代償(57)
遙の頭がフラリと傾いだ瞬間、均衡を失ったその身体は大木を緩やかに滑り、崩れ落ちる。
慌てて支えようとした瞭の掌を、僅かな差で擦り抜けた遙の身体は、然し横から突然現れた逞しい複数の腕に、
その身を抱き止められた。
「師匠!」
森から猛然と駆け寄って遙を抱き止めた、その意外な二人組に瞭の声が跳ね上がる。
矢筒を肩に掛け、赤茶けた髪を無造作に後ろで止めた恭と、陽に焼けた逞しい身体に、いつも通り大剣を背負って立つ皓の、
勇ましい二人の立ち姿は、未だに瞭を圧倒した。
「……皓……に恭……か。遅かったな」
微かに笑った様子の遙は、上半身を皓に、下半身を恭に、ほぼ同時に抱き止められていた。
「無理に……呼んで……悪かった……な」
薄目を開けて皓と恭の姿を確認すると、遙は安心したように、切れ切れに言葉を呟いて、そのまま緩やかに眼を閉じる。
と同時に、遙の細く白い手足が力を失って垂れ下がった。
「遙っ!」
遙が死んじゃうよ、と驚き慌てふためく瞭の姿に、見かねた皓と恭が、それぞれ声を掛ける。
「大丈夫だよ。遙ちゃん、気を失っただけだから」
「急に気が弛んだ所為だろう。……少し無理をしたようだからな」
紙のように白い遙の貌を、紅く染まった力無き姿態を、間近に見た皓の瞳が僅かに陰る。
……本当は遙に無理な事をして欲しくない。
手を差し出すのは簡単だった。人の心を失った怪鳥に、何の躊躇も遠慮も、生じない。
否、例え人の姿そのままでも、俺と恭なら遙に害なす綺菜を、迷わずに斃しただろう。
紅に塗れた遙の姿を眼にしたとき、一瞬己の息が止まるかと思った。
だが恭が先に冷静さを欠いたお陰で、逆に却って自分が冷静になれた。
恭を諫めるフリをして、本当はその場に飛び出して行きたい自分自身を、俺は諫めていたのだろう。
何故なら俺達はただ純粋に、遙を全ての事から護る為に、この世界に存在しているに過ぎないからだ。
彼女を護る為なら、何を犠牲にしても厭わないのは俺も恭も、恐らくは同じはずなのに。
恭は遙の意思を尊重する前に、いつも遙を助け出そうとする。
どうやっても遙が最終的に傷つくならば、その傷を最小限で喰い止めたいからだと、恭は訴えるが、俺は反対だ。
何度も一緒に色々な危機を乗り越えて来た俺は、絶対的に遙を信用している。
恭の気持ちも解らない訳ではないが、その遙が自ら助けを求めない限り、俺達は安易に救いの手を差し伸べるべきではないだろう。
他人を巻き込む事を、他人に頼る事を、何より嫌がる遙自身の為に。
共に闘う仲間として、遙の尊厳を守る為には、無理を承知で遙の好きにさせるしか、方法はなくて。
――――けれど。ただ見守るだけの存在が、どれ程辛い事だろう。
遙が精神的に、或いは肉体的に傷つく度に、俺の……俺達の腕の中で大人しく護られてくれと願うのは、我儘なのだろうか。
「皓」
「ああ。……アビ」
「キュリリー?」
心配げに遙と皓を見比べていたアビを、皓は手元に呼び寄せると遙をそっと恭に任せる。
皓はその場に屈むと、近寄って来たアビの口元に、日に焼けた逞しい腕を、差し出した。
黙って頷く皓に、アビは申し訳なさそうに小さく鳴いて、その腕に体躯を擦りつける。
「あ!!」
瞭が思わず声を上げたのも無理はない。
皓を見上げたアビが不意に口を大きく開けたかと思うと、突然皓に鋭く噛み付いたからだ。
「アビ何て事するの!」
間に駆け寄ってアビに止めさせようとした瞭を、恭がすかさず片手で制止する。
アビの牙を深々と左腕に刺したまま皓は顔色一つ変える事無く、残る右手で、器用にアビの首輪を外した。
「良し」
皓の言葉を聞いて、アビが漸くその腕から、鋭い牙を抜いた。
地面に置いたアビの首輪に、皓の腕から流れ出る血液が滴り落ちた瞬間、中央に填め込まれた碧の石から、垂直に光が立ち昇る。
不思議な事に皓の血液は円錐形の光に沿って石まで流れ落ち、決して地面に滴る事はない。
石は絶え間なく流れ落ちる皓の血液を、一向に溢れさせる事なく、その身に飲み込み続けた。
「ほい、交代」
恭の言葉にアビと皓が振り返る。
「キュッ?」
「遙ちゃんのその怪我じゃ、一人分だと足らないと思うよ」
恭が差し出した腕に、アビはまたしても躊躇いもせずに、鋭い牙を喰い込ませる。
「痛! アビ、相変わらずお前の牙、痛っ」
騒ぐ恭を尻目に、皓は光の円筒から腕を抜き取ると、己の血を周囲に零さぬ様、慎重に恭と場所を入れ替わる。
「良いよん」
皓の時と同じように、アビが恭の腕から牙を抜き、その血液を碧の石の上に溢れさせる。
「……一体、何をしているの?」
少し震える声音の瞭の問いかけに、自分で止血を施していた皓が、逆に瞭に問いかける。
「遙から貰った、俺達のこの力の源が何か、坊は知ってるか?」
「えっ?!」
唐突とも思える皓の質問に戸惑いながらも、瞭は首を横に振る。
「それについて何か代償を支払った事が有るか?」
「代償って?」
首を傾げる瞭に、血止めの為に腕を軽く縛り上げながら、皓は解りやすい説明を試みる。
「普通何かを得る為には、それと同等の何かを失わないと、欲しい物は手に入らない。
けど、俺も恭も、そして坊も恐らく何も失っちゃいねえ」
契約をした時、俺や恭、そして瞭も事を深く掘り下げずに、遙から『力』を受け取った。
現在も定期的に受け取り、補充しなければならない『それ』は、実は遙の命そのもの。
――俺達は、遙の寿命と引き換えに、自らの身にこの特殊な『力』を授かっているんだ。
「そんな!」
瞭が上げた悲鳴交じりの声に、皓はやはりな、と思う。
遙と契約を結んだ時、俺達を含め誰一人として、そんな説明を聞かされた覚えは無い。