遡及(51)
「遙ちゃんは?!」
驚くべき速さで此処まで駆け抜けて来た皓と恭が、到着と同時に声を張り上げる。
黎が無言で指差すその先に ――華奢な全身を自らの血で紅く染めた遙が―― 居た。
「遙ちゃん!」
余りに酷い遙の状態を見て反射的に飛び出そうとした恭を、皓は全身で押さえつける。
「待て!」
「皓、何故だ?!」
早く助けに行かないと遙が、と皓に全力で抗う恭は諫める皓と激しく揉め、その場で縺れ合う。
「皓、お前……」
邪魔をするなら例え皓でも許さねえ、と全力で抗う恭に対し、皓もまた全力で恭の行動を阻止する。
「落ち着いて周囲を良く見ろ!!」
皓に羽交い絞めにされながら、見渡した視線の先に、恐らくは皓と同じ物を、恭は見つける。
冷静に遙の様子を窺えば、直ぐに気付いたはずの、自分と同じ行動パターン。
遙が怪鳥に追われながらも何度か視線を送り、位置を確認している物、それは――――
「まだ逃げるの?」
半分は遊んでいるのだろう。綺菜は追い詰めた遙に対して、少しずつ傷を負わせては隙を見せ、
不意に遙を逃がす行動を繰り返していた。
「……」
遙は反撃らしい事もせず、綺菜の攻撃をかわすのが精一杯の様子で、逃げる事しか出来ない。
その顔面は蒼白で、息も絶え絶えだ。
時々フラリと身体が傾ぐのを見ると、意識が朦朧としているのかも知れない。
対する綺菜は確実に遙を追い詰めて、そろそろ決着を付ける方向に動き出したように、瞭には思えた。
「遙、後ろ!」
「!」
後ろに下がろうとして、遙は初めて自らの背後に巨大な神木が立ち塞がっている事に、気が付いたようだった。
「残念、行き止まりよ。」
驚いて色を失くした貌をする遙に、綺菜が勝ち誇ったように告げる。
逃げ場を失った遙に、僕もそして要も、最悪の事態に為す術もなく――――
大木の上、キラリと反射するそれの存在を、遙は眼の端でしっかりと捉えると、言葉を紡ぐ。
「……は恭の武器に非ず。……我が一部となり……動け」
綺菜が遙との距離を縮める為に鋭く、大きな鷲のような爪で地面を跳躍する。
一飛びで一気に目前まで迫ると、身動きの取れない遙に対して楽しそうに囁いた。
「もう鬼ごっこは終わり?」
諦めたのか抵抗さえしない遙を易々と地面に組み伏すと、その上に馬乗りになって四肢の自由を奪う。
「貴方本当に綺麗ね。……私と大違い」
耳元まで大きく裂けた綺菜の口から生臭い息と共に、長く赤い舌がチロリと蠢く。
余りの醜悪さに思わず貌を背けた遙の、見惚れるほど整った首筋を、それに続く奇麗な顎さえも、
その尖った舌で存分に嘗め上げてから、ウットリと満足気に綺菜が宣告した。
「さようなら」
遙を強大な鉤爪の餌食にする為に綺菜が腕を頭上高く上げ、遙の心臓に狙いを定めると、躊躇なくその腕を振り下ろす。
「遙っ――!」
僕の絶叫に、こんな事態にも拘らず遙が一瞬だけ、僕を視界に捉え微笑んだように見えた。
「矢よ、悪しき心を――貫け!」
遙が一気に言い放った言葉と、綺菜の動きの、どちらが早かったのだろう。
大木の真上から、何かが物凄い速さで一直線に綺菜目掛けて降りてくる。
……多分綺菜は自分の身に何が起きたのかを理解する間も無かっただろう。そして僕にも。
ポカンとした表情の綺菜が、己の胸に深々と刺さった矢と、荒い呼吸を繰り返す遙とを交互に見遣る。
振り下ろした唯一の腕は、いつの間にか遙にしっかりと捉えられ、綺菜は身動きも儘ならない。
「くっ……」
けれど全力で暴れる綺菜を抑えつける体力は流石にもう残っていないのか、遙は簡単に綺菜に振り払われ、
力なく大木にその身を打ち付けた。
その隙に綺菜は再び跳躍して距離を取ると、己を貫いている矢を引き抜こうと手を掛けるが、相当年月が経った物なのか、
矢は鏃だけを残してあっという間に、掴んだ端からボロボロと崩れ去ってしまう。
「何よこれ!!」
大木に背を預け苦しい息の下、遙は最後の気力を振り絞ると綺菜を見つめ、呟いた。
「……正しい過去を……お前に」
遙の言葉に呼応するかのように、綺菜の胸を貫通している矢が突然激しく光を放つと、鏃全てが綺菜の身体の中へと
沈み飲み込まれていく。
やがて胸から溢れ出した眩い光は、綺菜全体を包み込むと、一際強く輝いた。
溢れ出した光は次第にその幅を狭めると一つの檻となって、暴れる綺菜の自由を奪い、その場に拘束する。
「嫌あっ!」
大きく叫んだきり、糸が切れたようにペタンと地面に座り込んだ綺菜は動こうとはしない。
否、動けないのか。
穿たれた矢を通して、過去の映像を映し出しているであろう瞳だけが、左右に激しく揺れる。
――やがて光の檻も消え、そのまま誰一人動かない状態が、どの位続いたのだろうか。
変化は唐突に始まった。
まず初めに綺菜の手足から鉤爪が消え、細くしなやかな本来の姿へと、その形を変える。
背に生えた奇怪な漆黒の翼も、全身を覆っていた鋭い棘の様な体毛も、見る見る跡形もなく綺菜の身体から消えていく。
「……思い出せたか?」
「私は……」
來の呪縛が切れたのだろう、恐る恐る顔を上げた綺菜からは、もう何処にもあいつの影響は、感じられない。
「綺菜!」
「……もう、大丈夫そう……だ、な」
「遙っ!」
ずるずると大木に背を預けたまま、崩れるように座り込む遙の元へ、僕は一目散に駆け寄った。
「遙……遙!!」
恐らく緊張が解けた為だろう。転がるような勢いで駆け寄ってくる、涙でぐしゃぐしゃになった僕の顔を見て、
遙は少し困ったような顔をしてみせた。