二 襲撃
茂は終業ベルが鳴る前に、同じ係で斜め向かいに座っている入社同期の同僚のほうを見た。
「おい三村」
「・・・・」
「高原さんに聞いただろ」
「・・・・聞いた。」
三村英一は漆黒の端正な両目を茂の琥珀色の目と合せようとしない。
「もう全部聞いたから、俺を避ける必要はないよ」
「・・・・そうだな。」
「今日はうちの事務所に行くのか?」
「稽古があるから。」
英一は日本舞踊三村流宗家の御曹司であり、茂と同様、平日昼間勤めている会社が終わると、夜や週末に「副業」をしている。
しかし茂が土日夜間限定で警護員をしている大森パトロール社の、高原や葛城と仲がよく、しばしばそちらにも出没する。
「ふーん」
「なんだ河合。最近は素直に嬉しそうにしないんだな。」
「お前がいないと、俺は嬉しいけど高原さんが嬉しそうじゃないからね。」
「先輩思いなんだな。」
「そりゃそうさ。」
「高原さんはほんとにすごい人だからな。あんなに完璧な人は、俺も見たことがない。」
「そうだよ。頭もいいし、腕もいいし。」
「ああ。」
茂は終業ベルが鳴るのを聞き、鞄を取り出す。
「三村、お前も完璧な人間だって言われてるけどさ、お前には高原さんと違って決定的な欠点があるからね。」
「なんだ」
「性格が悪い。」
「・・・・・」
英一も帰り支度をした。茂は席を立つ。
「それじゃあ」
「・・・やっぱり今日は少しだが大森パトロール社に立ち寄ろうかな。」
「なんでさ」
「性格が悪い人間としては、お前の嫌がることをしないとな。」
「・・・・・」
「今日は高原さんはいらっしゃるか?」
「うん。山添さんも、葛城さんもいるはずだよ。俺の次の仕事の話もあるし。」
「葛城さんと?」
茂は首をふった。
「山添さんとペアなんだって。葛城さんの次の案件は平日昼間が必須だから俺は無理なんだ。山添さんのほうの案件が、ちょうど土曜日だけの単発案件だから、俺がサブ警護員として入ることになった。」
「ふうん。」
英一が何かもの思いげに視線を上げた。
「何?」
「いや、葛城さんも山添さんも、普通にちゃんと仕事をしておられて、よかったよ。」
「高原さんも元気だよ。」
「そうか。」
英一はカバンを持って立ち上がった。
「一緒に行くか?三村」
「え?」
茂の顔を見て、英一が意外そうに微笑した。
「今日はやっぱり稽古のほうへ早めに行くよ。高原さんたちによろしく。」
「なんでさ」
「お前があまり嫌がらないと、つまらないからさ。」
「・・・・もう!」
依頼人の家を後にして、三田逸希は運転席で隣の席の上司が言葉を出すのを待ちながら車を走らせていた。
助手席で前を見たまま、しかし庄田はなかなか口を開かない。日がすっかり暮れ、星がひとつまたひとつと見え始めている。
逸希は身長百八十センチくらいの長身だが、全体にすんなりとしたやせ形の体型のせいで、あまり大きく見えない。が、実際はやはり長い手足を、やや持て余すようにシートをかなり後ろに下げている。
そのため、隣の庄田の表情は、信号待ちの時に伺おうとしてもなおのことよく分からない。
ようやく、庄田がその涼しげな切れ長の目を、逸希のほうへ向けた。
その肌は透き通るように白く、逸希の浅黒い肌と対照的だ。そして二人とも髪は短くしているが、逸希の髪が紫色がよぎるような深い黒色であるのに対して、庄田の髪はやや栗色がかっている。
「・・・逸希。何か私に、質問がありますか?」
「依頼人は・・・お客様は、式典後、ホテルを出てすぐに決行してくださいとのことでした。」
「そうですね。」
「ターゲット以外への影響についても、お客様のご指定どおりで、よいのでしょうか?」
「それ以外になにかありますか?」
「いえ・・・・。」
「警護員が、山添崇だから、なにか問題があるのですか?」
「・・・そんなことはありません。すみません。」
庄田は正面へ視線を戻した。
