旅立(06)
こうして僕は遙の代理と言う形で、イエンの村へ降りる事になった。
くれぐれも隠密行動をする様に、と遙にくどいほど念を押されたのは、僕独りで数日に亘って行動するのは、
今回が始めてだからだ。
屋敷の中ではまだ見習いの立場の僕は、通常何処に行く場合も、必ず師匠と行動を共にするのだが、
現在師匠は他の仲間=恭=と一緒に別の地に赴いている。
師匠の最も信頼する仲間で有り、同時に親友でも有る恭は、彼の扱う武器故に、
基本的に単独で行動する事はないが、仲間が沢山居る現在、師匠と組むのは極めて稀な事だ。
肩下までの赤茶けた髪の毛を、首の後ろで無造作に一括りにした彼は、見るからに人の良さそうな顔立ちで、
師匠と比べると、全体的にかなり柔らかい印象を受ける。
満面の笑顔がとても優しそうだが、戦闘に関しての腕前は、師匠に次ぐ強さだと専らの噂だ。
恐らく恭の扱う武器が弓でなければ、大剣を扱う師匠と互角の腕前だと、
恭と一度でも組んだ覚えが有る仲間からは、熱烈な支持と共に語り継がれている。
(最も僕は恭と組んだ事が無いので、仲間内で一番強いのは師匠だと心から信じているのだが)
だから最強コンビの師匠と恭が組む仕事なんて、余程の大仕事でなければ有り得ない事で。
けれど皓に新しい任務が下ったあの日、当然のように旅支度をしていた僕に、
師匠は今回の件は恭と組む事になったからと告げに来た。
「じゃあ三人で出掛けるの?」と無邪気に訊ねた僕に、師匠は意外な言葉を返したのだ。
「えっ! いま駄目って言ったの?」
「ああ。俺と恭が組むって言う事は、今度の仕事はそれほど危険度が高いって事だ。いいか当然の事だが、
今回お前を現場に連れて行く訳にはいかねえ」
これは決定事項だと強引に言い切られ、哀れ僕は、師匠の任務に同行させて貰えなかった。
危険だから、と言う理由に納得がいかなくて、一生懸命粘る僕を尻目に、皓と恭は至極あっさりと
「もう少し強くなってからな」とのたまい、決して首を縦に振る事はなかった。
『……悔しいけれど、僕はまだ戦力にはならないと、師匠達に判断されたんだ』
その思いがここ数日間、僕の胸の中にずっと、澱のように痞えていて、消えなかった。
認められなかった思いはいつしか、僕から訓練を続ける気力を奪い去ろうとし始めてきて。
――このままじゃ僕は駄目になる。
だから遙からイエン行きの打診が出たとき、迷わず僕は、イエンには独りで行くと言う条件を出した。
正直なところ、不安は無いことも、無い。
けれど、僕独りでも無事任務をこなせる事を、僕独りでもちゃんと戦力になる事を、
皆に証明したい気持ちの方が強かったから、僕は何を言われても絶対に譲らなかった。
そして僕の出した条件に、真っ先に反対するだろうと思われた遙は、意外な程、あっさりと承諾した。
「瞭が本気ならそれで構わないだろう。正式に任が下るまで精進すれば良い事」
但し独りで行動すると言う事は、全てに置いて自己責任だと言うことだよ。大丈夫かい?
と釘を指しただけだった。
数日の後、遙が改めて僕にイエン行きを正式に任命した後、僕を除いた数名で、度重なる慎重な会議が
行われた。
「近郊の小さな仕事は、独りで任せた経験が幾度か有るが、偵察だけとは言え、イエンはかなり遠方の地だ。
本来なら瞭独りで行かせられるような場所では無い」
「それに何と言っても、瞭はまだ若い」
「では他に誰がイエンへ行けるのだ?」
最強の戦士で、僕の師匠でもある皓が不在な現在、僕を誰と組ませるか、どうやってイエンへ向うか……
等の難題を抱え、会議は数日間に及んだと言う。
僕を単身で行かせる事については、僕の気持ちを良く知る遙が、かなり強硬に意見を押し通した結果、
渋る仲間の了承を力づくで得たようだった。
そして肝心のイエンまでの移動方法も(これまた当然のように遙の意見が皆を押し切った形で)
直ぐ近くまで遙に飛ばして貰う事で、程なく落ち着いた。
「危険は少ないと思うが、何か有ったらすぐにその場を離れるように」
余程心配なのか、言葉を変えてはいるが、執拗に同じ様な注意を続ける遙に、僕の胸に僅かながら
不満が溜まる。以前から感じてる事だが、遙は幾つになっても僕を子供扱いする。
ううん。遙だけじゃない。いつも僕の面倒を見てくれている師匠もそうだ。
勿論、大人になるにはまだまだ年月が掛かるけれど、僕はもう守られる程小さな子供でもない。
現に訓練だけでなく、実際の経験だって多少は積んでいる。単独行動が出来ないと見做される程の、
子供扱いを受ける謂れはないはずだ。
