自立(04)
一晩大して眠りもせずに考えたけれど、やっぱり僕の気持ちは変わらなかった。
「母さん」
明け方いつものように、台所でご飯の用意をしている母の背中に呼びかける。
「あのね……」
僕は生来自分の気持ちを言葉に表すのは苦手な方で、口下手だ。案の定其処から先の言葉が続かなくて、
僕は黙り込む。けれど母は料理の手を止めて、そのままじっと僕の言葉を待っていた。
「母さん、僕は……」
どう繕っても、自分の気持ちを上手く言葉に表せなくて、僕は途方にくれて下を向いた。
「瞭、母さん大丈夫だから。……良く考えて決めたんだろう?」
思いがけない母の言葉に、僕は弾かれたように顔を上げる。
「どうして?」
「何が?」
「だって僕まだ何も言ってないよ?」
恐らく母は昨日、自分が僕に実子の件を持ち出した時から、本当は薄々予想していたのだろう。
「当たり前だろう。何年瞭の母さんやってると思ってんだい、この子は」
そして母は大きな溜息を一つつくと、自分に言い聞かすように呟いた。
「仕方ないねぇ。子供は何れ巣立つもんだし、瞭は少しその時期が、他の皆より早かっただけだもんね」
明らかに気落ちしたその声に、僕はただ頷くしかなくて、母の背中をじっと見詰めた。
「大丈夫だよ。もう二度と逢えない訳じゃないし、……元気出さないとね」
料理を再開した母は、此方を見ようともせず、ひたすら目の前の壁に向って、猛烈な早口で話し続ける。
まるで沈黙が怖いかのように、取り留めのない話を暫く続けた母は、やがて諦めたように、
小さく鼻をすすった。
「行っといで! 母さんいつでも此処で、待ってるから」
幼いころ、僕は強くて優しいこの母さんが、世界中の誰よりも大好きだった。けれどいつの頃から、
遙が僕の中で母さんを抜いて、一番の存在になって。
逢う度に何かしらに傷ついている遙を、母さんとは違った意味でこの手で護りたいと思うようになった。
「ごめんね」
「子供が親にむかって、気を使わなくていいの!」
「けど……」
僕の言葉が言い終わらない内に、不意に母に強く抱き締められる。慣れ親しんだ彼女のその匂いに、
感触に、僕の瞳から堪え切れず涙が溢れる。これっきり二度と逢えなくなる訳じゃないのは、
お互い理解している。だけど何の拘りもなく、親子として過ごせるのは、多分今日で最後だと言うことも、
哀しいほど理解していて。
「……母さん、母さん!」
「……!」
遙が迎えに来たその日、僕は何か「とても大切な何か」を引き換えに新たな道を選んだ。
決して後悔する事が無いように、考えに考え抜いた末、僕は自ら進んでその道を選択した。
『遙の傍に居て、遙を護りたい』遠いあの日の選択を、僕は現在も間違えたとは思わない。
だから、誰に対しても僕ははっきりと、ここに来た理由を告げる事が出来る。
「違う。僕は遙を護る為にここに来た」
皓を前に臆することなくきっぱりと自分の想いを言い切った瞭の態度に、皓は軽く眉を上げると頷いた。
「解った。……じゃあお前の面倒は俺が見よう」
「えっ?」
「遙を護りたいんだろう?」
返された、皓の意外な言葉に瞭は慌てて頷く。
「明日から、坊と俺は師弟関係になるから、そのつもりでいろ。
生半可な気持ちで挑むと直ぐに挫折する破目になる。覚悟しておけ」
それから俺の事は今後師匠と呼べと告げて、皓は何故かもう一度瞭の頭を掻き回した。
「なあに?」
「小さくても男は男だと思ってな」
不思議そうに皓を見上げた瞭に、豪快に笑い飛ばした後、皓は酷く重そうに静かに呟いた。
「……但し、遙に何も期待するな」
遙の傍に居たいなら、変わらぬ笑顔が見たいなら、己の気持ちを殺す事しか、方法はない。
「?」
「大人になったら坊にも何れ判る時が来る。けど忘れるな。遙には……何も求めるな」
……師匠が言った言葉の意味は、あれから何年か経った現在も、実は良く判らない。
けれど連日厳しい師匠の下で鍛えられ、瞭は確実に強くなっていく自分を感じる。
早く遙を護れるように、早く一人前の大人になれるように、日々一生懸命頑張っている。
師匠が留守にしている間でも、自主訓練以上の事を積極的にこなしてきた僕だったが、
最近ある事をきっかけに、訓練に少しずつだが、身が入らなくなってきている。
原因は自分自身に有るのだけれど、解決方法が見付からなくて、向き合う気持ちが萎える。
現に今も休憩時間は過ぎているにも関わらず、何故か訓練に戻る気が中々湧いてこない。
遙の傍に居たくて話題を探していた僕に、外界から響いた透明な唄声は、渡りに船だった。