秘密(47)
「どうしてお前が此処に居る?」
背後から突然掛けられた詰問に驚く様子もなく、その男は前だけを見て平然と答えを返した。
背中の中程まで伸びた滝のように流れる銀髪が、さらりと音を立てて風に揺れる。
「……黎か……」
何時から其処に存在していたのか。
不覚にもイエンに再度侵入するまで、奴に全く気付かなかった己が腹立だしい。
珍しく感情を覗かせる黎とは対照的に、酷く冷静な声音でその男=來=が言葉を紡ぐ。
「愛しい彼女を見に来てはいけないかね?」
「お前、正気か?!」
怒りの感情が交じったその声にも特に反応する訳でもなく、ゆうるりと來は黎を振り返ると、恐ろしく深い紫紺の瞳で、黎の姿を捉えた。
「口の聞き方に気をつけるべきだな、黎よ」
「!」
來の優雅な口調とは裏腹に、たった一瞬で身体の自由全てが拘束された黎は、奥歯を噛みしめて、唸る事しか出来ない。
「私は至って正気だよ。……彼女が私に助けを求めるのを大人しく此処で待てるほどに」
薄く笑う來のその笑顔が堪らなく、黎の不安を掻き立てる。
暫く黙って黎を観察していた來は、つと別の方向に顔を向けるとほんの僅かだが、その恐ろしく端正な顔に
不快な表情を窺わせた。
「おや? ……黎、鼠を招き入れたのか」
気配を悟られぬよう途中で置いてきた皓の存在に、早くも気付かれて、黎は空を顧みる。
「ああ、大丈夫だ。私は鼠と遊ぶつもりは、毛頭ない」
黎が何か言葉を発するより早く、右手を挙げて黎の言葉を遮ると來は言葉を継いだ。
「この土地に、変わりは幾らでもいる」
來は大地にそっと右掌を宛がうと、低く唄うように囁き出した。
「イエンに縛られし妄執どもよ。我の名において、いま解き放たん。我が名は――」
「貴様っ……何を!?」
來の詠唱と共に地面から無数の土塊が生まれる。
地面を不気味に蠢く無数の其れらは、次第に各々が醜い異形の姿を模し、大地から、揺らめくように立ち上がる。
「真の自由が欲しくば、皓を喰らえ。奴の血肉にはお前達の魂を浄化する力がある」
異形の穴が開いただけの暗い眼窩に、一瞬光が宿ったように見えたのは気のせいか。
彼等は言葉にならない雄叫びを盛んに発すると、皓目掛け深い森の中、先を争うようにして、一斉に消えていく。
自由を奪われ、拘束された黎は為す術も無く其れらを見送った後、來を無言で睨みつける。
「さて、黎よ。少しは楽しみが増えると良いな」
そんな黎の視線を物ともせず、艶やかに來は黎に微笑みかけると、再び遙に眼を向けた。
「本っっ当に舐められたもんだよねぇ……」
「どうぞ、隠れる場所を探して良いですよ、私は見ませんから」
と余裕たっぷりに恭に告げた榮は、言葉通り自ら先に恭に背を向けると、そのまま前方へと歩み、お互いの距離を更に広げる。
「至れり尽くせり……ってか」
榮が背を向けた一瞬、このまま穿ってやろうかなーと、正直頭の隅で考えた恭だが、余りに卑怯な手段なので、
取り敢えずそれは止めておく事にする。
恭は充分な距離を取った榮を眇めた眼で見据えると、浅い溜息を付きながら、注意深く周囲を観察する。
「……にしても、凄いねぇ」
流石に必要以上に遙の加護を受け続けたイエンだけの事はある。
狂ったように辺り一面に生い茂る常緑樹の、その余りの多さに恭は眼を瞠る。
「神に愛されし緑の楽園……イエン……か」
――それも偽りだけどな――
感傷的になりかけた自分の感情を叱咤すると、恭は更に念入りに周囲を見渡した。
枝振りが見事な大木が沢山有るし、幸い隠れる場所に不自由はなさそうだと判断し、移動を開始する。
「おっ?!」
樹の上に居る恭だからこそ、発見出来たのだろう。