「はい」
それでも遙に素直に返事を返しながら、僕はイエンの報告を無事に終える事が出来れば、
(周囲の仲間達に、僕がもう子供じゃない事を認識させる、良いきっかけになるかも)と
密かに胸のうちで考えていた。
「瞭……」
唇を噛み締める僕を黙って観察していた遙は、唐突にその細腕で僕を捕らえ、抱きしめた。
――遙の柔らかい腕の中で、僕は身じろぎもせずに考える。いつからだろう、大好きな遙に、
素直に甘えられなくなったのは。少し前なら、こうやって遙が抱きしめてくれると、ただ単純に嬉かったのに。
今は何故か嬉しさよりも、言葉に表せない不思議な感情が僕を支配する時が多くて、自分でも戸惑ってしまう。
「……」
遙はそんな僕に何か物言いたげな表情をしていたが、結局、もう一度ぎゅっと力を込めて抱きしめた後、
何も言わずに僕を解放した。
「では行って参ります」
張り詰めた瞭の小さな背中を見送った後、遙が我知らず溜息をひとつ落とすと、見計らったように
声を掛けられた。
「……本当にアレ一人で行かせて大丈夫なのか?」
遙しか居ない筈の部屋に、突如陽炎のような揺らめきが立ち昇り、そこから眼にも鮮やかな
碧の長髪を持つ青年が顕現する。
遙の視線の先に有る彼の瞳は、冬の湖の底の様に冷たい水色一色で、そこに色彩と虹彩の区別は無い。
己が『力』を眼に宿す事の出来る者はごく限られており、その色は個々を示す特徴的な証だ。
目の前で悠然と腕を組んで構える彼は、その名を広く知られる大地の精霊王=黎=だ。
『お前が大層気に入った。故に我の力をお前に貸そう』
呼べば、いや呼ばなくても何処にでも現れる、その余りの身軽さに惹かれて契約を結んだが、
まさか黎の正体が大地の精霊を統べる王とは、迂闊にも当時の遙は気付かなかった。
……最も正体を知っていたところで、黎の強引さに押されて矢張り契約は交わしただろうが。
『彼等は一度気に入った相手を決して見逃さないと言うしな』
長命である彼等の年齢を考えると、黎は大地の王にしては、随分若い部類に入るだろう。
『私は差し詰め気に入った玩具……と言ったところか?』
何故自分が歳若い黎に気に入られたのか? あれから黎とは長い付き合いになるが、
未だにその理由が遙には良く判らない。
ひょっとして気に入った相手なら、誰とでも簡単に契約を結ぶ直情型か、と考えた事も有ったが、
黎の身分を考えると、それは有り得ないだろう。
「時を経ても、我の契約する相手は過去も、そして未来も、唯一お前だけだ」と臆面も無く告げる黎の言葉が、
果たして何処まで本気なのかは、遙には正直判らない。
契約を交わしたとはいえ、彼等精霊の本質は、誰にも縛られず自由気ままな存在だからだ。
自由故に彼等の言葉は、含みや問いかけが多く、一概に本音では喋らないと言われている。
その精霊達の中においては、黎はまだ本音を明かす方だと、遙は思いたいのだが。
「遙?」
答えない遙に黎が確認するかの様に、そっと遙の貌を覗き見る。
多分黎は瞭の心配ではなく、残された遙が大丈夫なのか、と尋ねているのだろう。
「ああ。構わない」
問いに含まれた意味を考えて、応える遙の声は少し硬い。
「無理をするな」
悩みが面に出たのか、珍しく微笑んだ黎が、ゆっくりと、まるで壊れ物を包み込むように、
遙を優しく抱きしめる。
「……お前はいつも心配性だから」
「黎?」
人間よりは少し冷たいけれど、気遣い、抱きしめてくれる黎の腕の中は、思ったよりも温かくて。
恐らく黎は、先刻自分が瞭にした行動を真似てみただけで、『抱きしめる』という行為が、
人に与える影響までは、理解してはいないだろう。
「遙は、包まれるのが好きなのだろう?」
遙自身、皓と恭に逢うまでは知り得なかった、お互いの温もりを伝える事によって生じる心地よい安堵感。
その気持ちを黎に具体的に説明するのは、遙にしても至難の技だ。
好き嫌いでは無いのだが、結局上手く言葉が見つからず、遙は早々に黎への説明を諦めた。
それでも居心地の良い腕の中に身を任せると、諸々(もろもろ)の不安が少しは楽になった様に感じる。
『瞭、お前は少しでも楽になれたか?』
胸の中を占める強い想い。けれど強がる本人を目の前にして、とうとう最後まで言葉には出来なかった。
いつからだろう、素直に甘える事が出来なくなった、先急ぐ、意思の強い子供。
その姿勢は見ているこちらが痛々しくて。
「瞭、お前はまだ子供で良いのだよ」そう言って、あげたかったのに。
―――― 瞭、お前はこの先イエンで何を得る? ――――