憧憬(07)
「うっわー凄いや」
イエンを始めて見た瞭の第一声はこうだった。イエンは思わず感嘆するほど豊な村だ。
僕達は一箇所に留まる事が余り無いので、大概の町や村を眼にしてきたが、イエンはその中でも、
格別豊な村である事に間違いない。
地名の頭文字にイが付くだけあって、村の周囲は切り立った山々に囲まれており、
擂鉢上の地形ゆえに霧が溜まり易いのが難点だが、程よい湿気が作用してか、
辺り一面に常緑林が生い茂り、あらゆる箇所で作物がたわわに実っていた。
イエンはここ何年も豊作が続いている、と言った遙の言葉は正に真実で、
これほど村が恩恵を賜っているとは、流石の瞭も想像すらしていなかった。
「綺麗な村だね」
瞭は傍らを歩くアビに喋りかける。
緩やかに舗装された村へと向う道を、一生懸命短い足を動かして、必死で僕に並んで歩こうとするその姿は、
可愛いと言う以外、形容の仕様がない生物だ。
アビは「一人では何かと寂しいだろう?」と、遙が無理やり僕のお供に付けたペットだ。
大きさは小柄な犬ほどで、白い体毛と兎の様に長い耳が特徴の動物だ。
いつも体躯には似合わない大きな碧色の石を、革紐の首輪に硬く縫いとめて、身に下げている。
紅い菱形の石を土台に丸い碧の石が中央に填め込まれたそれは、アビが歩く度にキラキラと光が反射して、
とても綺麗だ。
「この首輪には、絶対に触ってはいけないよ」と言う厄介な決め事が、僕と遙の間で、
以前から堅く交わされている。凄く綺麗な石だから、本当はアビの首輪から外して、眺めたり
触ったりしたいけど、遙と約束をしたので僕はグッと我慢する。
「本当は、遙なら一緒に来ても良かったのにな」
尚も喋りかける僕に、アビは大きな青い眼を見開いた後、鼻を小刻みに動かすとキュッと小さく鳴いた。
アビは喋ることは出来ない、けれど人が喋る言葉の意味を理解出来るとても賢い動物だ。
外見通り柔和な性格で人に良く懐くが、遙曰く、意外と情熱的で一途な面も併せ持つそうで。
遙が言うには故郷を旅立つときに、こっそり荷物に潜り込んで付いて来てしまった『命知らずの馬鹿もの』らしい。
「あーやっぱりアビも遙に来て欲しかったんだ」
嬉しくなってアビを抱き寄せようとした瞬間、不意にアビが後ろ足で立ち上がり、短く警告の鳴き声を発する。
「!」
眼の端に白い矢の軌跡を捉えると、反射的に僕は胸元にアビを抱き寄せ、眼一杯横飛びに動いて、
その切っ先を避けた。
その後の結果も考えずに――――
同時刻、こちらは矢を放った張本人達が、獲物目掛けて歩き出していた。
瞭と左程変わらない年頃の男の子と、その姉と見られる二人連れである。
「当たったかな?」
「ねぇ要、本当に獲物が居たの?」
この台詞に要はこっそり溜息をつく。綺菜はまるで小さな母さんみたいだ。
今日も猟に出る準備をしていた要を目敏く見つけると、心配性の綺菜は、着いて行くと言い張った。
「私と一緒が嫌なら他の人でもいいけど」
「……解ったよ」
綺菜の言い分に、要は嫌々ながらも頷くしかなかった。
他の人に頼もうにも、咄嗟に誰も思い浮かばなかったからだ。いつからか解らないが、
この村には狩り行こうとするまともな人間が、数える程しか居なくなった。
「村には常に作物が有るのだから、無理に殺生をすべきでは無い」と言う理由で、ここ数年、
大人達は狩りをしなくなってしまっている。
それどころか牛や馬、羊等の飼育すら行わない家々が確実に増えつつ有る。
同じく好き勝手に実る野生の作物を理由に、自分達の田畑を毎日きちんと手入れをしている家は、
いまや村の僅か一握りにも満たない。
この村……イエンに居ると、何故だか解らないが、要は時々息が詰まりそうになる。
何もしない大人達。手を伸ばせば届く豊富な野生の作物と、手入れをせずに荒廃していく本来の畑。
……何か、どこかが、おかしい。いつからかこの村は、変わってしまった。
そんな上手く言葉に出来ない『何か』が胸の中で一杯になると、それらから逃れる為に要は、
気晴らしも兼ねて猟に出掛ける事にしている。
二ヵ月程前、村に久し振りの『迷い人』が現れた際、他所の人間ならこの『何か』に答えを出せるだろうか?
