この手に明日を掴むまで-01(94)
「皓?!」
ぼんやりと昔を思い出していた為に、どうやら一切の動きが止まっていたらしい。
掛けられた恭の声に、皓は緩々(ゆるゆる)と反応を返すと、霞みがかった頭を大きく振った。
「……大丈夫だ」
低く掠れた声音と共に、皓の前に一気に現実が帰ってくる。
いつもそうだ。
あの日の事を詳細に思い返そうとしても、所々記憶が不鮮明で、間近で見た筈の遙の顔すら、鮮明に思い浮かばない。
『遙の存在をもっと早くに思い出していれば、俺はもうとっくに地上には居なかっただろう』
何年も無駄に過ごした時間が長すぎて、腹の中の苛立ちがいつも収まらない。
世間体ばかりを気にし、近隣との付き合いが無かった両親の所為で、遙の詳細すら、皓は最近まで知り得なかった。
旅立つ何日か前、漸く揃った全ての符号。
――この世界は、月光の如き銀髪を持つ『來』と、豊穣の大地を思わす碧の瞳を持つ『遙』この二神によって統治されている。
彼等は異なる世界から飛来した神で、この惑星の人間では持ち得ない、特殊な『力』を揮い、自然すら自在に操る術を得ていると言う。
人々をより善き方向へと導く役割を担う二神は、時として人間の手を必要とする場面が有り、各地で積極的に強い人間を募り、己が屋敷に受け入れていると聞いた。
だが二神が求める資格は非常に厳しく、全ての条件を満たし、屋敷へと移住出来る人間は、年間を通しても、極僅かな人数のみ――
『移住の為の、何かもっと確実な方法はないのか?』
伝承を紐解き、見聞を繰り返しながら、必死で探した結果、辿り着いた手懸りが一つ。
叩きのめした相手から必ず漏れる一言と、疎い両親でさえ、唯一知っていた言葉。
「あの子が、皓が卵だったら――」
そう『卵』とは、神と人間との間に誕生した、祝福されるべき、奇跡の子供。
卵と呼ばれる存在でさえ有れば、無条件で、二神の屋敷へ住める資格が与えられるのだ。
「どこかに痣は?」
卵か否かを見極める方法は、極めて簡単だったから、希望から失望への転落は早かった。
「何故だ!」
全身を隠す事なく外気に曝け出し、隅々まで確認したところで、卵の証となるべく印は、何処にも刻まれてはいなかった。
『俺を持て余している両親が、今迄に俺の身体を調べていない筈がねぇ……か』
冷静に考えればすぐに気付いた筈だ。 今更ながらに、己の浅はかな考えが口惜しく、皓は奥歯を食い縛る。
「俺は卵ではない、と言う事か……では」
迎えを待っていても卵では無い以上、救いの手が差し伸べられる事は永遠に無い。
訪れる希望が無いのなら。
閉ざされた道を自分で切り開くしか、残された者に掴める未来はない。
沢山の知り得た情報を基に、皓はあの日、迷う事なく旅立ちを決意した。
神に選ばれず、救いの掌から零れ落ちた存在は、生きる意味を求めて、自ら彼等の屋敷へと向かう。
自分を哀れむ事の無い為に。 この世界に生まれて来た事にすら、後悔しない為に。 そして何より、これから先の人生を生きぬく為に。
「俺は必ず遙を探し出す」
――けれどそう胸に刻んで、もう何年が過ぎたのだろう――
後一歩の所までようやく辿り着けたのに、立ち塞がる現実は紛れもなく厳しくて。
「くそっ!」
悔し紛れに地面を拳で打ちつけると皓は、麓へと引き返すべく、恭に呼びかける。
「引き返すぞ」と半ば投げ遣りに告げた皓の言葉に、恭の間延びした声が重なった。
「けど人が居たって事は、案外目的地は近いのかも知れないよー」
麓へと反転しかけていた身体の動きを、思わず止めて、皓は恭にゆっくりと尋ねる。
「いま、何って言った?」
「えっ? だから、人が居るって事は案外――」
……賭け、かも知れない。それもかなり危険な。
手持ちの食糧は大目に見ても後一週間程度の残量しかない。麓へ戻る距離を考慮すれば、引き返すのは現時点が妥当だろう。
だがもし、麓へ向かう距離よりも、屋敷へ向かう距離の方が短ければ――?
「恭、お前はここで引き返せ」
「えっ!」
確証が無いのだ。 もし訪れたこの先に何もなく、下山を余儀なく強制された場合、食糧は確実に麓までは持たない。
「いまなら、まだ麓へ戻れる距離だ」
果たしてあれだけの距離を、「難なく戻れる」とは流石の皓でも言い難いのは事実だが、この先を二人で当てなく彷徨うよりは、随分ましな選択だろう。
「……皓は?」
「何故、そこで俺に聞く?」
「いやー、ねぇ?」
真剣なのか、それとも。
不明瞭な恭の質問には答えず、皓は黙って肩を竦めると、霧で霞む山の頂上を、再び強く視界に捉え、見据えた。
腹の底から吐き出した、己の息吹の熱さに負けぬよう、皓はどこか怯える心を叱咤する。
拳を、震えるくらいに強く。 力の限り噛み締めた奥歯から、不屈の精神を。
『俺はここで諦める訳には、いかねぇ』