黒禽来襲-02(72)
ほんの僅かな物音すら聞き分ける黒禽の聴力に、有効な手段が存在するはずもなく。
「駄目だ、止まれ笙」
「兄ちゃん?」
不安げに呟く笙に、身振りで黙る事を強要する。
暗闇の中、息すら潜め数秒間微動だにせず自らの存在を隠す事に神経を集中する。
大きな羽音をたてて上空を旋回する黒禽が、人間の姿を見失ってその場から離れるのをひたすら待った。
「……」
数秒が果てしなく長い。繋いだ掌はお互いの汗で湿って、僅かな動作が神経を逆撫でる。
極度の緊張で波打つ心臓は、今にも爆発しそうな勢いで、互いの鼓動を熱く刻み続けていた。
「良し」
黒禽の気配が遠ざかる頃合を的確に見定めると、皓は再び笙の手を取り、慎重に移動を開始する。
「止まれ!」
実際どれほどの時間が流れたのかは皓には判らない。
何度も何度も同じ事を繰り返し、町への距離を縮めては来たものの、幼い笙の精神は刻一刻と限界に近付きつつあった。
ガサッ!
突然背後の叢が大きく揺れ、皓は悲鳴を上げそうになった自身と、笙の口を咄嗟に塞ぐ。
音になる寸前で掻き消された笙の悲鳴は、黒禽に届く前に皓の掌に吸い込まれ、事なきを得た。
恐怖で大きく眼を見開いた笙を庇いながら、皓は油断なく武器を構え背後に向き直る。
「なんでこんな時に限って……」
黒禽だけで精一杯の状況下で、別の敵との遭遇は極力避けたいのだが。
唇を噛み締めながら更に眼を凝らすと、意外にも叢から現れたものは、先刻別れたはずの、青年の姿だった。
「良かった! 二人共無事だったんだな!」
――多分間の抜けたその一言で、ぎりぎり迄持ち堪えていた皓の緊張が、途切れたのだろう。
「何でお前がここに居る?」
安堵の笑みを浮かべる青年とは対照的に、皓の口から紡ぎ出された言葉は、自分でも驚くほど冷たい響を伴っていて。
「何故来たかって……お前達を助ける為に決まっているだろう」
「誰が助けてくれって頼んだ! 俺に助けなど要らない! 自分より弱い使い手が一人増えたところで何の手助けにもならない。むしろ負担が大きくなるだけじゃ――」
パンッ!
言葉は不意に頬に張られた乾いた音が遮った。
「子供が生意気言ってるんじゃない!」
他人に平手とはいえ、頬を殴られたのは一体いつ以来の事だろう。
皓は咄嗟に殴り返す事も出来ず、憤る青年を前に黙り込む。
「お前は確かに強い。けれどお前が子供で俺が大人である以上、俺にはお前を護る義務があるんだ。解るな?」
怒鳴りつける訳でもなく静かに、そしてほんの少し哀しみを交えて告げられた青年の真摯な心根に、皓は唐突に返す言葉を失って。
「……悪かった」
地面を見詰めながら、消え入りそうな声音で、やっとそう呟いた。