車は高速へ乗った。
「確かに、珍しいことではあります。我々の通常のポリシーは、周囲への影響を最小限にすることです。しかし今回はお客様が、殺害の場面と方法について明快な希望をおっしゃった。そして我々は承諾した。」
「はい。」
「邪魔する者は、殺す。ターゲットを殺害しそんじても、妨害する者を殺すだけでもよい。そういうご指定です。そして、契約上、チャンスは三回。」
「はい。」
「少しでも、犠牲者を減らしたいのなら・・・初回で、成功することです。」
「・・・・はい。」
波多野部長は二人の部下に、再度念押しをした。
「クライアントは過去複数回の襲撃未遂を受けているが、いずれも、違う犯人だと思われる。」
「はい。」
「複数の人間の恨みを買っておられる。内容は、資料のとおりだが・・・・」
「・・・・・」
「・・・警護の参考として、目を通すだけだ。それ以上のことは、考えるな。」
「わかっています。」
波多野が仕事の前にこういうことを言うのは、珍しいことだった。
応接室のテーブルの上に、ファイルを開いた携帯端末と、いくつかの紙の資料が並べられている。
山添崇警護員と茂が並んでソファーに座り、向かいの席で波多野営業部長は坊主頭に近い短髪にまったく似合わないメタルフレームのメガネの縁を上げ、ため息をついた。
山添は、その日焼けした童顔によく似合う黒目勝ちの目で、上司の顔を見て、微笑んだ。
「波多野さん、大森パトロール社の社是を、俺も河合さんも忘れていません。そうですよね?河合さん。」
茂は頷いた。
「どんなクライアントも、違法な攻撃から、合法的に守る。それだけです。・・・警察にゆだねたほうがよい場合を、除いて。」
「そうだな。」
「このクライアントの会社経営者が、ほかの会社をどんなに悪辣な方法で陥れてきたとしても、何人そのせいで自殺したとしても。」
「茂。」
「・・・すみません。」
山添が、小さくため息をついた。
「しかし、少なくとも四件の自殺事件の中でも、やりきれないのは・・・・・」
「そうだな・・・・」
「クライアントの車の前に飛び出して死んだという、数か月前の事件ですね。」
「倒産した会社の経営者だそうだな。」
波多野が天を仰ぎ、そして視線を落とした。茂も黙って、うつむいた。
山添が顔を上げた。
「日曜日の式典は、脅迫状が複数届いていますが、恐らく、そのうち、プロへ依頼しているものもあるでしょうね。」
「ああ。何度かしくじると、その傾向が強まる。そして我々にとって避けたい事態は、あの探偵社がからんでくることだな。」
「そうですね。」
波多野が帰った後、茂と山添は応接室で詳細の打ち合わせをした。
ひとしきり話が終わった後、山添が茂のほうを改めて見た。
「河合さん。升川の件は、ずっと黙っていて、すみませんでした。」
「あ、いえ・・・・・。」
「河合さんがショックを受けることも心配でしたし、そして同時に多分俺たちは、自分たちの心の整理をつけることで精一杯で、それ以上のことを考えられなかっただけなのかも知れないです。」
「はい。」
「恥ずかしいことだったと、思っています。」
茂はその琥珀色の目で、困ったように先輩警護員を見た。
「山添さん・・・・。俺のことは心配しないでください、というか、俺のことは考えないでください。こういう状況でも、また新しい警護案件で、また、とんでもないクライアントを担当している山添さんって、ほんとにすごいと思ってます。尊敬してます。朝比奈和人警護員と、一番仲が良かった山添さんが、升川厚の件は一番ショックなはずですから・・・・。」
山添は一瞬目をまるくし、そして楽しそうに笑った。
「河合さん、ありがとうございます。・・・どんなクライアントも守る、それだけのことですが、毎回、かなり気合が必要でもありますね。特に今回・・・・。波多野さんがああいうことをおっしゃるのも珍しいし、やはり心配されたんでしょうね。」
