」
街の中心にある古い高層ビルにある事務所は、金曜夜の下界の賑わいとは無縁の静けさだった。「本体部門」の社員たちは大方が出張業務で出払っている。社員たちの緊張のもとである社長室の明りも今日は消えている。
酒井凌介は帰り支度を済ませて席を立ち、そして斜め後ろの別のチームの席がある一帯を振り向いた。
手元の端末へ目をやっていた庄田直紀が、酒井の視線に気づいて顔を上げた。
「さっきから全然集中できてはりませんな、庄田さん。」
「・・・・」
庄田は、吉田恭子のチームのエージェントの、精悍な顔に目をやる。
「俺はそろそろ帰りますけど、あと五分くらいならお待ちしますよ。事務所を無人にするときは、セキュリティ設定とか色々やっかいですからな。よそのチームのリーダーさんにそういうことはさせられません。」
「・・・お言葉に、甘えます。」
伏し目がちに笑い、庄田は端末を閉じて立ち上がった。
ビルを出ると、広い通りは高いケヤキの並木が、高低差のある街灯の光を上下から受け、不思議な絵のような姿で通行人を見下ろしている。
長身の酒井は隣の庄田を一瞬見下ろし、再び前方に視線を向けた。
「最近は車を使われないんですね?足は大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。なるべく歩くようにしています。」
「なるほど。」
二人は広々とした五つ辻の交差点に出た。
信号が青に変わる。しかし庄田は歩き出そうとしない。
酒井も隣で立ち止まった。
「私がどうして、あんなに性急に逸希を彼らに当たらせたか、不思議ですか?」
「ええ。」
庄田は前方の街並みへ目をやったまま、口だけで少し笑った。
通行人たちが二人を追い抜き横断歩道を通り抜けていく。
「社長の指示を、断りきれなかったからですよ。大森パトロール社のもと警護員の弟というだけの理由で・・・・、我々にとって最もやっかいな警備会社から、有望なエージェントをいつまでも避けておくのは人材の浪費。・・・・そう言う社長には論理的に反論できません。」
「そうですか?」
「なにが言いたいんです?酒井さん。」
「庄田さんはどんなことより、仕事の成功を優先する人です。たとえ社長命令であろうと、最初から仕事の失敗につながると思うことはしません。あの襲撃の失敗は、完全に予想外のことだったとしたら、庄田さんもずいぶん腕が落ちはったなと思いましたね。」
「・・・・」
「そうでないなら、考えられることはひとつです。庄田さんらしくもなく、それより大事なことがあった。しかもそれは、社長とは違う内容です。」
「それは?」
「失敗したら、直ちにお客様を説得して、大森パトロール社に二度と警護依頼がいかないように取り計らい、さっさと仕事を終わらせる。予定通りということです。」
「あははは」
信号が赤になり、庄田は少し顔を上げて楽しそうに笑った。
酒井は笑わず、冷たい流し目で隣の色白の男性を見下ろす。
「アサーシンに、したくないんですか?」
「え?」
「選考材料にしてもらえたとしても、ボディガードがいないターゲットを何人殺そうと、難易度によってはなかなか認定はされません。有能なボディガードのついている状態なら、場合によっては一回でパスです。まあ、急がば回れということもありましょうけれど、大森パトロール社以外のボディガードなら、成功したんじゃないんですか?」
「・・・・・」
「社長は、実態を知るチームリーダーの意見は最後は尊重します。貴方が断れば、今回の逸希のことはなかったはずです。」
「私は、この目で確認したかったんです。そうだと思います。」
「逸希が、今もどのくらい兄に縛られているのか、をですか?」
「そうです。」
「今までどおり、あの会社を避けて使うという方法もありますよ。」
「そうですけれどね。」
「まさかとは思いますが、庄田さん。あなたは・・・」
庄田は酒井の言葉を遮った。
「・・・・酒井さん、私は、朝比奈和人警護員と、対峙したことがあります。」
「・・・・・」
「そして、彼を、尊敬しています。多分、逸希がそうであるよりも、さらにもっと。」
「・・・・・」
酒井が言葉を詰まらせたのを気にする様子もなく、庄田は、青に変わった信号とともに流れ始めた人並みに、続いた。