膝丈程まで生い茂った雑草に、その存在を半ば以上埋もれさせた、在る物を見つけて、恭の顔に嬉しげな表情が浮かぶ。
「やっぱ、これを利用しない手はない……か」
恐らく地上に居る榮にはまだ気付かれていない「それ」を最大限に利用した戦術を、恭は即座に組み立てると不敵に笑った。
「さてと……皓や遙ちゃんが待ってる事だし、早速始めるとしますか……」
そうだその前に、と恭は呟くと離れた位置に居る榮に、極力陽気な声を張り上げて問いかける。
「榮、戦う前に確認したいんだけど、……お前って卵?」
何気ない問いかけに、榮から咄嗟に放たれた爆発的な闘気が、森に隠れ、完全に気配を絶った恭の直ぐ傍らを、
灼熱と共に駆け抜ける。
「おお怖っ!」
「……それが貴様に何の関係が有る」
榮の、これまで聞いた事が無いほど雑な言葉遣いと低い声に、尋常ではない怒りの波動を感じる。
(一瞬とは言え、これだけ怒るって事は、図星な訳か……)
相手の位置を知る為に鎌をかけた恭だったが、予想以上に榮を動揺させられた事に、密かに満足する。
(榮が咄嗟に放った力は俺に当たらなかった。
……即ち状況から判断して、俺が潜んでいる正確な位置を、榮はまだ特定出来ていないって事だな)
「然し、若いな」
簡単にこちらの策に嵌って、まんまと自分の位置を知らせてくれるとは……。
まだまだ未熟だねぇと思いつつ、恭は弓に矢をつがえると先に打って出た。
「先ずは挨拶代わり! 受け取れっっ!!」
そう宣告して無造作に空に矢を放つ。
特に狙いを定めたように見えなかったその矢は、何故か狙い違わず榮目掛け、一直線に森の中を駆け抜ける。
「なっ?!」
己が潜んでいたその位置を、驚くほど正確に射た恭の腕に、榮は眼を瞠る。
間近に隣接する樹に深々と刺さった矢は、丁度自分の心臓の高さに等しい位置にあった。
「偶然……か?」
「悪いけど俺本気だし、急いでるから次は当てるよー?」
薄暗い森の中を反響しながら聞こえる恭の惚けた声は巧みに彼の居場所を隠し、不覚にも榮をその場から、
容易に動けなくさせていた。
「隠れてもいーぜ。俺見ないしー」
此方の気持ちを見透かしたかのようなタイミングで、自分が先程恭に放った言葉を、そのまま返される。
相手をただの弓遣いだからと見下した、浅はかな自分が歯軋りするほどに、口惜しい。
「最も、隠れたところで無意味だけどねー」
一方同じ台詞を突き返された榮の表情が容易に想像できる恭は、楽しくて仕方ない。
(大体俺は生意気な奴が大嫌いなんだ。悪いが舐めた態度のお礼はさせて貰うからな)
恭は自らもさほど離れてはいない場所に移動すると、何時になく真剣な顔つきで、新たな矢をその手に握り締める。
「なぁ榮、お前の親鳥って誰?」
「言うな!!」
今度こそ榮の逆鱗に触れたのだろう。
吼える榮は最早隠れる事もせず、その身を晒した。
鬱蒼と茂った木々の間を縫って、僅かに差し込む陽の光が、榮の蜂蜜色の髪に柔らかく反射する。
その完璧に整った容姿も相俟って、薄日に照らされた榮の姿は、宛ら地上に落とされた
天使のような美しさを、醸し出していた。
「……ふーん。やっぱ似てるね」
過去視で初めて榮を視た時にもしかしたら、とは思ったのだけれど多分、間違いないだろう。
あの髪の色が、とても綺麗な容貌が。――そして何より同じ瞳の色が、隠された真実を如実に物語る。
「皓ならいざ知らず、俺が間違える訳ないよね……」
……本当は皓より俺のほうが先だったんだ。
遠い昔、初めて逢ったその瞬間に魂を奪われた。……あの日以来、ずっと心は其処に在る。
「――揃いも揃って、鈍いね皆」
面白くなさそうに鼻を鳴らすと恭は、頭の中に浮かべていた邂逅をその場で打ち消した。