情意(44) 〜遙視点〜
一部残酷描写があります。
思わぬ瞭の叫び声に、ほんの一瞬、僅かながらに、気が逸れる。
だがまずいと思う間も与えられず、綺菜の鋭い爪が瞭を狙った。
「――つっ!」
間一髪その爪を自分の身体で食い止める事に成功した遙は、しかし予想以上の綺菜の力に、動揺を隠せずにいた。
「さすがよね。この距離なのに心臓は掠らせてもくれないなんて」
本来、綺菜の様に一時的に『力』を分け与えられた場合、その『力』に永続性は無い。
幾ら自分の気が逸れたとしても、あの一瞬に綺菜が我に還るとは、想像もしていなかった。
狂ったような綺菜の高笑いを、何処か遠くに感じながら、遙は自分の迂闊さを呪う。
『遙、もうその娘の魂は救えない』
それまで遙の言いつけ通り姿を隠し、大人しく傍らに控えていた黎が、不意に耳元で低く呟く。
「……解ってる」
出来る事なら、哀れな綺菜の魂を救ってやりたかった。
瞭の願い通り最期の瞬間に要に逢わしてやる事も、可能だったかも知れない。けれど。
大量の返り血を浴び、全身を遙の紅に染めた綺菜に、最早その選択肢は無い。
『遙の血を浴びた以上、その娘の魂を浄化するのは適わない』
黎の、感情の一遍すら感じさせない、淡々とした物言いが、遙に総じて例外は無い事を、再認識させる。
原因は不明だが、過去無理矢理流された遙の血は、例外なくその血を浴びた彼等を、不老不死へと変えた。
だが同時に絶え間なく続く『血』に対する激しい飢えと乾きは、彼等の精神を苛み、やがて理性を失い
本能だけで動く異形な者へと、その姿と魂を、造り変えてしまう。
死する事でしか救いの無い、そんな異形の者へ綺菜を創り変える事が、有ってはならない。
『遙が手を下せないなら、我が』
『……駄……目……だ』
軽い咳とともに、新たな鮮血が喉から溢れ、更に綺菜を穢していく。
本当にもう他の選択肢は無いのか考えたいのに、痛みのために論理的思考が上手く纏まらない。
綺菜の魂の浄化を駄目にしたのは、己の血が流される事は無いと準備を怠った、遙自身だ。
それなのに、私は結局、綺菜の魂さえ救えないのか? ――無意識に、遙は右手を硬く握り締める。
『遙、残念だが他に術は無い』
冷たく静かな黎の声が、隠した自分の無力さを曝け出しているように、遙には聞こえた。
苦い微笑が、無意識に貌に浮かんだのだろう。
遙の微笑の意味を勘違いした綺菜の顔に、隠し切れない怒気が浮かぶ。
「随分強気ね。……これでもまだ笑えるかしら?」
瞭を言葉で弄ぶのに飽きたのか、身体の中を突き破る綺菜の爪が、腕が、灼ける様な痛みと共に、
心臓目掛けて競り上がってくるのが解る。
内臓が直接触れられる感覚に、生理的嫌悪感から思わず悲鳴を上げそうになるが、寸前で何とか歯を喰いしばる。
「――っ!」
「苦しい? 叫んでも良いのよ」
『何故何も命じない?!』
怒気を孕んだその声に思わず黎を見遣る。
黎は遥か昔に己と契約を結んだ、最初で最後の精霊だ。
黎は常に遙の意見を尊重し、如何なる時も遙が何かを命ずるまで、独自の判断で行動を起こしたりは、しない。
けれど何者にも縛られず、自由気ままな性格である黎に何かを命ずるのは非常に難しい。
『早くしないと幾ら遙でも』
頭の中に切羽詰った黎の声が聞こえる。
普段から遙に対しては冷静沈着な態度しか見せない黎の、こんなに慌てた声は初めて聞いた気がする。
それが可笑しくて、こんな状況なのに何処か冷めた思考で、考える。
『黎……瞭を助けられるか?』
心無い綺菜の言葉に顔色を失くして、その場から動かなくなった瞭の様子が気にかかる。
『遙、子供を庇っていてはお前が危ない』
黎は遙以外には興味がないのだろう。黎が返す言葉は案の定、遙の期待通りの答えではなくて。
『子供は諦めろ遙。あの程度の相手なら、周囲を気にせず遙が本気で戦いさえすれば、簡単に倒せる筈だ』
いくらでも代替の利く人間の子供を、何故遙が懸命に庇うのか、黎には到底その思考が理解が出来ない。
『どちらの命が重いのか考える迄も無い筈。なのに何故、己を楯にしてまで、その子供を庇ったのだ?
