仄暗い、闇の中で-03(86)
前方を見据えさらりと呟く彼の態度は、黒禽など相手にもならないと、宣言したかのように、皓には聞き取れた。
一方黒禽は相手が武器を持たない脆弱な獲物だと認識したのだろうか、歓喜の雄叫びを上げると再び天高く上昇する。
その耳を劈くような不快な響にも眉一つ顰める事もなく、彼は微かに薄く笑う。
「そう。お前も相手に取って不足はないか」
『……こいつ黒禽の言葉が理解出来るのか?』
自らの勝利を確信しているのか、黒禽は巨大な体躯を誇示するように翼を限界まで広げ、旋回を繰り返す。
「降りておいで。私を喰らいたいのなら」
知能が高い黒禽に、果たして人の言葉が理解出来るのかどうか、誰にも解らない。
けれど皓には、黒禽が彼の『呼び掛け』に対し、反応したように見えた。
事実言葉通り旋回を止めた黒禽がゆっくりと下降し、地上擦れ擦れの位置で、彼と真っ向から睨み合う。
『あいつ正気か? あんな細身の杖では、黒禽に掠り傷一つ付けられやしない』
黒禽の体躯は全身隙間なく硬い羽毛に被われており、通常の武器を用いても中々、傷を付ける事が出来ない。
皓のように魔物の骨から加工した武器を使うか、魔物退治専用の武器を使用しない限り、黒禽に真っ向から挑めば用いた獲物そのものが破損してしまう。
専用の武器を持たずに黒禽を斃す場合、一般的に用いられる方法は、事前に毒を含ませた武器を準備し、唯一の弱点である眼を潰すか、躯ほど硬くない一本足を切り裂くかの二択しかない。
だが彼が手にしている細身の杖では、攻撃自体がその意味を成さない事は明白だった。
「逃げろ!」
訪れるであろう最悪の結果に、皓は全身で叫ぶ。
――眼の前で消えた少年。戻ってこなかった青年。 たった一日の出来事なのに、俺は一体どれだけのものを失った?!――
「俺はこれ以上、誰かを失うのは、沢山だ!」
――例えそれが見ず知らずの人間で有ったとしても、俺はもう誰一人、失いたくはない!――
「逃げろ、頼むから……」
懇願の響きを込めた皓の叫びは、しかし烈風に阻まれ、彼の耳まで届かない。
「ほぉ……珍しいな、あの人間。縛糸に捉えられても、声を出せるとは」
咽びながら叫ぶ少年の様子を、さり気に横目で見遣りながら、どこか楽しげに遙は薄く笑う。
「ふふっ。この私に逃げろと来たか……。まさか私を与かり知らぬ人間が、未だにこの世界に存在していたとは、な」
この世を治める二神のうちの一人。
その容貌すら知らない少年がいたことは、遙に取っては結構、新鮮な驚きだったのだが。
何よりも遙は、少年の叫んだ言葉の内容に、興味を惹かれた。
年端もいかぬ子供が、年長者である大人に向かって、よもや逃げろと叫ぶとは。
通常の子供ならばまず、この状態に怯えて遙に助けを乞う事だろう。
「黎、あの子供はどうやら、この私を護りたいらしいぞ」
少し浮かれた口調で喋る遙に対し、鼻白んだ様子の黎が冷静に問う。
『卵か?』
「いや……違う。痣はない」
卵ならば、必ず身体のどこかに所有者の印が刻まれてある筈だ。
少年の全身を瞬く間に透かし見て、呟く遙に、黎の冷たく無機質な声が重なる。
『ならば助けた後は捨て置け』
「黎……?」
『だいたい人間を助ける必要性がどこに有る? 來を見ろ。あいつはとっくに帰館したぞ』
「……」
上空から見えた綺麗な灯篭の灯火。
燃え盛る紅蓮の焔につられ、豊穣祭を見てみたいと言い出したのは遙自身だ。
直属の部下である斎の他に、何故か來や黎までが遙の意見に賛同し、揃って町へと進路を変えた。
――その先で見つけた、黒禽に追われる小さな子供。
確かに森の上空を通りかかるまで上機嫌で遙と行動を共にしていた來は、遙の取った行動を見るや否や、不機嫌さを満面に湛え、踵を返したのだ。