深悼(20)
「キュッッー」
随分長い間独りで泣き続けた気分だけど、本当は一瞬の出来事だったに違いない。
存在すら忘れかけていたそれの鳴き声に、俺は慌てて我に返る。
「お前無事だったのか?」
鳴き声のする方向に眼を向けようとしても、何故だか身体が全然言う事を聞かない。
仕方なく手を伸ばしてそれを抱き寄せようとしたが、どうしてだか、腕すら思うように上らなかった。
「……ごめん。俺、お前の顔見えないや」
「キュー」
悲しげに小さく鳴きながら、俺の身体の上に登って来たそれの無事を確認すると、少しだけ絶望的な気分が和らいだ。
(お前だけでも怪我が無くて良かった……)
「ごめんな。巻き込んで」
言葉にすると本当に辛くて、目尻から自然に涙が溢れ出す。
結衣もごめん。助けて上げられなくて本当にごめん。俺は何も出来なかった。
心配そうに覗き込むそれが、慰めているつもりなのか、俺の頬を遠慮がちに少し舐める。
その奇麗な紅い焔のような眼に、倒れている自分の姿が映って更に哀しい。
「残念だけど俺、もうお前の事飼えないや」
本当に残念だけど。けどお前、実は逸れた訳じゃないんだろう? ……こんなに賢いのだから。
「……飼い主の所にお帰り」
「キュリリリリー!」
突然、全身の毛を逆立てて、夜空に向って、断続的に大声でそれが吠え立てる。
駄目だよ。大きな声で鳴くと彼等が戻ってきてしまう。そうしたらきっとお前まで殺されてしまう。
俺なら大丈夫だから、早くここからお帰り。
……けれど俺の唇はただ戦慄くばかりで、もう言葉にもならなかった。
「……アビ、其処に居るのか?」
尚も激しく鳴き続ける声に重なって、何処からか澄んだ声が聞こえたような気が、した。
――そのまま深く沈みこむ筈だった俺の意識を引き戻したのは、爆発的な光の洪水だった。
最初俺は村人がこいつの鳴き声を聞きつけて、戻ってきたとばかり思って、最悪の事態を想像したのだけれど。
「な…?」
月光にしては余りに眩しい光に、恐る恐る薄目を開ける。
その痛いほど清浄な一筋の光は、天上から真っ直ぐにそれの居る場所に降りていた。
そしていつの間に傍に来たのだろう、逆光で良くは見えないが、確かに誰かが、然も自分の直ぐ傍に居るのが解る。
「どうしたアビ?」
他人の声が全く聞こえなかった筈の俺の耳に、少年にしては高く、少女にしては低い、性別が良く判らない
不思議な響を持つ声が聞こえる。
「……そうか。それで?」
まるであの生き物と会話でもしているように、いや多分何か会話をしているのだろう。
その人影は何度もそれと、声を掛け合っていた。
「……それは駄目だ。私は人の生に干渉してはならない」
「キューッ!」
怒りを含んだその鳴き声に、深く長い溜息が聞こえた後、不意に真横から俺の視界に、この世の者とは思えない程、
恐ろしく整った容貌を備えた人物が映り込んだ。
至近距離でのその奇麗さは、思わず天国からお迎えが来たのだと、一瞬真面目に思えるくらいで。
「大体の事情はいまアビに聞いた」
「キュッ」
隣であの生き物=アビ=が嬉しそうに甘え鳴きしたのを聞いて、この人が飼い主だったのかと、
妙に納得してしまった。
反応の無い俺に少し眉根を寄せると、思った以上に酷い怪我の状態に気付いたその人は、
何かに苛立った様な素振りで、不思議な光に包まれた左手を、そっと身体の上に翳した。
「……子供に何て酷い事を」
―― これは何? ――
温かいその光に包まれると、それまで動かなかった腕が、身体が、痛みさえ無く元の状態に戻る。