「はい。」
翌日の土曜日、茂は山添とともにちょうど一週間後の式典会場の下見を兼ねて、クライアントとの面談に臨んだ。
クライアントが経営する会社が関わったビル建築の竣工式典だが、インターネット上でその不正な経緯を指摘したり報復を宣告したりされているせいか、欠席者や代理出席が目立つとのことだった。
しかしそれでも政財界やマスコミからの参加で当日は百名以上の来賓が見込まれる。ホテルの宴会場を中心に一通り下見を済ませ、二人が約束の時刻にクライアントの自宅へ到着すると、応接室に通され、そしてその後一時間以上待たされた。
ようやく表れたクライアントの磯部明彦氏は、七十歳を過ぎているとは思えない艶のある顔色の良い若々しい人物だった。
「ああ、お待たせしてすみませんね、ボディガードさんたち。何しろ陳情が多くて・・・。」
「は・・・・」
「業界の交通整理が主な仕事になりますからね、私くらいの老人になると」
「はい。」
「そして国会議員から町村議会議員まで、恫喝し使いまくる。」
「・・・・」
「はははは、冗談ですよ、半分はね。」
その後のわずかな面談時間のうちほとんどを、磯部氏の、警護とは関係のない話で費やされ、二人はようやく最後の数分間で当日の段取りを最終確認した。
最後に山添が、磯部氏のぎょろりと大きな窪んだ眼を見ながら言った。
「磯部さん、メールや手紙で脅迫がされていますが、お心当たりはいくつかおありなんですよね。」
「まあ、あるといえばありますね。でも、そういうことは、前にも言いましたがどうでもいいことです。大企業でもない我々のような会社が生き残っていくには、きれいなことばかりでは成り立ちません。生き残って、生き残って、そして、生き残ってきたわけです。今では、黙っていても業界の面々がなにかというと集まってくるし、私を頼りにしますよ。私の許しなしにはこの地域では建築の受注ひとつできません。しかし私は、頼ってくる者はちゃんと面倒みますよ。逆らう者は許しませんけどね。だから、恨みを持つ者もいくらでもいるでしょう。それを排除してくれるのが、あなたたちプロの用心棒ですわな。」
そして磯部氏はすぐにまた話題を個人の趣味のことに変え、やがて携帯電話に何度目かの電話がかかり、詫びながらさっさと応接室を出て行った。
親族が経営するビルの隣にあるクライアントの自宅を後にし、茂は助手席の山添に話しかけることがなんとなくためらわれ、黙ってハンドルを握る。
既に太陽は西へ傾き始めているが、いつもかけているサングラスを出そうともせず、山添は窓の外に目をやっていた。
「このまままっすぐ事務所へ戻っていいでしょうか?」
茂は長い沈黙に耐えかねて、あまり意味のないことを言った。
山添が少し笑って、茂のほうを見た。
「はい、下見内容のまとめをしましょう。河合さん、クライアントのことをどう思われましたか?」
「・・・・なんだか、今までもあんな感じのクライアントはいらっしゃいましたが、ひと際筋金入りというか・・・・」
「ああいった生き方の、ひとつの完成形という感じがしますね。我々みたいな若造には分からない、長い時間の積み重ねなんだと思いますが・・・。でも、あの人も、若いころは全然違う人間だったんじゃないかなと思います。」
「はい。」
「志を持って、正義感に燃えて、壁にぶつかって、もがいていたんじゃないかと思います。でも、その先が、ああいった姿なんだとすると、見ていて複雑ではありますね。」
「はい。周りの人は、ああいう人を、やっぱり頼りにして集まってくるものなんでしょうか。」
「どうなんでしょう。まあ、そうなんでしょうね。でもああいう人の、力を恐れて、群がり媚を売る人間たちの表面的な態度に全然気がついていないのだとすると、哀しいものも感じますね。」
「そうですね・・・。」