そもそも此方に牙を剥いた魔物に情けをかけたのも、全部その子供の所為ではなかったのか?!』
僅かながら怒りを含ませた黎の物言いに、遙は強く首を振る。
『黎……それは駄目だ』
『しかし』
『立場と命の重さは何の関係もない。私も、瞭も命は等しく平等であるべきだから』
それに私は昔、一つの大切な約束を、多くの人間と交わした。
「私達の大切な子供。貴方様の下でどうぞ幸せになれますように」
「この人に過酷な運命が待っているのは理解しています。けれど幸せになって欲しい」
事情があって一緒には暮らせないけれど、愛していないわけではない。
子供や恋人を、生きていく場所が必要な彼等に居場所を与える為に、別れるしかなかった。
愛しているからこそ、僅かな生存に望みをかけて、彼等は遙に大切な人を託したのだ。
或いは特殊な力を持つ自分の為に、世間から隠れるように過ごす家族を想い、自らが進んで遙の下へときた人間は、
皆一様に、残された家族を幸せにして欲しいと遙に願った。
様々な立場の人間と交わした、共通の、大切な約束――
自らに託された愛すべき人々を、彼等の代わりに何が有っても護り抜くと遙は告げた。
何故なら護るべき力が己には存在し、その強さを最大限に活かす術を、遙は知っているからだ。
持てる力が有る以上、瞭を、そして自分の下へ集ってくれた全ての人間を、私は誰一人、傷つけるわけにはいかない。
『私には人間に無い力が有る……それが瞭を、そして数多の人間を、全力で護らなければならない理由、なのだよ』
例え綺菜が完全な魔物になったとしても、元が人間である以上、私は綺菜を助けたい。
行使できる力が有るのなら、それを使わずして、一体何が神だと言う――?!
『……ならば遙よ、どうしたい?』
遙の強い意志に負けたのか、他の事なら我の手を貸してやるがと、黎が渋々耳元で囁く。
黎が瞭を助ける意思がない以上、残された手段は、ただ一つ。
『黎、皓と……恭を此処へ……イエンまで導き入れて……くれ』
『承知』
黎の気配が消えた空を微かに見遣りながら、果たして皓が到着するまで我が身が保つか、纏まらない思考で一瞬、
他人事の様に考える。
……幸い我が身を襲う猛烈な痛みが、直ぐに現実に戻してはくれたが。
横目でチラリと瞭の様子を窺うと、可哀想に激しく怯えている様子が見て取れた。
あの状態では、恐らく瞭は動く事も儘ならないだろう。
何とか瞭の元へ一気に移動しなければ、二人共無事に助かる確率は、非常に少ない。
『瞭を……助けなければ……』
綺菜の唯一の武器である鉤爪は、現在自分の身体に刺さっている。
が鉤爪だけ壊したところで、來の血の影響が続く限り、何度でも簡単に再生するだろう。
ならば少しでも時間を稼ぐには、綺菜の両腕全てを一気に破壊するしか、方法が無い。
何処か恍惚とした綺菜は、遙を玩ぶ事を思いついたのだろうか。
不意に遙を優しく抱き寄せ、更に深くそしてゆっくりと、丁寧に内部を抉り始めた。
「……私は……」
自分の中の神経が悲鳴を上げて切断されていく中、大量の血液が唇から溢れ、綺菜に伝えねばならない言葉の、邪魔をする。
『人と解り合うのは、……やはり不可能なのか?』
綺菜の異常な光を宿した瞳を見つめながら、怪しまれない様に左肩に縋りついて拘束すると、残る綺菜の右腕を、
遙は限界まで我が身に潜り込ませた。
「さようなら。……ただ綺麗なだけの無力な神様」
「――! 遙っっ――!」