けれど淡い光に照らされたその人が、余りに奇麗過ぎて、自由になっても其処から視線が外せない。
機敏に動かない俺の上半身を起こして岩に座らせると、その人は真っ直ぐに此方の瞳を覗き込んで、性急に問うた。
「……助けたいか?」
息が触れるほどの至近距離でいきなり問われ、俺の惚けた頭が一瞬混乱するが、直ぐに結衣の事と気付き必死で頷く。
「残念だが、妹はもう助けられない」
連れ去られた結衣の泣き顔が脳裏をよぎって、思わず激しく首を振る。
「聞け。私がいまあの祠を壊して、彼女を助けるのは至極簡単だ。だが問題は更に複雑になり、
最悪の場合私への貢物が、お前達一家全員になりかねん」
「貴女への?」
俺の不思議そうな顔に気付いたその人が、微かに苦く笑う。
「ああ、済まない。言い間違えたよ。 巫女は神への生贄に一度その身が決まると、責務を避ける事は叶わない。
……残念だが」
「妹は、生贄なんかじゃない! ただ神に唄を捧げるだけだ」
俺の激しい否定の言葉に、その人は一瞬だけ、濃い碧の眼を眇める。
「妹は! 結衣は、儀式を終えた後に家に帰ってきて、それで俺達家族全員で、一生幸せに暮らすんだからな!」
涙声の自分に驚きながら、それでも結衣は、結衣だけは違うと、自分自身に言い聞かせる。
……どうして巫女達は家族の元へは帰らないのか。――――否、帰れないのか。
俺だって本当は解っている。選ばれた巫女はどうなるのか。何故祈りを終えた巫女の、その後の行く末を
誰も話したがらないのか。
「……」
そっと肩に触れられた途端、ずっと堪えていた感情が涙と共に堰を切った様に溢れ出す。
結衣を助けたい、それは切ないほどの、純粋な『想い』けれどそれが自力ではどうしても叶わない事だと
解っているから、今度は『願う』しか、残された術は無くて。
「神様なんでしょ! 結衣を助けて!」
俺の台詞にその人――遙は驚いたように眼を見開いた。
そう、もっと早く気付くべきだった。碧の瞳を持ち、手も触れずに俺の怪我を一瞬で治せたこの人なら。
――そう神様なら、不可能な事なんて何一つ無いはずだ。
「お願いだよ。俺達の願いを叶えるのが神様の役目だろ!」
責めるべきは本当は無力な自分だと解っている。己の身勝手さも承知の上だ。
けど眼を瞑り、耳を塞ぎ、都合の悪い事は棚上げする以外に自分の「心」を護る術は無い。
感情のまま言葉を紡ぎ続ける俺に、絡まった遙の碧眼が一瞬、不安定に揺れた。
「……私には、お前の妹を助ける事は出来ない」
結衣を助け出した処で、村人は儀式を行う事を、決して諦めはしないだろう。
むしろ儀式の邪魔をしたと見做されて、家族全員の命が犠牲になる可能性のほうが極めて高い。
巫女一人を助ける事によって、お前達全員の命を失わす訳にはいかない――
「どうしてだよ! 助けてよ!」
「……済まない」
心の底から吐き出された……その微かに震える睫毛と、強く噛み締めた唇に遙の痛みを強く感じる。
それは思わず俺を正気に返す程の痛みで。
「……ごめん」
――神様が傷つくなんて、正直俺は考えた事も無かった。神様はもっと強い者だと、勝手に想像してた。
けれど実際目の当たりにするこの人は、凄く人間の負の感情に敏感だ。
同時に神様なのにこの人の精神は、こんなに脆くて大丈夫なんだろうかと、ふと思う。
「いや、……私こそ済まない」
お互いに謝りあう気不味い雰囲気に、俺は軽く咳払いして、口を開いた。
「俺には、ううん。俺だったら、何か出来る事が有るんだね?」
俺の決意に遙はゆっくりと頷いた後、但しお前次第だが、と前置きして説明を始めた。