悔恨(52)
「泣くな、瞭」
「だって……遙」
遙はいつも通り僕の頭を優しく撫でると、少し微笑んだ。
「もう大丈夫だから……良く我慢したな」
痛みと出血で震える腕を巧に誤魔化しながら、僕を慰める遙の姿に余計泣けてくる。
泣いてはいけないと、頭では解ってはいるのだけれど、この状況と己の不甲斐なさに、どうしても涙が止まらない。
仕方なく僕は泣きながら、遙の手当てに懸かる事にした。
「血が……」
近くで見ると思ったより酷い遙の状態に、僕の全身が訳も判らず震え出す。
「大丈夫だ。直ぐに止まるから気にする必要はない」
出血が多いだけで、見た目ほど酷い怪我はしていないから大丈夫だよ、と遙が告げる。
――こんな状態になっても、まだ僕を気遣う遙に対して、僕は何一つ、出来なかった。
初めての単独実戦に怯えて、遙を護るどころか、動く事すら出来なかった。
そんな自分がどうしようもなく悔しくて、情けなくて。泣いちゃいけないのに――――
遙の言う通りあの時屋敷に帰っていれば……。
そうすれば僕の所為で、遙がこんな怪我を負う必要は無かったのに。
後悔が僕の胸の中に波のように次々と押し寄せて来て、涙が溢れて止まらない。
「それより瞭、頼むから泣くな」
見かねた遙の、細くて白い指先が、そっと僕の涙を掬い取る。
「……うん、ごめんなさい」
遙に重ねて乞われ、僕は顔を乱暴に拭うと大きく息を吸い込んで、取り敢えず気持ちを落ち着かせる事に集中する。
「吸って……吐いて……」
遙の言葉に合わせて何度か深呼吸を繰り返す内に、漸く僕の涙が止まった。
同時に全身に走っていた細かい震えも止まる。そんな僕の様子に安心したのか、
「つっ!」
大木の根元に力なく座り込んでいた遙が、不意に立ち上がろうとして、苦痛の呻き声を小さく上げる。
「遙!」
慌てて支えた僕に、遙は決まり悪げに笑って見せたが、その顔色は限りなく白い。
「済まない瞭。……私を立たせてくれるかい?」
「動いちゃ駄目だよ!」
足元が覚束ない、そんな状態の遙がこれ以上動くのは、どう考えても自殺行為だ。
「駄目! これ以上動いたら本当に遙が死んでしまう!」
「――綺菜と話をしないとね」
僕の必死の攻防に、やんわりと遙の言葉が命令口調に変わる。
「瞭、お前には私の言葉が理解出来ていないのかな?」
遙は柔らかな外見上の印象に反して、実は一度言い出すと絶対に後には引かない性格だ。
周りがどんなに心配しても、一向にお構いなしだから始末に悪い。
けれど何より遙の真剣な表情に負けた僕は、渋々遙を支え大木にそっとその背中を預けさせる。
(僕の身体がもう少し大きかったら、僕自身がちゃんと遙を支えて上げられるのに)
複雑な思いで僕は遙の様子を慎重に観察する。
気丈に振る舞ってはいるけど多分、本当は凄く苦しいのだろう。普段と比べて遙の呼吸は随分と速く、熱い。
心配げな僕の視線に気付いた遙は、ゆっくりと微笑んでから、小さく大丈夫だよと囁いた。
そして自分を叱咤するように大きく深呼吸してから、こちらを窺っている綺菜を改めて直視する。
「綺菜」
ビクン、とバネ仕掛けの人形のように、綺菜が遙の呼び掛けに反応する。
自分の起こした一連の出来事に対して怯えている綺菜の顔色は、遙と同じ位、真っ白だ。
「悪いが、もう少し此方へ来て貰えるかな」
私が歩くのは流石に無理そうだから、と微笑む遙に、綺菜の顔が一瞬、泣きそうに歪む。
『私は一体何て大それた事を仕出かしてしまったのだろう』厭でも遙の状態が眼に映る。
綺菜は自分が取った一連の行動を、冷静になった時点で誰よりも客観的に理解していた。
だから激しい後悔と、消えてしまいたい程の罪悪感に、どうしても綺菜の脚は竦んで動けない。
「大丈夫だよ、綺菜。遙は綺菜を責める気は無いから」
要がそう言いながら、綺菜の震える手をそっと握ると、そのまま遙に向って歩き出す。
一歩ずつ地面を踏みしめる度に、綺菜の瞳から堪えきれず、大粒の涙が一粒ずつ、同じ様に地面に落ちて消えていく。
それでも綺菜はいつもの通り、決して泣くまいと、奥歯を必死で噛み締めていた。
哀しいけれど泣いたところで何も解決しない事は、今までの経験上、厭と言うほど、綺菜は知っている。
それに自分が仕出かした事は、最早泣いて済まされる程度の問題ではない、という事も。
綺菜はきちんと全てを冷静な視点で、認識できていた。
要に連れられて漸く遙の前に立った綺菜は、僕から見ても随分と複雑な表情をしていた。
「――やっと、逢えたね。最後の巫女に」
罵倒される事を覚悟していた綺菜は、遙の思い掛けない言葉に耳を疑う。
「貴方は――」
声が震えて言葉が続かない。この人はどうして私を見て微笑む事が出来るの――?
「……私が貴方にした事を、どうして貴方は責めないの?」
「お前の意思に反して行動した事に、お前自身が気に病む事は無いだろう?」
何事も無かったような落ち着いた遙の物言いに、綺菜は反射的に要を見遣って、頷かれる。
「俺も、綺菜はもういい加減自分を責める癖は、止めた方が良いと思うぜ」
「どうして……?」
要の身体は私の所為で全身傷だらけなのに、何故私を見て、普段通りに笑ってくれるの――?
皆のその優しい心が伝わってきて、思わず声を上げて泣きそうになるのを、再び綺菜は寸前で堪える。
必死で泣くまいと我慢する綺菜の様子を見た遙は、軽く溜息をつくと、綺菜に再び話しかけた。
「綺菜。お前の本当の願いを私に教えてくれないか」
私が本当に叶えて欲しかった願い? それは……。