壮絶(26)
取り敢えず瞭をその場から遠ざけ、誰にも侵入出来ぬよう遙は一人周囲に結界を拵える。
要の記憶には著しい偏りがある。
恐らくは來に因って封じられたであろう、最も忌まわしきあの記憶が完全には戻っていない。
全てを知る鍵は其処にあると考えた遙は、要を起こす事なく慎重にその場に横たえると、己が額を要の額に合わせ、
深く精神を同調させる。
――――気を失った要の心の奥深く。
本人ですら把握できない暗い記憶の深淵へと踏み込んで、遙はあの日の記憶を要の心から直接探る。
閉ざされた精神の深い闇。
捉えた記憶の断片を再現させると同時に、遙は要から意識を切り離し、出来る限り広い視野での追尾体験を試みる。
「綺菜―っ!」
誰? 頭の中が薄く膜を張ったようではっきりしない。私を呼んでいるのは……
「要っ!」
要の姿が眼に入った瞬間、それまで曖昧だった綺菜の中で全ての時間が動き出した。
「おや? 人払いをした筈だったが、まだ生き残りが居たのか」
愉しそうに呟いた來がつと見遣った場所には、恐らく元は人間で在ったはずの赤い小さな塊が、
幾つもその場に散乱していた。
「ぐっ……」
その余りの無残な光景に思わず喉が小さく鳴る。
反射的に顔を背けた綺菜に、來は変わらぬ笑顔で優しく微笑みかけた。
「お気に召さなかったのかな?」
残酷に村人の命を奪っておきながら、不思議そうに平然と問う來の声音に、背筋が寒くなる。
私は……もしかしたら私は『願う』相手を間違えたのかも知れない。神は神だが、この男は――――
異質の者に対する恐怖から、綺菜の身体は自然と震え出した。
「さて、あの少年はどうしましょうか」
口調だけは優しいが、來が生き残った要に容赦の無い行動を取る事は、容易に想像がついた。
「……逃げ……て。逃げて要!」
揺れる大地の上を何度も転がりながら、それでも必死で此方へ近づいて来る要の姿が見える。
「知り合いですか?」
どこか楽しげに問う來に、必死で縋りつく。
「お願い助けて。要は私のたった一人の弟なの」
私が護りたかった唯一の人物。とうとう最後となってしまった、自分のたった一人の家族。
孤独と飢えに苛まれる祠の中で、私が辛うじて正気を保っていられたのは、要の存在が
常に心の中に在ったからだ。
時に意識が朦朧となっても、頭の片隅では、常に弟で有る要の事を考えていた。
『私は要を置いて先に逝くけれど、せめて要だけは、幸せになって欲しい』
それだけを何度も想い、切に願った。……それなのに私自身が要を。
「今回の件に要は何の関係も無いわ。助けてあげて」
私の命なら今直ぐ貴方に捧げるから、だから要だけは助けてあげて。
「そうですか」
必死の懇願さえ最後まで言わせず、來は綺菜の言葉をぴしりと遮った。
「貴女の大事な身内、ですか」
優しげに呟いた來の言葉に少しだけ安心した瞬間、彼はより一層深く微笑むと、こう答えた。
「貴女の願いは、聞き届けられた」
「えっ?」
縋りついた綺菜の手をとって、更に自分に引き寄せながら、來は優しく繰り返す。
「願いを違える事は出来ない」
飽くまでも優しい微笑み。見惚れるほどの完璧なその微笑みに、何故か悪寒が止まらない。
恋人のように甘く優しく、耳元で。……けれど残酷に、來は囁いた。
「彼も、村人なのでしょう?」
……來の言葉の意味が把握出来るまで、綺菜はただ馬鹿みたいに口を開けたままだった。
ドーン!
地の底から突き上げる様な振動に、我に返った綺菜が見たものは、信じられない光景だった。
「始まったようだな」
小さな笑い声を上げて來が示したその先、ひび割れた大地を押し退け、御神木の根元から巨大な水柱が天高く立ち昇る。
突然の出来事に綺菜が悲鳴を上げる暇もなく、村の至る箇所で同じ現象が、競うような勢いで始まった。
驚き逃げ惑う人々を簡単に攫い、巻き込んで流れる水の勢いは凄まじく、かつての村の象徴であった御神木さえも、
その木に縋る要ごと、ゆっくりと厭な音を立てて、傾ぎ始めていた。
「うわっー!」
要の絶叫と、巨大な御神木が押し寄せる濁流についに耐え切れず、その身を任せたのは、どちらが先だっただろう。
「綺菜!」
叫ぼうとした要の喉は、音を立てて流れ込んでくる水にその場を奪われて、声にもならない。
土塊や岩をも巻き込み、荒れ狂う濁流の中、自分がまるで木の葉の様に奔流される様を、要は全身で感じていた。
激しい水の流れに飲まれまいと、要は掴んだ縄に更に力を込めたが、大木自体が激しい流れの中、小枝のように回転と浮上を繰り返す。
天地すら正確に把握できない状態に、幾度となく意識を手放しかけて。
朦朧とした状態の要を、不意に凄まじい衝撃が襲った。
「?」
それは偶然が引き起こした現象だったのか。
流された大木は水中に一瞬深く沈みこんだ際、村の象徴で有った大鳥居にその枝を絡ませ、奇跡的に動きを止めた。
けれど押し寄せる濁流にそれ以上抗う術もなく、大木は大鳥居と共に非常に緩慢な動きで、その身を水中へと沈めていく。
(これまでか)
自身と水上との距離がどんどん遠くなるのを、要は薄れいく意識の中で確認していた。
(綺菜……)




