憎悪(38)
訊ねたい事も色々有っただろうに、何も聞こうとはせず素直に走り去った瞭の後姿を見届けると、
要は再び泣きぬれる綺菜と向き直る。
「要、あなたは何も知らない」
「?」
「あなたにはイエンで起きた恐ろしい出来事を何一つ覚えていない」
私達を襲った忌まわしい出来事も、村から出ると死んでしまう事も、本当に何一つ覚えてはいない。
「遙がこの地に降りない限り、私達は救われない」
生贄の子供達。水の在処を教えなかった遙。犠牲になった妹。
皆が助けを求めた、あの悪夢の様な日でさえ、彼女は私達を救いには来なかった。
叶えられぬ想いは失望を生み、やがて失望は絶望へ、そして悪意に満ちた憎悪へと形を変わる。
「遙がどうした?」
彼女が憎い。理不尽なこんな生活から、もう誰もが解放されたいと心から願っている。
……後何カ月か後、私は再び生贄に選ばれ、またイエンは滅びの日を迎える。
「助けて要」
「綺菜?」
全身を震わせながら縋りつくように抱きついてきた綺菜を、要は訳も解らぬまま受け止める。
『助かる方法は唯ひとつ。遙を絶望の淵に追い詰め彼女が私に助けを求めれば、その時私はお前の魂を助けよう』
震える綺菜の肩を抱きしめながら、要は必死で綺菜の精神に同調出来るよう、努力する。
綺菜は何かを恐れている。そしてその恐怖から解放される為には、遙が必要だと強く感じている。
(來に捕まった後、綺菜に何がおきた?)
中途半端に戻った自分の記憶がもどかしく、要は歯軋りをする。
自分が思い出せない記憶の底で何か、とても重大な『何か』が起きたのは確かで、それが綺菜を激しく追い詰めている。
「綺菜、俺に教えてくれ。イエンに一体何がおきた?!」
髪に隠れた綺菜の表情を要が覗き込もうとした時、滂沱する綺菜の瞳が、何かを捉えて大きく見開かれる。
「貴方は!」
聞き取れぬ程小さな言葉を囁いて、不意に硬直した綺菜の身体。
綺菜の視線を追う様に要が瞳を向けたその先に、祠の方角を指し示す來の姿が在った。
「遙?」
戻った家に既に遙の姿はなく、探し求めた姿は大木の下で、厳しい表情で何処か遠くを見つめていた。
瞭の気配と小さな呼びかけが遙に届いたのだろう。遙はゆっくりとした微笑みを浮かべると、瞭を手元に呼び寄せた。
「瞭、こっちへおいで」
「なあに?」
「ご覧」
遙が指し示すその先、以前瞭が訪れた際あれだけ堅く閉じていた祠の扉は、何故か跡形もなくその姿を消していた。
「扉が……」
其処には、大人二人ほどで一杯になってしまう程の小さな六角形の空間が、口を空けていた。
窓もなく、部屋の中に有るのは小さな蝋燭立てのみで、酷い圧迫感をその身に感じる。
「こんな狭い所で巫女達は最期まで、唄い続けたんだね」
「ああ」
此処に閉じ込められてから、彼女達の命が尽きるまでの時間は、一体どれくらいだったのだろう。
幼い彼女達の姿を思い浮かべると、胸が詰まって心が痛い。
今にも泣き出しそうな表情を浮かべて祠を見つめる瞭を、遙は暫し沈黙と共に見守ると、徐にその口を開いた。
「……瞭、あとの事は私に任せて、お前はイエンから離れなさい」
「遙?」
急に何を? 一瞬遙の言った意味が解らなくて、瞭は遙に問い返す。
「悪いが詳しいことを話している時間はない。私が瞭を屋敷まで送り届けるから」
「いやだ!」
遙の言葉を最後まで言わせず、瞭は叫ぶ。
「肝心な時に遙はいつも僕を外す。僕に何の説明もしてくれない!」
「瞭!?」
「どうしていつもそうなんだよ! 僕はもう子供じゃない!」
予想しなかった瞭の態度に遙は戸惑いを隠せずに動揺する。
これまで瞭は遙に逆らった事など、一度もなかった。
『よりによって、何故こんな時に私の命令が聞けない?』
先程、微かに感じた來の気配。状況から鑑みて來がイエンに居る事は間違いないだろう。
思ったよりも速い段階で、己の存在が來に気付かれた現在、事態は加速度的に動き出して。
これから先に待ち受ける事態が容易に想像出来る遙には、瞭をこの場から遠ざけるしか方法はない。
子供だから、大人だからと言う問題ではなく、瞭が背負う出来事としては、まだ余りに荷が重すぎるからだ。
「瞭!」
瞭が屋敷に引き取られていなければ、こんなに早い段階でイエンは遙を受け入れなかっただろう。
イエンに於ける最悪な状況を一刻も早く打破したいと焦っていた遙は、瞭がイエンの巫女の『呼びかけ』に反応した時、
それを旨く利用したのだ。
救いを求める巫女の声を、豊作を祈る唄声だと偽り、イエンへの道を瞭に繋がせた。
けれどこれ以上過去の自分の過ちに、何の関係もない瞭を巻き込む訳にはいかない。
「厭だ! 僕は遙の申し子だ。僕は何が有っても遙を護る!」
「瞭……」
頑なに拒む瞭の態度にかけるべき言葉が見つからないまま、最悪の事態が訪れた事を、
遙は背後に感じる凄まじいまでの憎悪で、理解していた。
「遅かったか……」
「綺菜?」
遙がゆっくりと後ろを振り返る。
「そう……そう言う事だったの」
――――激しい憎悪のその先に、憎しみを湛えて佇む綺菜の姿が有った。
「綺菜……?」
それまで綺菜を取り巻いていた優しい感情が消えて、何か、とても厭な何かが綺菜を包み込む。
言葉では表せない違和感に、笑顔で綺菜に近寄ろうとしていた瞭の足が、無意識に止まる。
「おかしいとは思ったの。瞭に遙なんて名前、幾ら何でも出来すぎてるって」
だから逆に疑わなかった。簡単に名前を名乗るなんて、同名なだけだと期待すらしなかった。
降り立った貴方は、性別や年恰好も、髪の色すら私が聞いていた姿とは明らかに異なっていたから。
……けれど。
「瞭は貴方の申し子だと言った」
來が差し示す方向へ、要が止めるのも聞かずに、全力で駆け出した。
此処へ辿り着いた直後に聞いた瞭の叫び。――――最早遙の素性を疑う理由は何もない。
突き上げる余りの激情に、抑えようがない綺菜の全身が奮え立つ。
「貴方があの遙だったのね!!」
殆ど叫び声のような綺菜の言葉に、瞭が不安げな表情を隠すことなく、遙を仰ぎ見て。
「綺菜、お前はどうやって來をイエンへ呼び込んだ?」
そんな瞭を何気に自分の傍らに引き寄せながら、遙は対照的な声音で綺菜に問いかける。
「綺菜は、來と接触しているの……?」
直ぐ傍で漏らした瞭の小さな囁きに、遙は素早く頷く事で肯定した。
「いいえ。私の叫びを聞いて、彼は自らイエンに降り立ってくれたのよ」
どこかうっとりとした様子で來の名を呟いた綺菜は、その時の様子を淡々と語り始めた。