そんな考えが要の胸を占めて離さなかった。
『迷い人』とは他の地方から道に迷い、偶然このイエンに辿り着いた人間を指す言葉で、怪我や病気を理由に、
暫くこの村に滞在させざるを得ない者が多い。
本来『迷い人』との接触は限られた人間以外は禁じられており、会話も必要最低限しか、交してはならない決まりだ。
そして『迷い人』が村に滞在している事は、決して公にされない為、その存在に気付かない者も多い。
要は偶然『迷い人』が村に居る事に気付いてから、答えを知りたい要求がどうにも我慢できなくて
『迷い人』が治療のために滞在している家屋に忍び込んだ。
村が用意した何も無い粗末な小屋で、明かりに照らされた『迷い人』の姿を間近に見た瞬間、
要はその容姿の余りの完璧さに、心臓が止まる位驚いた。
蝋燭に照らされた蜂蜜色の短髪は柔らかそうな猫毛で、彼の白い肌に良く映えている。
唇は仄かに淡く色づいて、優しげな碧色の瞳を取り巻く睫は、驚くほど長い。
その柔らかな印象に反して、薄い外套を透かして見える腕や肩などから、相当に鍛えられた筋肉が
全身を無駄なく覆っているのが解る。
金髪碧眼の、とても綺麗な顔立ちをしたその青年は、夜更けに天井から急に現れた要に、
何故か驚く事も無く微笑んだ後、「下に降りてきませんか?」と、鈴を鳴らす様な声で要を傍へ招きいれた。
生まれて始めて見たと言って良い程の整った容姿に、衝撃を受けて呆然としていた要は、彼のこの言葉で、
まるで呪縛が取れたように、動けるようになった。
まだ少し惚けた状態の要に、抱いた印象そのままの、丁寧で人当たりが良いその青年は、
自分は薬師をしている者だと教えてくれた。
薬の材料となる薬草を、夢中になって摘んでいる間に、道に迷ったのだと言う。
「村の方には、危ない処を助けて頂きました」
山中を彷徨っている間に薬草は全て失くしてしまい、危うく命まで失くす処でした、
と朗らかに笑う彼の横顔を要は反射的に盗み見る。どう見ても彼の年齢は十代を超えない範囲だろう。
そんな若い薬師は、幾ら他の村町でも存在するだろうか?
ふと感じた疑問が要の口をつくと、私は若く見えるだけですから、と彼は鮮やかに微笑んだ。
彼を外見で剣士と判断して舞い上がっていた要は、明かされたその事実に多少失望したが、
外への興味が失せる筈も無く、夜更けを待っては、彼の元へ頻繁に訪れた。
彼は要領を為さない要の疑問や意見に、辛抱強くいつも笑顔を浮かべ向き合ってくれた。
幾度と無く話して見て解った事だが、彼は年齢の割りにとても豊富な知識の持ち主で、
聡く賢い人物だ。いつも笑みを絶やさず朗らかな彼は、短期間の間にも関わらず、要の憧れの対象となった。
男兄弟がいない要にとって、彼は兄のように気安く、頼もしい人物として要の中に入り込み、
重要な位置を占めた。
お互いにすっかり意気投合すると、要は何かと理由を作っては毎日、彼の元へ忍び込んだ。
そして要の質問が一通り終わる頃、彼自身もまた要に対し、イエンの事を色々と訊ねるようになり始めた。
……彼が訊ねる事柄には、不思議な質問がいくつか混じっていて、要は時々戸惑う。
例えば要と同じ様にイエンの未来を危惧している人間は他に何人位居るのか、豊作はいつから続いているのか、
その代償は何か、等。
そんな事を彼が知ってどうなる訳でも無いだろうに、と疑問に思いつつ、要は出来る限り正直に、
全部話した。