「人が死んだ。そういうことへの、感覚さえ、麻痺してしまうくらい、何かが欠落してしまったとしたら。」
「そうですね。」
山添はふっとため息をついた。
「・・・・すみません、でもこういうことは、我々が考える必要のないこと、でした。」
茂もため息をついた。
街の中心にある古い高層ビルの事務室のカンファレンスルームは、普段の姿に戻り、会議室としてではなくチームリーダーの待機の場として使われていた。
日が落ち、人のいない暗い事務室内に、カンファレンスルームからの光だけがぼんやりと漏れ出ている。
テーブルの上のスピーカーから、やがて低い音声が入った。
「式典は予定通り進行しています。ターゲットには引き続き山添警護員がつき、数メートル離れて会場係に紛れて河合警護員が監視を続けています。」
庄田はマイクを取り上げ、ゆっくり応答する。
「河合はもうすぐ出ていくでしょう。復路もオートバイでの並走のはずですからね。彼がいる間に、第一の襲撃は可能ですか?」
「決行します。」
「一週間前に彼らは下見に来ている。期待通りの場所で、期待に応えてあげてください。」
「はい。」
客たちが飲食も会話も佳境に入り、式典は終盤となった広い宴会場で、三田逸希はサングラスをかけたまま、まっすぐ磯部明彦へ近づき、会釈し名刺を差し出した。
「○○新聞の者です。いい感じにお酒が入って、そろそろ社長の本音をお聞きできるんじゃないかなって。」
磯部氏は笑った。
「運の良い記者さんですな。そろそろ式典はお開きなんで、関係者に一通りご挨拶もしましたし、今にも帰ろうとしていたところですよ。」
「それは危なかった」
「はははは。強運に免じてなんでもお話しますよ。」
「ありがたい。あ、社長、あそこにいるご老人ですが・・・・」
「ん?」
逸希は会場出口付近にいる、こちらに背を向け数人と会話している男性を指差した。
「××建設の前の社長さんですよね、先般引退された・・・。」
「そうかな?」
会場では、主催者が閉会の挨拶を終えようとしていた。
「もう少し傍へ行ってみましょう」
磯部の腕に手を伸ばしかけて、逸希は山添に阻まれた。
「すまんな、用心棒なんだ。」
「いえ、大事なことです。」
「・・・・」
先に立って歩きながら、逸希は微笑し、振り向いた。
「××建設さん以外にも、貴方を殺したい人は何人もいますから。」
山添が磯部と逸希の間に飛び込むように割り込んだ。
檀上で閉会の挨拶が終わり、会場から拍手が沸き起こった。
茂はあっと声を上げそうになった。会場に入る人間は例外なく荷物検査を受けており、刃物や凶器の類は所持することはできないはずだった。
しかし、サングラスをかけた新聞記者が右手から投げるようにクライアントへ向けたものは、美しい銀色に輝くものだった。
茂のインカムに山添の声が入った。
「河合さん、サングラスの男が会場から出たら確保を。俺は第二の襲撃者を排除します。」
「はい!」
逸希は銀色のチェーンが磯部の首に巻きつく前に山添のスティールスティックに弾かれると同時に、踵を返して客たちに紛れ、会場から姿を消した。
山添は振り向きざま、クライアントの背後から迫っていたもう一人の刺客の、腕を直接つかんでクライアントから引き離していた。
第二の襲撃者が振りぬいたペン型のナイフが、避けた山添の首元数ミリ手前をかすめた。
山添がクライアントを背後にしたまま態勢を整えたとき、第二の襲撃者は従業員用出入口へ向かい走り去っていた。
山添は追わず、クライアントに自分から離れないよう指示しながらインカムに向かって話した。
「大丈夫ですか?河合さん」
茂の声が返ってきた。
「すみません、見失いました。」
「そのままオートバイで車寄せで待機してください。クライアントの車を呼びました。」
「はい。」
磯部は不満そうだった。
「山添さん、ボディガードっていうのは、暴漢をやっつけてくれるもんだと思っていたが。」
