擬態(08)
「明朝一番で、イエンを発ちます」
怪我が治りましたので、と青年に告げられて、彼が治療中だと言う事を失念していた自分に、
要は始めて気が付いた。
「ごめんっ! 俺、病人相手に毎日押しかけて!」
必死で謝る俺に、貴方には私は怪我人に見えませんでしたか? と彼は始めて見せる苦い笑いを
その頬に浮かべた。
「だって身体だって凄く鍛えてるし、丈夫そうだから、つい」
「……鍛えた身体ですか?」
慌てて言い訳した俺に不思議そうな顔をして彼が黙り込んだかと思うと、
不意に俺の眼を真っ直ぐに捉えたまま「確認したいのですが」と、いつに無く真剣な表情で、
尋ねた。
「貴方には私が若くて、怪我人には見えない」
「うん」
「身体も相当鍛え上げていて、その……隙の無い様に見える?」
「……うん」
どうしよう。今迄そんな風には見えなかったが『迷い人』は頭がおかしいのかも知れない。
正常なら、自分の容姿を他人に確認する必要なんて無い筈だ。
俺の心配を余所に彼はそのまま暫く質問を続け、独りで何事かを思案した後、俺の眼を改めて覗き込んだ。
「要、貴方身体の何処かに痣は有りませんか?」
「痣? うーん?」
自分の身体を思い浮かべて首を振る。有るとしても綺菜に殴られた後くらいだしな。
否定と同時に『迷い人』は俺から視線を外すと、複雑な表情をして、長い息をついた。
「それが?」
「……いえもしかしたら、と思ったので」
「誰か探してるのか?」
顔面一杯に教えてと書いて迫る俺に、根負けした彼は、溜息を付きながら淡々と喋り出した。
まだ自分が年端もいかない小さなときに、屋敷が荒らされ、両親が惨殺された事。
その時に生き別れた弟を、もう何年も探していて、どんな小さな村でも必ず訪れては、その存在を
確認している事。
当時まだ赤ん坊だった弟の現在の姿は判別し難く、腰に特徴的な痣が有る事が、唯一の手懸りだと言う事を、
彼は教えてくれた。
「弟は何歳なの?」
「うーん、私達は若く見えるから。多分見かけは貴方くらいだと思うのですが」
「兄貴なのに弟の歳覚えてないの?」
俺のこの台詞に彼が戸惑いを見せて、眼を伏せた瞬間、もしかして俺は凄く不味い事を言ってしまったかな、
と反省する。
弟の歳を忘れてしまうなんて、やはり頭を怪我したからに違いない。
「ご免。頭を怪我した所為だよな」
『迷い人』の機嫌を損ねたくなくて、俺は必死でフォローの言葉を探す。
「俺でも姉貴の歳を勘違いする時有るし。でもって殴られるし」
ここ見てよ、と先日も綺菜に殴られた場所を見せる。俺の瘤を見て『迷い人』は本当だと呟き、
微かに笑ったようだった。
「要は優しい子ですね。それに真実を映す『力』も有るようです」
俺の支離滅裂なフォローに、彼は微笑を浮かべると、何故か俺の頭をゆっくりと撫でた。
「私は頭を打ったショックで記憶がまだ少し混乱していますが」
彼は床に屈んで俺と眼の高さを合わせると、一言一言区切るように静かに呟いた。
「……要には教えておく必要が有るでしょう」
そうして俺に何日にも亘り、親切に外の世界の事を教えてくれた彼は、酷く真剣な顔で、最後にこう告げた。
「要、近い内にイエンを出なさい」
「?」
「この村は……イエンはもう駄目です。貴方がまともだと思う人達を連れ、出来る限り遠くへお逃げなさい」
いつも浮かべていた笑みが彼の顔から跡形も無く消えると、親近感に溢れていた彼の表情や態度が、
まるで全て演技だったかのように思えるほど、印象が変わる。
その余りの変わり様に生理的な恐怖を感じて、声が裏返るのも構わず俺は大声で叫んだ。
「駄目って、何がだよ?」
「……このままではいずれイエンは……」
「誰か中に居るのか!」
俺の大声が外にまで聞こえたのか、扉の前で村長の恫喝と共に、鍵の外す音がする。
話しの途中だったが、俺は慌てて天井に攀じ登ると、別れの挨拶も早々に、その場から一目散に逃げ出した。
別れのその瞬間になって初めて俺は、彼に名前や出身地を聞いて無かった事を思い出した。
どうして当然の質問を忘れてしまっていたのだろう。
それに俺はいつ彼に自分の名を告げた? ……どうしても思い出せない。
色んな疑問が渦巻く中、天窓から飛び降りる際に一瞬だけ見えた彼の姿が、
包帯を巻いた痩せた薬師の姿に見えた気がしたのは、何故だろう?
後にそれとなく村長や、俺のように偶然『迷い人』を見かけた人に彼の事を尋ねたが、
痩せて年老いた薬師の話ばかりで、俺が幾度となく話した彼の姿は誰も知らなかった。
結局あの『迷い人』は俺の『何か』には答えてくれなかった。
けれど彼の滞在のお陰で、外の世界に対する俺の知識は、飛躍的に増えた。
あれから要は、以前にも増して猟の腕を磨く事に専念するよう心がけている。
『いつか近い将来に綺菜や、一握りの人達とイエンを出る』
例え彼が何者で有ったとしても、最後の台詞に嘘は無かった。俺はそう信じたから。
「ねぇー要、やっぱり勘違いじゃないかなー?」
辺りに響く綺菜の、のんびりとした声でふと我に返る。
猟に出る俺を心配してくれるのは有り難いけれど、口煩いのが唯一の難点だ。
心配性なところは母さん譲りなのか、七歳しか違わない綺菜は、いつも俺の動向を疑う。
少しは信用してよ、と思いつつ、二人して草木を掻き分けて進むと、漸く開けた場所に出る事が出来た。
疑り深い綺菜の眼を避けるようにして、俺は慌てて呟く。
「確かこの辺りだと思うけど」
視界に白い兎の様な動物が見えた気がしたので、咄嗟にかなり遠くから矢を放ったのだ。
本当に獲れたかどうかは、自分でもいささか自信が無かったのだけれど、綺菜の手前、引っ込みが付かなくなる。
「キュー」
けれど獲物の微かな鳴き声が耳に入った瞬間、そんな不安は綺麗さっぱり吹き飛んで、俺は綺菜の手を取ると、
獲物が居るだろう場所目掛けて、小走りに駆け出した。
「久々にお肉食べれるねー」
綺菜のはしゃぐ声につられて、俺も笑顔になる。
だけどそんな俺達の眼に入ってきた光景は信じられない展開だった。
「大変だ! 子供に当たってる!」
――そこには胸にしっかりアビを抱えて、気を失っている瞭の姿があった。