策動(50)
放たれた渾身の矢を、榮は紙一重の処で避け切ると、そのまま恭目掛け一直線に走りだす。
相手の姿さえこの眼に捉えられれば、自分が敗れる事は万が一にも、有り得ない。
慌てて再度矢をつがえる恭の姿を確認したが、この距離では明らかに自分の方が有利だ。
事実、構えることなく放った恭の矢は、至近距離のためか僅かに狙いを逸れて、榮の足元深く突き刺さる。
「外した?!」
焦る恭の様子に、榮が己の勝利を確信して思わず笑顔を浮かべた瞬間、不意に踏み締めていた筈の大地が掻き消える。
「何っ?!」
何が起きたのかを認識する暇も無く、周囲の土塊を巻き込んで、榮は突然地面に出来た穴へと、その身を呑まれた。
暗く狭い穴の底まで落下し、仰向けに倒れた榮へ、恭の弓が容赦なく頭上から降り注ぐ。
「くっ!!」
これまでか、榮は反射的に眼を閉じる。……が訪れるべき痛みは一向に自分を襲う事無く。
――恭からは、榮の倒れた位置など当然、認識出来なかっただろう。
にも関わらず、恭が放った矢は全て榮を射る事無く、彼の衣服を地面に強硬に縫い止め、動けなくさせただけだった。
「なっ?!」
「生きてるー?」
空にぽかりと開いた丸い穴に手をかけて、恭がのんびりと此方を覗き込む。
狭い井戸の底で、己が放った矢に四肢の自由を奪われ、捕らえられた榮の姿は、標本にされた哀れな蝶を、恭に連想させて。
――この手に捉える事が出来たなら、どんなにか――
暗い場所で全身土に塗れても尚、綺麗なその貌に、虚しく抵抗を続けるその白い姿態に。
無意識に違う人物を重ねて見ていた恭は、激しく罵る榮の声に漸く我に返ると、穴の底に向って暢気に言葉を落とす。
「思ったよりこの穴、深かったみたいだねー」
「……貴様、わざとか!」
恭の言葉に猛烈に怒りが込み上げるが、しっかりと地面に縫い止められた手足は、ビクとも動かない。
「だって普通あの距離で、俺が的外す訳ないじゃん」
樹の上から発見した、恐らくは昔の井戸らしき跡。
気負わない恭の言葉が最初から、この穴を知っていた事を匂わせた。
恭をこの場所へ誘い出したつもりが、実は己がまんまと導かれていた現状に榮は臍をかむ。
「榮、顔怖いよー? それに言葉遣いも悪いし」
「抜かせ!!」
相手の策に踊らされていた自分が何と愚かで、嘆かわしい事か。
為れど全力で抗った処で矢は抜けず、身体の自由が利かない状態では、榮は吼える事しか叶わない。
嬲るくらいなら早く止めを刺せと叫んだ榮に、恭は一瞬、恐ろしく真剣な表情を見せた。
「子供が生意気言ってんじゃねーよ」
殺すならもっと早くに殺せたよ、と静かに呟いた一言に手加減された事実を思い知る。
あれが恭の真の実力でないとすれば、確かに榮を一瞬で屠る事など容易いだろう。
迂闊にも、恭の口から思い知らされた真実は、取り乱した榮を、一気に冷静にさせた。
「……私をどうするつもりですか?」
「うん? どうもしない。ここで足止め喰らってて」
意外な応えに驚いた榮が何かを言葉を返す前に、恭はひらりとその身を翻し、視界から消え去ると、
本当に榮を置いて井戸からどんどんと遠ざかってしまう。
気配が榮の追尾出来る範囲から完全に消えるその間際、恭の惚けた声が、風に乗って切れ切れに井戸の底へ、届けられた。
言い忘れたけど、その矢は本物だから、時間が経っても消えないよー。
だからもし、其処から抜け出したかったら、服全部、その場に脱いでってねー。
「貴っ様―っ!」
再び吼える榮の声は誰も居なくなった空に虚しく響いて、風が攫っていくに留まった。
「ちょい待ち! 皓、俺だ!!」
茂みを掻き分けた出会い頭、透かさず振り下ろされた皓の剣に恭の悲鳴が、木霊する。
「何だ、恭か。……意外と速かったな。」
刃を寸での処で止めた皓がにやりと笑う。
言外に恭が勝利する事を疑わなかった皓の気持ちが感じられて、恭は照れ笑いをすると、お互いの拳と拳を打ち合わせ、手を鳴らした。
「……行こうぜ。遙ちゃん、待ってる」
「ああ。行こう」
「おや? 榮の力を以てしても、敵わなかったか」
異様な緊張感が高まる中、ふと呟いた來の言葉に伴って、黎はその緊縛から解放される。
いまや黎にも確かに感じられる程度にまで、皓と恭の気配が此方へ近づきつつあった。
「……ふん。仕方ない。不本意だが一旦引くとしよう」
「遙を助けないのか!」
綺菜に追い詰められている遙の逃げ場がもうない。
このままでは皓と恭が此処に辿り着く前に、遙の命が失われてしまう。
遙の命が助かるならば、お前でも構わないと眼で縋る黎に、至極冷たい声音で來は告げた。
「……死ぬのは人間の娘だ」
「何だと?!」
予想外の來の言葉に、黎の注意が削がれた瞬間その場から來の姿が忽然と消える。
それと同時に己を拘束していた見えない力も消え、黎は身体の自由を我が身に取り返した。
後がない遙を一人残してでも來の後を追うべきか、この場で皓と恭の到着を待つべきか。
黎は激しい葛藤の中、結局その場を動く事も出来ずに、立ち尽くす。
――遙は皓と恭を呼ぶように我に命じただけで、助けて欲しいとは言わなかった。
ならば遙を信じて、我は此処で遙の様子を見守るのが最善だと言う事だ。
「為れど遙、お前の命までは落とさせはしない」