「・・・・・」
「地味なもんなんだねえ、実際は。」
「そうですね。」
クライアントを促し、山添はホテルのロビーから車寄せへと向かった。
電話で呼んだ磯部の黒塗りの社用車の、後部座席に磯部と山添が乗りこむと、少し後ろからオートバイに乗った茂が追走し、出発した。
街の中心の高層ビルの、阪元探偵社の事務室は無人だったが、カンファレンスルーム以外に、明りがついている部屋がもうひとつだけあった。
社長室というより個人の書斎という風情の簡素な室内で、阪元航平は何杯目かのコーヒーを飲んでしまうと、部屋から出たくてたまらないといった感じの目の前の女性エージェントのほうを見て笑った。
「恭子さん。庄田のチームのことが気になるんだね」
「社長もでしょう。」
「まあね。でも私はさすがにやっぱり、野次馬はしてはいけないし。恭子さん、行ってきてよ、カンファレンスルーム。」
「どのみち、社長には詳細な報告がありましょうに。」
「意地悪言わないで、恭子さん。」
「はい。」
庄田は、部屋の扉をノックした同僚を振り返り、微笑した。
「社長から差し入れ。まあ、つまり逸希のことが気になるということ。」
「ありがとうございます、吉田さん。」
「邪魔ではないかしら?」
「大丈夫ですよ、お入りください。」
吉田はコーヒーポットとコーヒーカップをカンファレンスルームのテーブルへ置いた。
「今、第一・第二の襲撃が終わりましたよ。」
「そう。」
コーヒーを注がれたカップを手にし、庄田は一口飲んだ。
「あと二分。」
「・・・・珍しく、派手なことをすると聞いたけど。」
「そうですよ。」
「うちの深山が参加したときの、貴方のチームの典型的な大人しいやり方とはえらい違いね。」
「ああ、子供を使った、あれですか。」
「うちのチームのメンバーも感心していた。」
切れ長の涼しい目元を伏せ、庄田はおかしそうに笑う。
「光栄です。・・・・しかしお客様のご要望であれば、いつもと違うことも、やります。」
スピーカーからエージェントの声が入った。
「決行します。」
ホテルの車寄せを出て、わずか数百メートル走った路上で、磯部氏の社用車の運転手は急ブレーキをかけた。
目の前、数十メートル先に、サングラスをかけた長身の男が立ちふさがっていた。
後部座席の山添が叫ぶ。
「運転手さん、車を止めないで!Uターンして走行を続けてください!」
黒塗りの車が激しいブレーキ音を響かせ、男に激突する直前にハンドルを切ったとき、サングラスの男がボンネット上へ身を躍らせそのまま車の天井を経由し、磯部の乗っている右側の後部車窓を小型ハンマーで粉々に砕いた。
茂のインカムに山添の叫び声が入った。
「車の左側についてください!誰も近づけないで!」
茂がバイクを加速し、黒塗りの車の助手席側についたと同時に、右側後部の扉が内側から大きく開いた。
右の後部座席・・・運転手の後ろに座っていた磯部に、逆に左側へ頭を向けシートに伏せる態勢をとらせ、入れ違いに山添が後部座席右側へ移り右のドアを蹴破るように開いていた。
茂は山添の指示通りに車の左側を警戒したため、その後後部座席で起こった詳細は見ることができなかったが、開いた扉に一瞬弾き落とされそうになった刺客が、態勢を立て直し車の天井に置いた両手で体を支えながら、右足を後部座席の内部へ突き入れるようにしたのがかろうじて分かった。
車はそのままさらにスピードを緩めずUターンした。
対向車との衝突をなんとかのがれ、車が再びまっすぐに走り出したのは、襲撃者が立ちふさがってからわずか数秒後のことだったが、まるで何分間にもわたる出来事のようだった。
襲撃者は、跡形もなくその姿をくらましていた。
扉が閉まった後部座席で、クライアントが、伏せた態勢から座る姿勢に戻ったのが見えた。
そして茂は息を飲んだ。
右後部座席にいる山添の左わき腹から、鮮血が滴っていた。